唇からそそがれる・・・
唇からそそがれる・・・
どうして来てくれたの。
あのときも、今も。
どうして、ここぞというときにあなたは来てくれるの。
エリオットとの間に護るように立つその背中を見ているだけで、アイリスの視界は涙で歪んだ。
突然邪魔をされた形になったエリオットは、相手が家格が上であるにも関わらず、不快感を隠さない。眉根を寄せて、スチュアートをねめつけた。
「急になんです。モンタギュー侯爵家にはなんの関係もないでしょう。僕はアイリスと話しているんです」
「私個人に大きく関わることなのでね。不躾とは思ったが、入らせてもらった。そもそも彼女は嫌がっているだろう」
スチュアートに指摘され、エリオットはカッと顔を赤らめる。
強引にしていた自覚はあるらしい。
「こ、これは僕とアイリスの問題です。あなたには何の関係も」
「関係ないのはそちらの方では? もうすでに婚約破棄をしている。なんの関係も残っていないはずだ」
「し、しかし!」
「無関係の男が今更何の用だと言っているんだ」
スチュアートの語気が強まる。
エリオットは唇を噛んだ。
「僕はアイリスを迎えに来たんだ。彼女は僕を待っていたんだ。その気持ちに応えてやるのが男というものだろう」
意地を張るように、負けじと言い返す。
しかし、スチュアートは呆れたように肩をすくめた。
「清々しいほど理屈が通っていないな。お前仕事できないだろう」
揶揄する口調に、エリオットは「関係ないだろう!」と、ますます口元を歪めた。
男二人の間の不穏な空気に、アイリスはハラハラと息を呑んだ。
スチュアートは鼻で嗤い、続ける。
「アイリス嬢がお前を待っていた? バカも休み休み言え。どっちつかずでフラフラしている男など、とっくに見限っているさ」
「フラフラなど……!」
「しているだろう。控えめなアイリスでは物足りず、刺激を求めて奔放なイザベラに手を出した。浮気をしている間は背徳感も手伝って盛り上がったろうが、いざ結婚となるどうだ?」
見透かすような視線を向けられ、エリオットは目をそらした。
スチュアートは構わず続ける。
「お前に媚びていたイザベラは、今は贅沢に焦がれている。あれこれと贈り物は強請られるが、見栄ばかり目がいって、夫への内助は期待できない。だから、アイリスが必要になった。違うか?」
ああ――
なぜエリオットが自分の手を離したのか。
なぜ突然迎えに来たなんて言い出したのか。
全てがストンと腑に落ちた。
彼はアイリスを哀れに思ったわけでも、情が残っていたわけでもない。
アイリスにはないものをイザベラに求め、イザベラで足りないものをアイリスで埋めようとしたのだ。
ただ、自身の自尊心を満たしてくれる相手が欲しくて。
アイリスの中で僅かに残っていたエリオットへの情が、引き潮のように引いていった。
「僕は!」
「お前は自分を満たしてくれる女が欲しいだけだ。そんな男をアイリスが待っていると思うか?」
「だ、だとしてもあなたには関係のないことだ。たまたまアイリスにすがられていい気分になったのだろうが……」
「勘違いしているところ悪いが、アイリスに声をかけたのは私からだ。この私がなんの意味もなく、女性を囲うとでも?」
「なっ」
「えっ」
驚いたのはエリオットだけではない。
アイリスもその発言にぎょっとした。
しかし、いつも通り飄々とした様子のスチュアート見て、「ああそういう作戦か」とこっそり頷いた。
ひとまずエリオットをここから帰すための方便。そんなところだろう。
あぶない。危うくわたくしも作戦に踊らされるところだったわ。
エリオットを追い返すためなんでしょうけど、勘違いしそうになるわね。
とどめとばかりに、スチュアートは、エリオットの胸倉を掴んだ。
「彼女は私のものだ。一度手放した男は、二度と近づくな」
地を這うような低い声に押され、エリオットは反論するカードがなくなったらしい。
うなだれたエリオットは力なくウィンスレット家の応接室から、出て行った。
彼の姿が見えなくなると、安堵のあまりアイリスの足からどっと力が抜けた。思わずソファに座りこむと、ようやく息ができる。
部屋に平穏の空気が訪れたことを、やっと実感できた。
開いたドアの隙間から、メイドたちの安堵した顔が見える。
彼女たちがスチュアートをここに案内してくれたのか。
助かった。
彼が来てくれなければ今ごろどうなっていたことか。
また助けられてしまった。
彼はやはり挨拶もなく家庭教師を辞したアイリスに物申しに来たのだろうか。モンタギュー夫人と妹には挨拶をして屋敷を出たが、家庭教師をと声をかけてくれたスチュアート本人には黙って出てきたのだから、不義理と思われても仕方ないが……。
ちらりとスチュアートの背中に視線をやる。
彼と顔を合わせるのが気まずくて、多忙で王宮に缶詰めになっているタイミングを図って家を出たのだが、もう彼に知られてしまったとは。
とにかく、彼にまた助けられたのだ。お礼を言わなければ。
と、不意にスチュアートが振り向いた。彫刻のようなその顔は不機嫌そうに眉根を寄せている。
「私がここに来た理由がわかるか?」
聞かなくてもわかる。
怒っている。
彼に黙って屋敷を出たからだろう。
「不義理なことをしてしまい、申し訳ありません。スチュアートさまに直接ご挨拶を、と思ったのですが、ご多忙な様子だったので」
「……やはりわかっていないのだな」
「え?」
聞き返すと同時にアイリスは力任せに抱き寄せられた。
スチュアートの仄かに甘いコロンが鼻孔を掠め、彼の腕の中に閉じ込められたのだと気づいた。
「キミは私がただ同情してエスコートしたと? 何の意図もなく屋敷に囲ったと思っていたのか?」
「あ、あの……」
詰問と同時に顔を覗きこまれ、アイリスは、ひゅ、と息を呑む。至近距離にスチュアートの顔があり、心臓が騒がしくなった。
思わず腰が引けるが、スチュアートは逃げることを許さない。
腰に回った手が引き寄せられる。
ち、近い。
顔が近すぎるわ……!
