前を向く決意
「なかなか閉まらないわね……!」
「お嬢様、入れすぎなのでは……!?」
アイリスはメイドに手伝わせながら、ぎゅうぎゅうに膨らんだトランクを閉じた。アイリスが体重をかけトランクの蓋を閉じると、なんとかメイドがロックをかける。
終わった瞬間、メイドとともにアイリスの息は上がっていた。メイドが部屋を後にすると、アイリスは一息をつく。
目のまえにポツンと置かれたトランク。
急ではあるが、準備がようやく整った。
アイリスは自宅を出て、紹介された男爵家の家で住み込みで家庭教師をすることを選んだ。
もちろん、両親は猛反対だ。
いきなり娘が戻ってきたかと思ったら、理由も言わずに屋敷を出て別の貴族の家で住みこむなど、受け入れがたくて当然だろう。
そもそもモンタギュー家に住みこみをしていたことも、両親が望んでいたわけではない。
それでも宰相の嫡男であるスチュアートに説得され、しぶしぶ納得したようなもの。相手があのモンタギュー家なら、という信頼あってのことだ。
それが今度は今までほとんど社交のない男爵家に、若い娘が住みこむなど、両親が反対するのはアイリスとしても理解できた。
わたくしだってわかっているわ。
自分が突拍子もないことをしてるって。
でも、これ以外方法がなかったのよ。
ここにいても、スチュアートが来る気がするからだ。レイチェルが望んでいる、とか職務放棄するなとか理由は様々だろう。
直に迎えに来られて断る自信がない。
浅ましい自分はきっと彼のそばにいることを望んでしまう。
これから彼が妻を娶ったとしても。
自分の気持ちがボロボロになっても、諦められなくなる。
だから、物理的に離れよう。そう思ったのだ。
それに、このまま実家にいたところで自分の未来はどん詰まり。
両親はアイリスの縁談を見つけようと画策してくれていたのは知っているが、婚約破棄された女にそう簡単に次の縁談など見つかるはずもない。
ましてやエリオットの相手、イザベラはあちこちで自身がどれほど悩み苦しんでエリオットと結ばれたか、などあちこちの茶会や夜会で吹聴している。
ますますアイリスは愛する二人の障害だったと噂されていた。完全に悪役だ。
そんな自分がモンタギュー家にいつまでも居座っては、スチュアートの縁談の邪魔になるだろう。
自分が彼の足を引っ張るなど、それこそ耐えられない。
好きになった男性とは結ばれない。
新たな縁談も望めない。
それなら、ひとりで生きていくしかないじゃないの。
といっても、貴族令嬢が独身を貫くのは並大抵のことではない。結婚そのものが職務のようなものなのだから。
だから、一番人聞きのいい家庭教師を続けようと思った。
家庭教師をしながら、いつか誰かの後妻になるのもいい。
想いを寄せたひとと添い遂げられないのだから、誰と結婚しても同じだ。ケチのついた女でも、歳の離れた男性の後妻ならば、話が来るだろう。
思えば、自分は男性に縁がないのかもしれない。
婚約者だったエリオットには想い人ができ、心惹かれたスチュアートには別の令嬢との縁談が舞い込んできている。
アイリスの近くにいた男性は、結果的に離れてしまう。
もちろん、女として寂しくないはずがない。
それでも、自分には心配してくれる家族と友人がいる。
先日、ウィンスレット家を訪ねてきてくれたロゼッタとリディアのことを思い浮かべた。
彼女たちは、しばらく実家を出ていたアイリスがようやく戻ったと聞き、かけつけてくれたのだ。
泣くまいと思っていたのに、彼女たちの顔を見た途端、やはり予想通り涙腺は決壊した。まるで幼子のように喉をひくつかせて嗚咽をあげるアイリスを、彼女たちはだたひたすらに無言で抱きしめてくれた。
アイリスは二人に婚約破棄のあらましと、しばらくモンタギュー家に滞在していたことを話した。
事の顛末にロゼッタは絶句し、リディアは怒りで声が震えていた。
「そんなことになっていたなんて」
「最悪ね。マウント女もそんな女に引っかかる男も」
リディアは怒りでで感情をむき出しにした。見た目は小柄でふんわりとした雰囲気の彼女だが、ときおりこうして砕けた口調になることがある。
彼女がそんな一面を見せるのは、ごく稀なこと。
それくらい、怒りを顕にしていた。
