01. ダリアの妹 【ダリア】
「いいですか、お姉さま。この世で最も美しく尊い言葉、それが『真実の愛』なのです。心臓がキュンキュンするのは幸せ。幸せになれば世界は平和。恋が世界を変えるのなら、『真実の愛』なんて、わたくしに言わせれば神からの啓示ですよ。すべてのご本はお姫様と王子様の出会いから始まり、チッスで幕を閉じるべきなのです。聞いていますかお姉さま!」
目の前で朗々と語るのはマーガレット・フライベルク侯爵令嬢――ダリアの妹だ。
七歳のダリアの二つ下である。
五歳とは思えない流暢さで、覚えたての難しい言葉を得意げに並べている。
「え、ええ。ちゃんと聞いているわ、メグ」
「メグ」とはマーガレットの愛称である。
頭上で木の葉がこすれて涼やかな音を立てた。
屋敷の裏庭の木々に囲まれている小さな空間は、ダリアにとって唯一羽を伸ばせるちょっとした秘密基地だ。
向かい合って座り込んでいるマーガレットにとっても同じだろう。
「よしよし。では、お姉様。せっかく一緒に遊べるのに、なぜ貝の図鑑なんて持ってきたんです。わたくしは読みたくないわ」
「でもね、メグ。貝の図鑑は面白いし、役に立つわ。ほら、蛤は『逃避行動』といって、外敵から逃げるそうよ」
「逃避なんて。『真実の愛』さえ眺めていれば、じ――ジ、ジヌ、ジヌル……」
「……人類?」
「そう、それ。ジンルイは何からでも逃げることができるのよ」
マーガレットはやれやれと首を振る。
眼を細めて小さな人差し指を振り回すさまは、大人ぶっているらしい。
マーガレットの背に沈丁花の木が見えた。
花はすっかり散って久しいが、若葉が鮮やかである。
初夏の爽やかな空気の中で、木漏れ日が肌の上に暖かく心地よい。
「今から大事なことを言うので、耳の穴をかっぽじってよく聞いてください。世界の喜びはすべて恋の楽しさのためにあり、苦しみはすべて恋の切なさに終結するのです。短い人生を生物学なんて無益なものに費やすなど、愚の骨頂!」
「そ、そういうものなの……?」
「太鼓判を押します。お姉様は婚約者とラブラブすることだけ考えていればいいのですわ。完璧王子と呼び声高い、麗しきナルシス殿下! ああ、二人の恋が待ちきれない」
「そ、そういうものなのかしら……」
マーガレットは自信満々に「もちろん」と笑い、腰に手を当てていばりんぼの姿勢である。
「分かったわ、メグ。気をつける」
ダリアがしょんぼりと肩を落とすと、マーガレットは少し鼻白んだようだ。
「お姉さまは、貝が好きなの?」
「好きとかじゃないけど……今日はこの本しか手に入らなくて」
「変なお姉さま! お父様とお母様に絵本をおねだりしたらいいじゃないですか」
ダリアは胸を詰まらせると、やがて苦笑した。
「おねだりできるのは、メグがかわいいからよ」
ダリアの言葉を聞いて、マーガレットはきょとんとすると、やがて鼻の穴を膨らませる。
「ふふん。わたくしはかわいいですよね」
事実、ダリアはこの妹よりかわいらしい人間を知らなかった。
ミルクティー色の巻き毛も整った顔立ちも、何より無邪気な笑顔が、飛びぬけて愛らしいと思うのだ。
マーガレットはドレスの裾を揺らしながら立ち上がると、小さな両手で太陽を仰ぐ。
「このかわいさでもって、わたくしは社交界の覇権を握ってみせます。伝手を駆使して、お姉さまとナルシス殿下の仲を取り持ってあげますよ。お礼はこっそりラブレターを見せてくれたら十分ですからね」
「この年頃の女の子って、みんなこんな感じなのかしら」
「早く見たいなあ、お姉さまとナルシス殿下のアツアツ結婚式。その頃にはわたくしもこの家を継いでいるでしょうから、最高のウェディングドレスを仕立ててさしあげますね」
マーガレットは夢見がちなところがやや心配ではあるが、優しくてかわいい妹である。
「先の話ね。いつか本当にそうなるのかしら」
「近々の話だったら、わたくしは今お姉さまを目指して勉強しているので、そのうち追い抜いちゃいますね。お姉さまとナルシス殿下の勉強も教えてさしあげます」
「頼もしいわ」