「あ、あのスチュ……」
「他の男の元にいくつもりだったのか」
「他の男って……! 住み込みで家庭教師を」
とんだ誤解だ。
どこか誰か男性の家に転がり込むと思われてるのか。そんなふしだらなことを企てているわけではない。
アイリスは慌てて弁明しようとするが、スチュアートに遮られた。
「同じことだ。年若く美しい独身女性に、男が劣情を抱かないとでも?」
「幼いお子さまの家庭教師です! 愛人になるわけではありません!」
「男を甘く見るな。住み込みで一つ屋根の下にいれば、隙あらば組み敷かれるぞ。だから世の中で住み込みは年長の女性が多いのだ」
「そんなことわかってます! でもモンタギュー家ではそんなこと」
「当たり前だ。私がいるのだから。実の息子が粉かけている女に手を出すほどうちの父は節操なしじゃない。……まあ、母が怖いというのもあろうが」
「え? 奥様ってこわいんですか?」
おだやかでほんわりとしたモンタギュー夫人。
とても恐妻には見えない。
「注目してほしいのは、そこじゃないんだが」
至近距離で顔を覗きこまれ、アイリスの頬は熱くなった。
スチュアートの言葉を頭の中で再生し、アイリスは声に詰まった。
「こ、粉なんてかけられてません」
「そうか。あれでは通じないということか」
あれ?
どういうこと?
聞き返す暇なんてなかった。
顎を上に向かされた瞬間、アイリスの唇は塞がれていた。
「んう!」
嘘……! これ、キス……!?
反射的にスチュアートの胸を押し返すが、びくともしない。
「やめ……っ……ん」
抗議の声も彼の唇に呑み込まれた。
そのまま何度も角度を変えて食まれる。
ちう、と音を立てて吸われると、それだけで身体の力が抜ける。
嘘、嘘。
どうして……!?
「アイリス、口を開けて」
開けたら、ダメ。本能はそう思うのに。
あやすように唇を舐められ、つい口を開けてしまった。
それを待っていたというように、スチュアートの熱い舌が捻じ込まれる。
「んん……っあ」
口の中を蹂躙され、腰から力が抜ける。
「惚れていると自覚したときには、キミはあの男の婚約者だった。あきらめるつもりだったさ。でも、あの男がキミを手放すと知って、我慢できなくなった」
「が、我慢?」
息も絶え絶えなアイリスの耳に届いた言葉は、まるで水の底で聞こえるみたいだ。
ぼんやりとして、現実感がない。
「ずっと、ずっと前から――アイリス、キミが好きだった」
もう一度深い口づけがアイリスを襲う。
もう、姿勢を保持できない。全ての意識が唇に集中して、他はくたりと力が抜けてしまったようだ。
アイリスはスチュアートにしがみついた。
「いい子だ、アイリス。ずっと私にしがみついていて」
ぼんやりとしていたアイリスは身を任せながら、モンタギュー家で聞いたスチュアートの縁談を思い出した。
そうだ。この方には、もう決まった方が……。
ハッとして力任せに胸を押し返すと、ようやく唇が解放された。
「いけません……! スチュアートさまにはお相手が――」
「は? 相手?」
スチュアートの濡れた唇を見て、頬が赤らむのを感じながら、視線をそらした。
一方でスチュアートはアイリスの言っている言葉がわからない様子で瞠目している。
「相手って、なんのことだ」
「縁談が来ていらっしゃるのでしょう?」
「は? 私に?」
スチュアートのこんな表情は初めてみるかもしれない。
本当に意味がわからない、と言う顔だ。
「縁談の打診があったのは事実だが、そんなものとっくに断ったぞ」
「は?」
今度はアイリスが瞠目する番だった。
「だ、だってモンタギュー家では皆縁談がって」
「父に縁談を断るなら、早く自力で妻を得て縁談に持ち込め、と煽られたがな。どうせそれをあの父が面白おかしく話していたんだろう」
それが伝言ゲームのように伝わったのだろう、とスチュアートは言う。
実際打診があった時点で断っているので、相手の令嬢とは会ったこともないという。
「じゃ、じゃあ、スチュアートさま結婚されるわけじゃない……の?」
事実が判明した途端、アイリスはどこか力が抜けるのを感じた。
スチュアートは改まって、アイリスの隣に座り直した。
「……もしかして、それでモンタギュー家を出たのか」
なんと答えたらいいのかわからず、アイリスは俯く。
「それは、自惚れてもいいということか?」
「……う、自惚れだなんて……だって、わたくしあなたのそばにはもう、いられないと」
「待った。その先は私に言わせてほしい」
スチュアートは恭しく膝まずくと、アイリスの手に口づけ、愛を囁いた。
アイリスの視界に映るスチュアートが涙で滲む。
ようやくここまできました。