一方、ロゼッタはお妃教育で三人の中で最も忙しい身の上だ。だが、アイリスがウィンスレット家に出戻ったと聞いて、いても立ってもいられなくなったと、里帰りを懇願して来てくれた。
二人とも、アイリスのことを自分のことのように受け止め、心を千々に乱されている。
それが、アイリスにとって何よりもありがたかった。
独りじゃない。そう思えるから。
両親と友人たち。味方がいるというだけで、心の持ちようはこんなにも変わるのか。
「もう……過ぎたことよ」
そう、もう過ぎたこと。エリオットとうまくいかなかったことは、もう自分のなかで過去のことだ。
エリオットの名前を聞いてもちっとも胸に響かない。
悪評を広められたことには傷ついたけれど、彼自身のことには心が動くことはなかった。
親友二人に包み隠さず話したことで、清々しさすらある。
アイリスは喉のつかえが取れた気がして、ゆっくり紅茶を喉に流した。
「でも……これでいいの?」
ロゼッタが逡巡するように尋ねる。
それが何のことを言っているのか、アイリスにはわかっていた。
「……いいのよ。醜聞にまみれた女が近くにいては、スチュアートさまに迷惑がかかるわ」
エリオットのことはもういい。
彼が今後イザベラとうまくいこうがいくまいが、アイリスには知らぬこと。
悪評を聞かないフリをすることもできる。
こうしてわかってくれる友人がいるかぎり、それは耐えらえる。
問題は、スチュアートだ。こうして逃げるようにモンタギュー家を出て来たのも、彼に迷惑をかけたくなかったから。
「そんなのアイリスのせいなんかじゃ」
「迷惑になるのは同じことよ」
リディアも心配そうに眉を下げる。二人の顔を交互に見ながら、アイリスは首を振った。
次期宰相と言われているスチュアートの未来は華々しいものになるだろう。若輩ながら、国政において着実に存在感を持っている。彼が今後国の重鎮になっていくだろうことは、想像に難くない。そこに汚点をつけるような真似はしたくない。
それに、今なら間に合う。
深入りする前の今なら、忘れられる。
「わたくし、教えるの好きだし、もしかしたらこれが天職なのかもしれないわ。いつか母校の教師になるのもいいわね」
明るく振る舞ってみたものの、二人の顔は浮かないものだ。
作り笑顔であることは、バレているらしい。
それでも、スチュアートへの気持ちに踏みこんでこないところは、彼女たちの優しさだろう。
「確かにアイリスは、教えるのが上手いけれど。だからって住み込みだなんて」
「そうよ。ここに住んでいたって家庭教師はできるでしょう?」
「心機一転というやつよ。そんなことより、ロゼッタもリディアも自分たちの新生活に向けての準備を整えて」
自分のことはいい。今後縁談に期待を持つことができない身としては、堅実に身を立てていくことを考えることが必要だ。
ロゼッタは王太子妃に、リディアも縁談が持ち上がっている。自分は手にできなかったが、二人にはどうか幸せになってもらいたい。
二人に隠し事のなくなった今としては、アイリスも清々しい気持ちで男爵家に向かうことができる。
そんな後ろ髪惹かれている二人を見送ったのはつい数日前のことだ。
何度も振り返っていたロゼッタとリディアの背中を思い出しながら、アイリスは一息ついた。
カウチに腰掛けると、まとめられた自身のトランクに目をやる。
わたくし自身も明日にはここを立つ。
悩みも執着も未練も、全てここに置いて行こう。
身軽にトランク一つ持って、別の人生を踏みだすのだ。
目蓋を閉じれば浮かぶスチュアートの顔。本音を言えば、最後にお別れくらい言いたかった。
でも、彼の顔を見たらきっと決心が鈍ってしまう。
彼なら自分に降りかかる悪評なんて、どうでもいいと一蹴するだろう。
でも、それに甘えるわけにはいかない。
あの夜自分に手を差し伸べてくれたスチュアート。
彼に迷惑はかけられない。
自分にできる唯一のことが離れること、というのは哀しいけれど。
もう、考えるまい、とアイリスはひとり頭をふった。
そこへドアがノックされる。
なんだろう。お父様がはやく帰宅されたのだろうか。
それとも悲嘆にくれているお母様だろうか。
「どうぞ」
促された扉が開く。そこから入ってきた人物に、アイリスは目を見開いた。
さて、誰が訪ねてきたのか?




