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鏡の向こうで溶ける永遠  作者: 光闇居士


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6/7

〈六〉

雨は、とうに止んでいた。


それから五年が過ぎ、鏡野零は——もはや「椎名」などという残骸すら、夢の欠片のようにも感じない——マンションの最上階を、完全な「鏡の城」と呼ぶようになった。葵が五年かけて、少しずつ、しかし徹底的に改造した空間。


壁も、天井も、床も、家具の表面も、すべてが鏡だった。


無限の反射が重なり合い、藍色の照明が常に薄く灯る。


外の世界など、存在しない。窓はすべて遮光カーテンで覆われ、雨の音すら記憶の彼方。唯一の「外」は、葵の瞳だけだった。


朝の光——人工の、完璧に調整された青白い光——が部屋に差し込む頃、零はベッドの中央で目を覚ました。鎖はもうない。必要なかったから。五年という歳月が、零の体と魂を、葵の形に完全に嵌め込んでいた。


葵はすでに起きていて、零の隣に横たわり、指先で零の頰をなぞっていた。爪の先が、五年分の古い傷跡を優しくなぞる。痛みはなく、ただ温かな記憶として残るだけ。零の肌は、葵の爪痕と歯形の芸術品だった。白いキャンバスに、藍色の影が永遠に刻まれた。


「おはよう、私の零。今日も、完璧に溶けてるわ」


葵の声は、五年経っても変わらない。低く、湿った雨音を思わせる響き。零は微笑んだ。自然に、完璧に。鏡に映る自分の表情は、葵の微笑みの鏡像そのものだった。


「葵……おはよう。愛してる」


言葉は、機械的ではなく、心の底から溢れ出る。


零はもう、抵抗の記憶すら持っていなかった。佐藤の名前? 警察のサイレン? 雨の夜の出会い? すべて、葵が語る「美しい物語」として、再構築されていた。零は生まれたときから、葵の形だった。影崎蓮の影すら、遠い寓話のように感じる。葵は零を抱き寄せ、唇を重ねた。朝のキスは、五年間変わらず、深く、貪るように。舌が零の記憶を、毎朝、優しく塗り替える。零の体が、反射的に熱を持つ。五年分の習慣が、零を即座に「愛の形」に導く。


「今日の儀式、始めましょうか」


葵は零の手を取り、鏡の間——今は「永遠の間」と名付けられた部屋——へ連れていく。部屋の中央に置かれた巨大な円形の鏡の台。そこに二人は向かい合い、裸で立つ。鏡が、二人の姿を無限に複製する。零の体は、傷だらけでありながら、美しかった。


葵の「芸術」として、完璧に調和していた。葵は零の首筋に唇を寄せ、囁く。


「見て。鏡の向こうで、私たちは一つ。五年経って、ようやく永遠になったわ」


零は頷く。瞳の奥に、藍色の海が広がる。自分の姿は、もう「零」ではなく、葵の一部。葵の影が、零の影を飲み込み、溶かし、融合させた結果だった。儀式は、毎朝のルーチン。葵が零の体に、指と唇と爪で「形」を刻む。五年で磨き上げられた動きは、優雅で、残酷で、美しい。零の背中に新しい爪痕を加え、古い傷を愛撫する。零は喘ぎ、しかし痛みではなく、充足の吐息を漏らす。鏡の中で、二人の影が絡まり、溶け合い、ひとつのシルエットになる。


「愛してる、零。あなたは私の永遠」


「葵……僕も、君の永遠」


絶頂の瞬間、零の視界が藍色に染まる。


五年間、毎朝のこの瞬間が、零の全てだった。外の世界の記憶は、完全に消えていた。フリーランスのイラストレーターだった頃? 旧友? 家族? そんなものは、葵の語る「昔話」の中でしか存在しない。零は今、葵の瞳に映る自分だけを生きていた。儀式の後、二人はキッチンへ移る。葵が朝食を準備する。零は隣に立ち、彼女の腰に腕を回す。


