第34話 「それでも、音を選ぶ」
演奏会から三日後。
大学構内は、何事もなかったかのように静かだった。
けれど、悠花たちの時間だけが、止まっていた。
学長室の前。
重たい扉を前に、四人は並んで立っている。
紫苑は、いない。
それが、すべてを物語っていた。
「――結論から申し上げます」
学長は、低く、慎重な声で切り出した。
「碧山紫苑さんの今後の履修については、
クラシック専攻一本に限定ということで、
碧山凛子先生の意向を尊重します」
その言葉に、
悠花の胸が、ぎゅっと縮む。
「……それって」
言いかけた悠花を制するように、
凛子が静かに微笑んだ。
「当然の判断ですわ」
凛子の声は、
柔らかく、しかし隙がない。
「娘には、世界水準の才能があります。
それを、未熟な実験に使わせるつもりはありません」
視線が、
悠花、刹那、希愛へと順に向けられる。
「特にあなたたちのような、
“方向性の定まらない活動”はね」
刹那が、
一歩前に出た。
「それでも――
紫苑は、あの演奏で……」
「“感情に揺さぶられた”だけです」
凛子は即答した。
「若い頃には、よくあること。
だからこそ、今、正しい道に戻す必要があります」
学長は、
小さく息を吐いた。
「凛子……
彼女の意思も――」
「聞きました」
凛子は、かぶせるように言う。
「本人も、“今回は身を引く”と申しております」
その言葉が、
刃のように突き刺さった。
悠花は、
言葉を失う。
(……紫苑)
「なお――」
凛子は、
淡々と続けた。
「これ以上、
彼女の専攻外活動に関与するようであれば」
視線が、
悠花たちに突き刺さる。
「学則に基づき、処分も検討せざるを得ません」
空気が、凍る。
それは、
はっきりとした脅しだった。
学長は、
何も言えない。
凛子と学長が旧知であることは、
ここにいる全員が理解していた。
だからこそ――
学長は、
完全には逆らえない。
「……今日は、ここまでにしましょう」
学長の言葉は、
事実上の終結宣言だった。
悠花は、
拳を握りしめる。
(終わり……?)
(ここまで来て……?)
誰も、言葉を発せなかった。
刹那は、
唇を噛みしめている。
希愛は、
床を見つめたまま、動かない。
悠花は――
どうしていいかわからなかった。
追いかける?
止める?
説得する?
でも、
紫苑は助けを求めていない。
それが、
一番、残酷だった。
「……もう、無理なのかな」
希愛が、
かすれた声で呟いた。
その瞬間。
廊下の奥から、
慌ただしい足音が響いた。
「――ちょっと待ったぁぁ!!」
聞き覚えのある、
やたら芝居がかった声。
全員が、
一斉に振り返る。
そこにいたのは――
「やっぱり間に合ってないじゃないか、運命の分岐点!」
黒いコートを翻しながら立つ、
ともちゃん。
「……はぁ、走らせないでよ」
その隣で、
肩で息をしながら立っているのは、
みっくん。
そして。
その二人の後ろに、
静かに立っていたのは――
背の高い、
穏やかな眼差しの男性。
その顔を見た瞬間、
悠花の心臓が跳ねた。
(……まさか)
ともちゃんが、
にやりと笑う。
「連れてきたよ」
一拍置いて、
芝居がかった低音で告げた。
「――碧山凛一さん」
その名前が、
空気を切り裂いた。
――碧山凛一。
その名が落ちた瞬間、
空気が変わった。
凛子の瞳が、はっきりと揺れる。
「……あなた……どうして……」
それは、
さっきまでの余裕の微笑ではなかった。
凛一は、静かに一歩前へ出る。
「久しぶりだね、凛子」
声は低く、穏やかだった。
「今さっき帰国したばかりで、早々に呼び出されたんだけど。
けれど、連絡はもらっていて状況は把握してるよ」
視線が、ともちゃんとゆきちゃんへ向く。
ともちゃんは胸を張る。
「運命の糸は、世界の裏側だって繋がるのさ」
「……要は、昔フェスで一緒だったスタッフさんの伝手です」
ゆきちゃんが小声で補足する。
「お父さんに事情を伝えて、来てもらいました」
凛一は頷く。
「彼女たちが動いてくれた」
凛子は、わずかに顔を強張らせた。
「……あなたに、関係ありません」
「あるよ」
凛一の声は、静かだが、逃げ場がない。
「紫苑は、僕の娘でもある」
学長は目を見開く。
「……凛一」
「久しいですね」
二人は、短く視線を交わす。
そこには、確かな信頼があった。
凛子は、それを見て歯を噛む。
「私は、あの高校時代のフェスを覚えています」
