追憶 1
「美月はジャムとピーナツバターどっちがいい? 」
「ジャム」
よくある朝の光景。
「牛乳飲む? 」
「うん」
あの日から三日が経っていた。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
佳保が訪ねてきた日、美月が饒舌に話していた日、美月が過去を語った日、陽太はその日を境に美月が変わると思っていた。もっと自分に心を開いてくれると思っていた。
しかし、次の日に起きてきた美月は相変わらず無口で無表情の人形のようなままだった。
陽太は過去について詳しく聞きたいと思っていたが、自分からそれを尋ねることは出来なかった。
そうしてズルズル日付だけが変わっていった。
「陽太くん? 」
「なに ? 」
「今日、土曜日だよね? 」
「そうだよ……」
「仕事あるの? 」
土日が休みの職場であることを美月は覚えてた。そして休みの日なのに陽太がいつものつなぎを着ていることを疑問に思った。
「ああ、今日は別の工場の手伝い」
「そうなんだ」
「だけど、早く帰れると思うよ」
美月に嘘をついた陽太の胸は少しだけチクりと痛んだ。
今日、陽太はある人物に会いに行く。
陽太がこの世でもっとも信頼している人物だ。
「夕飯何がいい? 買い物してくるよ」
「……オムライス」
「わかった」と陽太は笑顔を見せた。
木々が青々と葉を輝かせている。
蝉の声も力強い。夏はそう簡単には終わらないようだ。
都会にしては珍しく緑が生い茂っている。その大きな建物はそんな場所に建っていた。
趣のあるレトロな校舎に見とれながら歩く陽太。
土曜だというのに多くの学生とすれ違う。中には白衣を着た者もいた。
キャンパスライフを経験したことのない陽太にとって、そこは誘惑の多い迷宮だった。
廊下に飾られている絵画も全てが高級なものに見える。
楽しそうに談笑する男女を見かけると、進学しなかったことを少しだけ後悔した。
広い学食の窓際の席に座る陽太。スマートフォンの画面をチェックする。
十時半、さすがにそこに人はあまり居なかった。
「兄貴ごめ~ん! 遅くなった」
陽太の前に姿を現したのは、弟の潤太だった。
「オレも今着いたんだ」
周防潤太はこの大学に通う十九歳の医大生だ。
陽太とは違い短髪で爽やかな印象、ファッションセンスもある。
「兄貴から連絡来るなんて驚いたよ。会うのだって半年ぶりかな? 」
そう言って陽太の前に座る潤太。
「お前の入学祝い以来だよ」
「母さんが心配してた。実家に電話のひとつもないからさ」
「そっか、後で電話するよ」と頭をかく陽太。
「やっぱり独り暮らしさせるんじゃなかったかしら~だって」
潤太のものまねに笑う陽太。
「笑い事じゃないよ。おかげでオレは実家から逃れられないんだから」
「ごめんごめん」
「で、相談って何?」頬杖をつく潤太。
「あの、オレの友達の話なんだけどさ……」
トーンダウンしていく陽太の声。
「友達の話って、ドラマとかだと本人の話だったりするよね」
上目遣いでそう語る潤太の目を一瞬そらす陽太。
「ホントに友達の話だよ。……施設時代の友達の話だけど」
「それって、両親があまり好まない話じゃない? 」潤太は窓の外に目をやった。
「だからお前に聞いてもらおうと思って」陽太も俯いた。
「施設の時の友達とまだ繋がりあったの? 」
潤太は陽太の隠し事を疑った。
「偶然、再会したんだよ」それは事実である。
「マジ? 」
陽太は頷いた。
「いつも昼飯食ってる公園が職場の近くにあって、その公園の隣のアパートにその友達が住んでたんだ」
「男? 」
「うん」
陽太は嘘をついた。女と話せば色々面倒なことになりそうだからだ。
美月のことを男性の友人として、同居ではなく、今でもアパートに住んでいて時々自宅に遊びに来る程度に設定を変更し、それ以外の出来事、美月の言動など不思議に思っていることを陽太は全て潤太に話した。
「……? 」潤太は腕を組んで天井を見上げる。
「自閉症って、どんな障害? 心を閉ざす的な? 」尋ねる陽太。
「字で見るとそう思われがちだけど、閉ざすとはまた違うかな。自閉症も風みたいに人それぞれ症状が違うんだよ。もともと自閉症ってのは広汎性発達障害のひとつで、他にもアスペルガーとかコミュニケーションを上手くとれないってのが特徴かな」
「自閉症の特徴みたいなのってあるのか? 」
「会話してても目線が合わないとか、叱られてるのに笑ってるとか」
陽太は一瞬ドキッとした。美月が目を合わせないことが頭に浮かんだからだ。
「他には? 」
「手をヒラヒラさせたり、身体を揺らしたりってのが見た目の特徴かな」
「それはないな……」ぽつりと呟く陽太。
「同じ言葉を繰り返したり、オウム返しになったりする? 」
「いや、それもない」
「一問一答で会話が続かないとか、初対面の人に無関心だったりは? 」
「確かに言葉は短くて、感情もあまりこもってない感じだけど、この間うちの上司に会わせたら普通にペラペラ喋ってたし、その後もオレに今回のこと打ち明けてくれた」
「特定の物に対する執着心みたいなのはあったりする? 」
まるで陽太がカウンセリングを受けているように、潤太は質問を続けた。
「……あ、青かな。青い色が好きで」
「それは単に好きな色じゃなくて? 」
