第二十話 『彼女』
カチカチと、マウスを操作する音だけが、辺りに響いていた。薄暗い部屋の中、一人の女性がパソコンのモニターに向かっている。数台のデスクとそこに並ぶパソコンと細かな字で埋め尽くされた紙の束やファイル。そんな物しか無い部屋は酷く無機質で、何処かの研究室を彷彿とさせた。
そんな中で、彼女はひたすらモニターを見詰め続ける。モニターに映されているのは、只の数字――それも、0と1のみで構成されている、無意味にも見える数字だった。彼女はそれを高速でスクロールし、読み続ける。他人が見れば、本当に読めているのか不思議がる程の速度だった。
「…………」
彼女の瞳が、瞬く。同時にマウスに置かれていた指先も離れ、そして動いていた画面も止まった。彼女が疲れたように頭を振ると、それを追って長い髪が揺れる。ため息にも似た吐息を漏らし、彼女は目を伏せた。
――まだ、五割と言う所かしら。
冷静に今までの自分の仕事を思い返し、彼女は思う。
――分析出来たのが五割でも、正常稼動するんだから面白いわね。
音が聞こえそうな程の大きな吐息、否今度は本当のため息を彼女はついた。眼鏡を外し、それを机の上に置く。静かな部屋に、それは大きく響いた。彼女はそのまま目を開いたが、裸眼で見る画面は不出来なバーコードのようにしか見えない。そんな風に思えた画面に、彼女の唇から笑みが零れた。それは酷く卑屈な――自嘲とも取れる笑み。
――どんな物もデータ化出来るなんて戯言を言った人間が居たけど、本当だなんて滑稽だわ。
思えば思う程、彼女の唇からは笑みが零れる。周りには誰も居ない為、狂気を含んだ彼女の笑みは止まらなかった。
その戯言を彼女に吹き込んだのは、高校に通っていた時に教わった物理の教師だった。何時も白衣を着ていて無精髭を生やしている、外見に全く関心を払わない人物で、一部の生徒からは嫌われていた。だが、彼の授業は興味深く、何より知識が豊富で。彼女はその頃から酷く物理に興味を持っていて、暇を見つけては彼から話を聞いていた。
――思えば、あれは初恋だったのかしら?
その頃の自分を思い返せば、そうも呼べる淡い想いがあった気もする。確かに最初は知識的な興味が先行していたが、途中からはその博学さからか人格からか、彼と会話する為よりは彼自身に会う事が目的となっていた。今思えば、それは十分恋と呼べる物だったかも知れない。
もう他人ともなってしまった過去の自分を思い返し、彼女はそんな風に考えた。
――……こんな想いも、データ化出来る。
思考が向きを変え、止まり掛けていた彼女の笑い声が再び蘇る。人の思考は結局の所、微弱な電流が脳を駆け巡る行為に過ぎない。それならば、それすらデータと成りえると彼女は考え……だから、嘲笑ってしまう。彼女は狂気染みた笑い声を上げながら、それでも何処か冷静にそれを見る自分を認識していた。
――もう、私は狂っているのかも知れない……
そう思いながらも、彼女は自分を止められない。今起こっている事も、これから起こるであろう事も。彼女自身、止める気すら無いのだから。