凛一は、悠花たちを見る。
「あなたたちが初めて、大きな舞台に立った日」
悠花の胸が跳ねる。
凛子の視線が鋭くなる。
「そんな昔の話を……」
「昔だからこそ、だ」
凛一は、はっきりと言った。
「私はあの日、確信した」
一拍。
「紫苑の音は、クラシックの枠に収まらない」
空気が、張り詰める。
「彼女は、音を構築する。
ジャンルではなく、“空間”を作る」
学長が、静かに頷く。
「……私も同じ印象を持った」
凛子の眉が動く。
「あなたは、あの子を世界に出したいのでしょう?」
凛一は続ける。
「ならばなおさら、
閉じ込めてはいけない」
「感情論です」
凛子は、即座に切り返す。
「世界は甘くありません。
才能は、集中させなければ磨けない」
「違う」
凛一は、首を振る。
「君が恐れているのは、“失敗”だ」
凛子の瞳が、わずかに揺れる。
「紫苑が、遠回りすることが怖い」
「……」
「だが」
凛一の声が、少しだけ強くなる。
「遠回りしなければ、
本物の音には辿り着けない」
沈黙。
重い、沈黙。
学長が、ゆっくりと口を開いた。
「凛子。
学則上、専攻外演奏は違反ではない」
凛子が振り向く。
「ただし、学業を著しく妨げない限り、だ」
「……」
「彼女がクラシックの成績を維持できるなら、
私は止めない」
凛子の表情が、初めて崩れた。
「あなたまで……」
凛一が、静かに畳みかける。
「紫苑は、もう子どもじゃない」
「……」
「彼女に、選ばせよう」
扉の外。
すべてを聞いていた影が、
静かに息を呑んだ。
――紫苑。
彼女は、
最後まで助けを求めなかった。
けれど。
今、初めて。
目を閉じた。
(……お父さん)
胸の奥で、
何かが、ほどける。
学長室の前。
重たい空気が、ゆっくりとほどけていく。
凛一の言葉のあと、
凛子はしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに息を吐く。
「……あなたは、昔から甘い」
「そうかもしれない」
凛一は否定しない。
「だが、紫苑の未来を決めるのは、君でも私でもない」
凛子の視線が、扉の方へ向く。
そこに立っていた影が、ゆっくりと姿を現した。
――紫苑。
眼鏡の奥の瞳は、揺れていない。
それでも、その奥には確かな熱があった。
「……お母様」
凛子がわずかに身を固くする。
「私は、クラシックをやめるつもりはありません」
最初の言葉は、はっきりと。
「でも――」
一瞬だけ、悠花たちを見る。
そして、前を向いた。
「ロックも、否定しません」
凛子の眉が動く。
「両方を、やります」
学長が、静かに頷く。
「成績を落とさないことが条件だ」
「承知しています」
紫苑は迷わない。
「結果で証明します」
凛子は、しばらく娘を見つめていた。
その視線には、怒りも、苛立ちも、そして――わずかな誇りも混じっていた。
「……好きにしなさい」
それは、敗北宣言ではない。
条件付きの許可。
「ただし、私の顔に泥を塗ることは許しません」
「はい」
紫苑は、深く頭を下げた。
廊下に出ると、
悠花が息を吐く。
「……戻ってきてくれるんだよね?」
紫苑は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ええ。逃げません」
刹那が一歩近づく。
「今度こそ、四人で」
「はい」
希愛は何も言わず、
ただ小さく拳を握った。
その時、凛一が言う。
「来月、国際音楽フェスの枠が一つ空いている」
全員が顔を上げる。
「若手枠だ。ジャンルは問わない」
凛子が振り返る。
「あなた……」
「推薦はできる。あとは実力だ」
学長が静かに補足する。
「学内演奏会の評価を加味すれば、十分可能性はある」
悠花の胸が高鳴る。
「……出られるってこと?」
「条件は一つ」
凛一が続ける。
「ユニット名を決めなさい」
沈黙。
「正式な形で申請が必要だ」
凛一は穏やかに微笑む。
「四人で出るなら、
四人の名前がいる」
紫苑の瞳が、静かに輝く。
悠花は、ゆっくりと頷いた。
「……決めよう」
刹那が小さく笑う。
「やっとですね」
希愛がぽつりと呟く。
「名前、か」
夕方の光が、
大学の廊下を長く染めていく。
四人は、自然と横並びになった。
まだ、名前はない。
けれど――
もう、迷いはなかった。
「フェスまでに決めておきなさい」
凛一の声が、背中を押す。
四人は、同時に頷いた。
新しい音は、
もうすぐ、形になる。