ダリアがほほ笑むと、マーガレットは小さな顔をくしゃっと歪めて満面の笑みを浮かべる。
裏庭に陽光が差し込む。
草も、花も、緑にもえる葉も、マーガレットの髪も、何もかもが輝いて見えた。
「仕方がないですねぇ。今日はお姉さまの図鑑で遊びましょうか」
マーガレットはダリアの隣に座って、膝を寄せてくる。
ダリアは膝の上に置いた図鑑をぱらぱらとめくった。
「蛤は逃避行動をする。サザエは巻貝の一種」
「蛤はお姫様。サザエは王子様。チッスでハッピー・エバー・アフター」
「お嬢様!」
腰ほどの高さのある植え込みをかき分けて、若い女性が飛び込んできた。
姉妹が住む屋敷の離れに勤めるメイドだ。
「ダリア様、大奥様が」
青ざめたメイドのかすれ声に、ダリアの全身が総毛立つ。
慌てて立ち上がったダリアのドレスの裾を、マーガレットが掴む。
「大奥様って、離れに住んでいるおばあ様? お姉さま、おばあ様に会うんですか?」
マーガレットが顔を真っ赤にして、じわりと目に涙をためる。
「なんでお姉さまだけ? わたくしも行きたい」
マーガレットが離れの祖母に会うことは、両親から禁じられていた。
「メグ、ごめんなさい。すぐ戻って来るから」
ダリアはマーガレットのふわふわの頭をなでると、離れに向かって駆け出した。
***
メイドと共に離れの廊下を小走りで通り過ぎる。
古い床板が踏むたびに気味の悪い音を立てた。
「おばあ様、昨日はお元気だったわ。わたくしの武術の稽古までつけてくれていたの」
「容体が急変されて……」
「大丈夫よ、絶対大丈夫」
言いながらも、既に泣きそうだった。
すくすく伸びていく自分の小さな腕に重なるように、みるみる弱弱しくなる祖母の腕を見てきている。
頭が真っ白になる絶望だった。
「おばあ様は、七つのわたくしよりずっと強いもの。何も起こるはずなんてないんだわ」
乳歯が抜けたばかりの顎がかくかく動いて同じことを繰り返す。
北向きの薄暗い寝室で、数人の下働きが祖母を看病している。
薬のツンとした匂いが鼻腔を突いた。
まだ医者も来ていない。
父母はなぜ来ないのだろう、隣に住んでいるのに。
「ダリア」
奥のベッドに駆け寄って皺だらけの手を取ると、祖母はかすれた声で言った。
「お父様、お母様と、仲直りさせてあげられなくて、ごめんね」
「大丈夫よ、おばあ様」
ダリアはいかにも自信があるかのように頷いて見せる。
「たくさんの人を支えたおばあ様みたいに、わたくしなってみせるから。おばあ様のようになれば、お父様もお母様もわたくしのことを認めくれて、すぐに仲良くなれるわ。メグもおばあ様に会いたがっているの。みんなで一緒に暮らしましょうね」
剣を握りすぎて硬い祖母の手を撫でる。
そのかさついた手に、あまりに精気がないのでダリアは愕然とする。
祖母はダリアの言葉を聞いて、苦し気に顔をゆがめた。
「あげる」
祖母がダリアに手渡したのは、細かな金細工の中に紫水晶がはめ込まれたネックレスだ。
祖母がいつも身に着けているものである。
ひんやりと冷たいネックレスを、ダリアは無意識に強く握りしめた。
「ごめんね」
結局それが祖母との最期になってしまった。
***
ダリアには嫌いな光景がある。
マーガレットが両親と手を繋いで楽しそうに歩いていく。
ダリアはその後ろを、なるべく気配を消して歩いていく。
マーガレットの首には、紫水晶のネックレスが掛かっている。祖母がいつもつけていたものだ。
***
五年が経った。
ダリアの十二歳の誕生日の夜だ。
珍しく両親の寝室に呼び出されたので、ダリアは浮き立って扉を開けた。
寝室の中は空気が淀んで蒸し暑く、ダリアは知らず知らずのうちに額に冷や汗を浮かべる。
赤いベッドの前に揃って立っていた両親は、不機嫌そうに言い募った。
「あなた、メグと距離が近すぎて、少しどうかと思うわ。メグがあなたの真似をしたら困るでしょう」
「お前は勘違いしている。女は武術や勉学ができたって、役に立たない。おばあ様は運よく戦場で生き残ったことを、死ぬまで鼻にかけていた。恥ずかしい思いをするのは、私たちなんだぞ。メグには人に愛される才能があるのに、どうしてお前は妹のようにできない」
