0 はじめて恋をした日
とある女子生徒の独白
私はあの日のことを、今でも鮮明に覚えている。あれは、ランドセルを背負い始めてから三回目の夏だった。家族でショッピングモールに来ていた。何を買ったのかは覚えてない。新しい夏服かもしれないし、ご飯の材料かもしれない。でも、私にとってはそれはどうでもいいこと。だって、その日を境に私の人生は始まったのだから。
その日は休日ということもあって、人混みがすごかったことは覚えてる。手を引いてくれるお母さんの後ろをちょこちょこと歩き、黒か白かの興味もない二択を迫られていたように思う。退屈で、つまらなくて、早く帰りたかった。
その時、一人の男の子とすれ違った。
本当に一瞬の事だった。けれど、私にとってはコマ送りの映像みたいに世界がずれた。
音は耳に入らず、目の焦点は自然とその子を追いかけていた。心臓は忙しなく跳ね踊り、熱に浮かされたように脳がそれに支配された。必然的に私の足は止まり、両親は強引に私の手を引いた。そう、彼と私を引き裂こうとしたのだ。
彼は特段顔が整っていたわけではない。背も私より小さいくらいで、着ている服もキャラクターをプリントした至って普通の物。なのに、どうしてあんなに目を引いたのだろう。
彼は柔らかな雰囲気を纏っていた。とても優しそうで、一緒にいたら心が温まりそうだった。でも、それだけじゃない。彼は母親らしき人と話していた。耳の奥を梵天で擽るような心地の良い声、例え雑踏の中でさえも、はっきりとそう感じた。
気付けば私は一人で歩き出していた。両親の手を離し、彼の後ろに付いていった。おもちゃ屋、服屋、雑貨屋、本屋。どこへでも、どこまでも。ずっとずっとずっとずっと、彼の姿を目に焼き付け、彼の匂いで肺を満たし、彼の声を脳裏で反響させ続けていた。
ショッピングセンターで一人になるには初めてだったけど、怖くなんてなかった。見失いたくなかったから。世界で一番愛しい彼を、いつまでも感じていたかったから。
結局、彼が帰りの車に乗るまでそれは続いた。車が見えなくなるまで立ち尽くして、楽しかった夢を思い起こすかのように、彼を反芻していた。
家族は大慌てだったらしい。運命が味方してくれたのか、両親と私はすれ違わなかった。呼び出し放送をしても見つからず、警察に相談するところだたらしい。彼らは大粒の涙を流しながら私を叱った。勝手にいなくなるな、どれだけ心配したかと思っている、もう二度とひとりになるな。そんなようなことを言っていたと思う。
自分で言うのもなんだけど、私はいい子だった。学校では何も問題を起こさず、家では親の言うことをよく聞いていた。手のかからないいい子と何度言われたことか。
そんな私は両親の叱責を受けて、何も感じることが出来なかった。だって、彼の事で頭がいっぱいだったから。あの目あの口あの服あの声あの歩き方あの歩幅あの匂いあの髪型。風呂場で布団の中で学校で、気付けば私はその子の事ばかり考えていた。
もう一度、彼に会いたい。
私はそれ以降、何度もおなじショッピングモールへ通った。時には家族と、時には一人で、時には友達と。何度も何度も。けれど彼には会えずにいた。夏の暑さが去り、秋が来て、寒い冬になって、桜が散った。季節が一巡してしまった。その頃になると、彼にはもう二度と会えないんじゃないかって思いつめていたと思う。なんであの時、彼の家まで追いかけなかったのか。そんな後悔が私の頭を苛み始めた頃、奇跡は再び起きた。
同じショッピングモール、同じ通路で、彼は変わらぬ柔らかな雰囲気を纏っていた。一年間追い求めてきた姿を見間違うはずもなかった。背は少し伸びていた、顔立ちはちょっと大人っぽくなってた、声の高さは一切変わってなかった。
彼をもっと近くで、もっと濃密な彼を。もっと、もっと。でも、怪しまれないように。やがて彼は家族とともにベンチに座った。私は反対側に座った。そして知った。
しゅう
彼の母親が彼の事をそう呼んでいた。私は心の中で繰り返しその名を唱え続けた。しゅう、しゅう。なんて書くんだろう。
さらに幸運なことに、来週に彼の学校で運動会がある事も知れた。
来週に運動会がある学校。私は帰宅した後、学校一覧を調べ、運動会の日程を調べて、ついに見つけた。しゅう君が通っている学校を。
夕ご飯、その日は私が好きな肉じゃがだったと思う。熱々の料理が食卓に並べられ、両親が向かいに座っている。私はその場でお願いをした。あの学校に転校させてほしいと。両親は酷く混乱していたと思う。なにか嫌なことがあったのか、もしかして虐められているんじゃないか。心配そうに私に詰め寄る両親に、面倒臭さを覚えたのは記憶してる。なんの理由もなしに転校が成功するなんて思ってない。好きな子と一緒の学校に通いたいから、なんて言ってもどうせ断られる。
溜息を吐き出して、予めポケットに忍ばせてた果物ナイフを首にあてた。冗談でもやめろと顔面蒼白になりながら叫ぶ両親に、冗談ではないと手にぐっと力を込めた。冷たく鋭い痛みが走り、つうと生暖かい液体がナイフを伝って手を流れる。
「転校させてほしい、じゃないと死ぬ」
しゅう君と会えない人生なんて意味が無い。もっと彼を近くで感じていたい、ずっとずっと彼と一緒に居たい。できるなら彼の家族になりたい。でも、それはできないから妥協した。これでも譲歩しているのに。
今思えば最低な娘だ。親不孝者と罵られるに相応しい所業だ。
でも仕方ないよね、だってしゅう君と一緒にいることは何よりも大切なんだから。
一か月後、私は新しい学校の門をくぐった。夏の日差しが彼との生活を祝福するかのように照り付ける中、私は黒板の前に立っていた。黒板に名前を書き、彼の顔を見ながら自己紹介する。
やっと、私の事を知ってくれたね。
私も君の事を知れたよ。
加賀美 宗
彼と一緒の空間で過ごし、彼と一緒の授業を受けて、彼の隣で笑う。これこそが幸せなんだね。
だから、私は彼とずっと一緒にいる。誰よりも近くに、誰にも渡さないように。そうするべきだと決意した。
だって私は、あの日から恋しているのだから。