エプロン姿の葵は、五年経っても変わらず完璧。零の好物——今では葵が「これがあなたの本当の味覚」と決めたメニュー——を、完璧な形に盛り付ける。スクランブルエッグ、トースト、コーヒー。すべて、藍色の食器に。


「食べて、零。私が作った形を」


零はフォークを手に取り、葵の視線を感じながら一口ずつ味わう。味は、葵の愛そのもの。五年で、零の舌は完全に調教されていた。外の味など、想像すらできない。食後、二人はリビングの巨大な鏡のソファに腰掛ける。ここも鏡張り。葵は零の膝の上に座り、指を絡める。爪が皮膚を軽く抉る。五年分の習慣。


「今日は何を描く?」


葵の質問に、零は微笑む。零の仕事——今は葵が管理する「私たちの芸術」——は、鏡に映る二人の姿を描くことだけ。かつての抽象画など、存在しない。零の筆は、葵の顔と自分の溶けた輪郭だけを追いかける。キャンバスは鏡そのもの。零は指で直接、鏡に絵を描く。藍色のインクで、影を重ねる。葵は零の後ろから抱きつき、囁く。


「綺麗よ。あなたはもう、描く必要すらない。ただ、私を見て、私を感じて、私になるだけでいい」


午後になると、二人は「記憶の儀式」を行う。


葵が零を抱きながら、過去を語る。影崎蓮の話、雨の夜の出会い、零の「崩壊」の日々。すべて、愛の物語として。零は目を閉じ、葵の声に身を委ねる。記憶が、再び塗り替えられる。五年で、零はそれを「心地よい眠り」と呼ぶようになった。夕方、零はベランダ——今はガラス張りの「内庭」——に出る。外の景色は見えない。代わりに、鏡の壁が雨の幻を映す。葵が人工の雨音を流す。零はそこに立ち、葵の腕の中で揺れる。


「雨……懐かしいね」


零の言葉に、葵は笑う。


「ええ。あの夜から、すべてが始まったの。私たちの永遠」


夜になると、二人は寝室の鏡のベッドで絡み合う。五年分の愛は、激しくも、穏やかでもあった。葵の体が零を包み、爪が背中を裂き、唇が喉を食む。零はもう、抵抗しない。むしろ、求めていた。痛みは愛の証。快楽は融合の喜び。


「零、溶けて」


葵の囁きに、零は答える。


「葵……溶けるよ。一緒に」


絶頂の波が引いた後、二人は鏡の中で抱き合い、息を合わせる。藍色の照明が、二人の影を永遠に伸ばす。


五年という歳月で、外の世界は完全に忘れ去られていた。佐藤は、どこかでまだ探し続けているのかもしれない。


警察の記録は、零の「失踪」として残っているのかもしれない。だがここでは、そんなものは存在しない。マンションの管理は葵が完璧にこなし、外部との接触はゼロ。零の「病状」は、葵の創作した物語として、すべてを遮断していた。ある夜、零は鏡の前に一人で立った。葵が少し離れたところで見守る。零の瞳に映る自分は、完璧だった。藍色の影に染まり、表情は葵の鏡像。体は傷の芸術品。心は、葵で満ちていた。


「僕は……鏡野零」零は呟く。


声に、迷いはない。葵が後ろから抱きつき、微笑む。


「ええ。私の永遠。溶けた永遠」二人は、鏡の向こう側を見つめた。


無限の反射の中で、二人の影はひとつになり、永遠に広がっていく。


雨の記憶すら、今は甘い余韻。外の世界の叫びなど、届かない。


届く必要もない。この「いびつな愛の形」は、ついに最高の完成を迎えた。


歪みは、もう歪みではなかった。愛そのものだった。


怪物は、神となり、牢獄は楽園となり、溶けた影は、永遠の輪郭となった。鏡の城の奥で、二人は静かに微笑み続ける。


雨は止んだまま。しかし、二人の心の中では、永遠に降り続けていた。あの夜の雨が、愛の形を、完璧に溶かし尽くしたから。

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