「お父様とお母様は、あなたの将来を思って言っているの。それに、あなたが姉なんて、メグがかわいそうだと思わない?」
ダリアは俯き、薄手のドレスの裾を握りしめた。
こういう叱責が増えた。
マーガレットはダリアと一緒に遊んでいるとき楽しそうなのに――あんなに楽しそうだったのに、ダリアのいないところで両親に何か言いつけているらしい。
そして、両親がダリアを貶すとき、マーガレットは決して口を挟まない。
ダリアはそうしたことを直接マーガレットに聞けなかった。
聞くのが怖かった。
そもそもここ数年、ダリアとマーガレットが一緒にいる時間は、ほとんど無くなっていた。
「メグに」
ダリアは声を引き絞る。
「メグに聞いてもいいですか」
両親はみるみる眉を吊り上げると、冷たくため息をついた。
ダリアは背後の扉から逃げ出したくなったが、身体がすくんで動かない。
――口答えばかり。メグは素直に育ったのに。
――メグの気立ての良さを見習えないものか。
口々に言われる言葉がダリアに重くのしかかってきて、ダリアは小さく身を縮める。
頭上から父親の硬い声が降ってきた。
「メグが愛称で呼ばないでほしいと言っていた。優しい子だからそぶりには出さないが、メグだってつらい思いをしているんだ」
翌日の昼食後、廊下にマーガレットの髪飾りが落ちていた。
初夏の蒸し暑い空気の中で、大ぶりの造花の髪飾りは影に沈み込んでいるように見えた。
両親から髪飾りを貰い、大喜びしているマーガレットを見たことがある。
ダリアが勉強や鍛錬をしている間、マーガレットは基本的に社交に出ているらしい。
人前で髪飾りを無くしたことに気づいて、慌てたりしたら大変である。
マーガレットが屋敷の近くの茶会に出ていることは知っていたので、ダリアは届けに行くことにした。
門番に忘れ物を届けに来たと断りを入れて、着飾った人々の間を縫うように歩く。
カップや皿がぶつかる音の間に、華やかな笑い声が聞こえた。
マーガレットは貴族の子弟達に囲まれていた。
窓際の席で昼光を浴びながら、マーガレットは楽しげに何か話している。
待とうか少し迷ったが、ダリアには勉強がある。
「マーガレット。髪飾りを落としていたわ」
そっと輪の中に入って言うと、マーガレットは目を丸くして、小さな声で問う。
「なぜ、そんな呼び方をするの? わたくし、何かしてしまいましたか」
その途端、妹を取り囲んでいた男達がダリアを詰りだした。
かわいらしい妹に嫉妬している。頭でっかちで地味な女のくせに。
「皆様、おやめください。わたくし、皆様と楽しくお話ししたいですわ」
妹は目に涙をためて、ダリアといる時より数段高い声で言う。
ダリアはこの妹よりかわいらしい人間を知らないと思う。
きっと誰もが同じことを言うだろう。
現に、この一言だけで男性陣は一瞬で静かになった。
いつからこんな関係になってしまったのだろう。
茶会から逃げ出し、屋敷を飛び出し、前庭の高い石塀の影に隠れてしゃがみ込んだ。
人のいない前庭は、広間に比べてひどく静かだ。
青い空から降ってくる日光に、腕の皮膚がひりひりと痛んだ。
「メグ、紫水晶のネックレスは、わたくしのよ」
口に出してから、自分の声が震えていることに気づいた。
祖母が死んで三ヶ月も経たないうちに、ネックレスはマーガレットのものになってしまった。
「おばあ様の形見なの。わたくしの」
喪が明けるころには、マーガレットが人前でそのネックレスを付けているところを、まともに見たことがない。
「返して」
その日から、二人はほとんど言葉を交わすこともなくなってしまった。
毎晩「ラブラブバカップルのイチャイチャが書けますように」と神様にお祈りしていたら、姉軸も妹軸もとんでもない糖度(当社比)になってしまい、「誰がここまでしろと言った」と砂を吐く口を押さえながらたどる創作生活は、悦楽以外の何物でもありませんでした。
皆様にも楽しんでいただけますように。




