招かれざる訪問客
「え?」
アイリスはそこに立っている人物に、思わず声をもらした。
ここにいるはずのない男性が、アイリスの視界に入っ
た。
「エリオット……」
メイドに案内されてドアの開いたそこにいたのは、かつて自分の婚約者だった男。エリオット・マーシャルだ。
婚約破棄する前から、彼はこのウィンスレット家への脚は遠のいていた。すでにイザベラへ心が向いていたからだろう。新年の挨拶などどうしても婚約者を優先しなければならないときだけ、短時間訪れただけだ。
それだって、今年はもう来ていなかった。
婚約破棄の報告すら、マーシャル夫妻が来ただけで、エリオット本人は来なかったというのに。
なのに、どうして今更ウィンスレット家を訪ねてきたのか。
「どうして」
ただ驚いて言葉を失っているアイリスに、エリオットはなぜか満足げな様子で口元に弧を描いた。
「キミがこの屋敷を出て住み込みで家庭教師をすると聞いて、いても立ってもいられなくなったんだ」
どこでその情報を手にしたのか。
いや、それよりもどうしてここに来たのか。
無関係な彼がここに来る理由としてはおかしいだろう。意味がわからず、混乱したアイリスは呆然と立ち尽くす他ない。
にこにこと我が物顔で部屋に入ってくる姿にメイドも慌てるが、彼は強引に押し入ってきた。
ウィンスレット家の使用人たちは、等しく忠誠心に篤い。特に幼少期から私の身の回りの世話をしているメイドたちは、今回の婚約破棄に怒り心頭な様子で、「呪ってやりたい」と言い出すものも出る始末だ。
だから、彼女たちがここにエリオットを通すなんておかしいと思ったが、どうやら彼は強引にことを進めたらしい。
我が家のメイドたちは裕福な商家の出の子もいるが、貴族ではない。身分が上のものに表立って強く出られないのは、当然だ。
これ以上メイドたちを困らせられない、とアイリスは人知れずため息をついた。
「マーサ。エリオットさまを応接室にお通しして」
「応接室だなんて、他人行儀な。僕たちの仲じゃないか」
「今は、他人、ですわね」
アイリスは、強調するよう、句切って話す。
執事もやってきて、エリオットはしぶしぶといった様子で応接室へ移動した。
エリオットは応接室のソファに座るなり、興奮気味に口を開く。
「キミのことはずっと気にかけていたんだ。婚約破棄したとはいえ、幼い頃から知っている間柄だ。そんなキミが不幸になったら、僕は耐えられない」
アイリスはあんぐりと口があいた。
今更このひとは何を言っているのだろう。
自分から婚約破棄を申し出てきたくせに。
愛する人ができてしまったと言ったではないか。
キミは僕がいなくても大丈夫だろうと言ったじゃないか。
それを今更なんだというのか。
不幸になったら? どの口が言うのだ。
怒りを通り越して呆れた。
「もう、わたくしたちは婚約者ではありません。わたくしの今後はエリオットさまには関係のないこと」
「アイリス!」
「他の女性を訪ねたなんて知られたら、イザベラさまが悲しみましょう」
冷笑したくなるのをぐっと堪え、努めて穏やかに言い放った。
浮気する男はどこまでも浮ついているものなのだろうか。
それとも本命の女性だけに集中できない病気なのだろうか。
フラフラしていないで、イザベラの元に帰ればいいのに。
しかし、なぜかエリオットは笑みを浮かべたまま身を乗りだす。
「キミがそんなに拗ねるくらい、僕のことを想っていてくれたなんて知らなかったんだ。知っていれば、もっとキミを大事にしたのに」
彼は何を言っているのだ。
拗ねる? 何を持って拗ねてるように見えるのだ。
わたくしたちはもう終わった関係なのだから、帰れと言いたいのに、わかっていないらしい。
話がまるで通じない。
貴族と言うのは、あまり直接的なものいいはしないもの。婉曲表現で会話するものだ。
だが、通じないのなら仕方ない。
アイリスは意を決して、直接的な言葉を使用することにした。
「エリオットさま。私たちの関係はもう終わったのです。それぞれの道を選ぶことになったのですから、これからはイザベラさまのことだけを大事にして、お帰りくださいま――」
「そんなこと言わせてごめん」
「え?」
「婚約破棄のこと、まだ怒っているんだね」
「……もうそのことに関してはすでに終わったと」
何度も言っているじゃないか。
話を聞いていないのか、理解できないのか。
もう別れたのだから、とっとと帰ってほしい。
そんな単純なことがどうして通じないのか、アイリスは頭痛がしてきた。
「大丈夫だよ。まだイザベラには話していないが、キミを迎える準備をしているんだ」
「は?」
迎える準備? わたくしを?
本当に言っている意味がわからない。
目のまえにいるこの男は、あの夜別れ話をしてきた本人だというのに。
アイリスが困惑しているのを、不安がっているとでも思ったのだろうか。
エリオットは安心してほしい、と何度も繰り返す。
「ひとまずは愛人という形だけれど、キミが僕のそばで暮らせるようにしているから。だから、もうそんなに拗ねなくていいよ。素直になってくれ」
「ま、待ってください。おっしゃってる意味が……」
「僕たちは、これからもずっと一緒だよ」
彼は目を細めて口角を上げる。
その笑顔に、アイリスは胸の底がぞくりと冷えた。
このひとは何を言っているんだろう。
話がまるで通じない。
「僕との別れ話がショックであの次期宰相に泣きついたんだろう? わかっているよ。でも、彼に縁談があって、キミは追いだされた」
「違います!」
「いいんだ。僕には誤魔化さなくて。僕にヤキモチ妬かせたかったんだよね。まんまと妬いてしまったよ」
照れ臭そうに笑うエリオット。
こんなにも誰かの笑顔を怖いと思うことがあっただろうか。
「だから、大丈夫」
エリオットはテーブル越しに身を乗りだした。
「アイリス、安心して僕の元に戻っておいで」
伸ばされる手に怯え、アイリスは身を引こうと試みるが、ソファの背もたれに阻まれ動くことができない。
がっしりとエリオットに腕を掴まれる。
彼は手を掴んだまま、テーブルを回りこみ、アイリスに近寄ろうとする。
距離を詰められ、アイリスは恐怖に慄いた。
幼い頃、初めて彼と手を繋いだとき、初めてときめくことを知った。
全身の体温が上がり、浮足立つ感覚を恋と呼ぶのだろう、と思ったものだ。
それが、今はどうだ。
同じ男に手を握られて、恐怖と嫌悪の方が沸き上がってくるなんて。
「お、お願い。は、離して」
手も声も震える。なのに、エリオットは顔色ひとつ変えない。
アイリスは恐怖で吐きそうになった。
「その手を離せ」
その瞬間、突然割り込んできた低い声。
弾けるように顔を上げると同時に目の前に飛びこんできたのは、焦がれた背中だった。
アイリスを背に庇うように、エリオットとの間に割りこむ。
その細身ながらたくましいその背中。ほんのり甘い香りのする彼のジャケット。
わからないはずがない。
アイリスは唇をわななかせ、ようやくその名を呼んだ。
「スチュアート……さ、ま」