「あいつ、オレの青いポータブルオーディオに凄い興味があって、会う度に貸してたし、結局あげたんだけど……」
「ポータブルオーディオ? 音楽聴くの? 」
「うん。ブルーツリーだけだけど」
潤太は首を傾げて何かを考え始めたようだった。
「オレの知ってる自閉症患者って、音とか光とか匂いに敏感でそれがすごい不快だっていうイメージなんだけど……」
「どんな音が苦手なんだ? 」
「どんなっていうより、全部の音が一気に耳に入ってきちゃう感じらしいけど」
「一気に? 」
「例えば、オレと兄貴が話してて、オレたちはお互いの声以外気にならないだろ」
「うん」
「でも、自閉症患者は声以外の雑音も同じ音量で感じるらしい」
「雑音? 」首をひねる陽太。
「蝉の声とか、廊下で人が歩く音とか、時計の秒針とか」
それは厄介だろうなと同情する陽太。
「音楽聴くってことは、その人はそれに関しては問題ないんじゃない」
「そっか……」
「最初にも言ったけど、自閉症も人それぞれだし、その人が自分で自閉症に似てるけど違うって言ってるなら全く違う問題かもしれないよ。まあ、自傷行為は気になるけど」
「だよな……」
陽太はどこか腑に落ちない様子でレポート用紙に目を通す。
「なあ、カエルの解剖で嫌な過去を思い出すって何だと思う? 」
「カエルの解剖……それ気になるな」
と、潤太が顔をしかめた時だった。
「なにが気になるの? 」と女性の声が飛び込んでくる。
「マナ~! ビックリした~」
潤太の隣に背の高いスラリとしたロングヘアの女性が立っていた。
「お兄さんが来てくれてるのに飲み物も出さないなんて失礼よ」
そう言ってその女性は冷たい缶コーヒーを二人の前に置いた。
「飲み物って、家じゃないんだからさ~」と呆れ気味の陽太。
女性は潤太の肩を叩いて隣の席に座った。
「はじめまして。榎本麻那です」
礼儀よく挨拶する女性に陽太も「はじめまして」と頭を下げる。
「オレの彼女。二歳年上だから兄貴と同い年か」
戸惑う陽太に更なる衝撃が走った。
「そうなんですか」と微笑む麻那。
「でも学年では一つ上なだけだけどね」
「悪かったわね一浪で」
目の前で行われている愛の寸劇を眺めながら、陽太は半年前に紹介された彼女のことを思い出していた。名前も顔もとっくに忘れた。そしてこの彼女のこともすぐ忘れるであろうと思った。潤太はそのルックスと性格が故にとてもモテる。小学校で初めて彼女が出来て以来、途切れることなく新しい彼女に乗り換えている。まるで女性が携帯電話の新機種扱いだ。
陽太はため息をついた。
「お兄さん、どうかしたんですか? 」
「いや……」君もいずれ捨てられるとは言えない。
「兄貴、今の話マナにも話していい? 女性目線だとまたなにか違いがあるかもだし、彼女、心理学専攻なんだ」
「あ、ああ」と頷く陽太。
潤太は麻那に陽太から聞いたことをかいつまんで説明した。
「どう思う? 」潤太が聞く。
「本人が普通の人間じゃないとか自閉症に似てるけど違うって言ってるなら、それはその通りなんじゃないかな? 」
「それってそのまんまじゃん」
「だから、そのまんまなのよ」と人差し指を立てる麻那。
「どういうことですか? 」
「自閉症事態がどうのこうのってことじゃなくて、自閉症に似た症状が出る自分を普通の人間じゃないって言ってて、それは親子関係か何かから生まれたものとして、つまりはお兄さんに助けを求めてる」
「そりゃ、助けて欲しいから近づいて来たんだろ」
「私は甘えな気がするな。世間に対する甘え」
「じゃあ、カエルの解剖は何なんだよ」
「口実よ。学校という組織から抜け出す口実であり、引きこもる口実」
「ごめん。オレはそうじゃないと思うな」と口を開く陽太。
「本当に辛そうだったんだ、その……カエルの解剖の話するとき。過去に何かあったのは間違いじゃないと思う。父親を亡くしたことよりもショックなこと」
「だよな。それに戸籍がないってのが引っかかる」
そこで三人は一瞬静まり返ってしまう。
「戸籍……」コーヒーを一口飲んで呟く潤太。
「産まれたときからないのかな……」麻那が続ける。
「ガキの頃の記憶なんでほとんどないに等しいし、オレは自分が育った施設が何処にあったかも解らないんだ」
「え? そうなの、初耳」驚く潤太。
「うちの親が引き取った施設は解るよ。東京の施設だし。でも、その前にみ……そいつと一緒に暮らした施設のことは、すごい田舎にあったってことしか解らない。しかも閉園してる」
陽太の目の奥に広大な山々が映し出される。青々とした山、紅く色づいた山。庭の大きな木と、ギシギシ音の鳴る縁側。虫の鳴き声と子供のはしゃぐ声。でも、どれもセピア色に変わっていく。
「親なら、知ってるだろうね」
「聞けないよ、そんなこと」
潤太が頷く。麻那は落ち込む彼を心配そうに眺めていた。
「お兄さん、私がこんなこと言うのもあれなんですけど、その人と縁を切った方がいいと思います」
優しくそう告げる麻那。
「オレも同感。家族のこと考えたら、施設の人間とは会うべきじゃないよ。兄貴って人がいいから騙されそうだし」
二人の言葉を聞いて、陽太は複雑な気持ちになった。「美月は悪くない」と言いたかった。悪いのは人助けを安易に考えて手を差し伸べた自分だと心の中で呟いた。
「そうだな、ありがとう」陽太にはそれしか言えなかった。