君の幸運を願う
少女が目を覚ましたのは山間にある小さくも大きくもない病院だった。
ベッドの上で薄らとまぶたを開き白い天井を見つめた。
「あっ! ミズキさん、気が付いたのね! 」
点滴を持ってきた三十代くらいの女性看護師が嬉しそうに言った。
「ここ……病院……? 」
ミズキと呼ばれた少女はおでこにガーゼを貼っている。
「そうよ。昨日までICUに居たんだけど自発呼吸がかなり安定してきたから、この個室に移ったの」
看護師はミズキと会話しながら慣れた手つきで点滴を交換していく。
「あの……。私、どうしたんですか? 」
「覚えてないの? トンネルの事故のこと」
「トンネル? 」ミズキは顔をしかめる。
「大きな事故だったのよ。トンネルの中でトラックが反対車線に入って車を次々はねてね、高速バスも巻き込まれて死傷者多数」
「バス……? 」
「でも、ミズキさんは奇跡的に助かったのよ。大きなケガもないし」
ミズキは横になったまま部屋中を見回した。どこにでもある普通の個室だ。
ミズキは看護師に尋ねた。
「あの……ミズキさんって誰ですか? 私の名前ですか? 」
看護師は目を丸くした。
「あなた、自分の名前覚えてないの? 」
ミズキはしばし考えたあと、「はい」と言った。
「……それって記憶がないってこと? 他に何か思い出せる? 年齢とか、誕生日とか、家族のこととか」
ミズキは寝たまま首を横に振った。
「CTやMRIでは異常がなかったのに……。取りあえず先生呼んで来るわね。目が覚めたことも伝えなきゃならないし」
そう言って看護師は足早に部屋を出て行った。
ミズキはゆっくりと起き上がりベッドの上に座る。そして自分の身体を確かめるように見回した。
病院のものであろう上半身浴衣式のパジャマを着ている。腕など数カ所に絆創膏が貼られていた。
サイドテーブルに置かれたリモコンを手に取りテレビの電源を入れる。
時刻は二時、お昼のニュースが流れていた。
画面にトンネルの入口が映った。立ち入り禁止の規制線テープ前にヘルメットを被った男性レポーターが立っている。
『こちら現場です。五日前に起きたトンネル追突事故ですが、中はまだ黒煙が収まらない状態です』
画面が事故当時のヘリからの映像に切り替わり、トンネルの中から真っ黒な煙が絶えることなく流れ出す模様はそれが大災害であったことを伝えた。
『中でも高速バスからは多数の遺体が発見され、身元の確認を急いでる様子です。また行方不明者の捜索も引き続き行っていく予定です』
ミズキはチャンネルを変えてみたが、どこもおなじようなニュースだった。
上空から撮られた映像に番組のコメンテーターが残酷だの、可哀相だのと述べていく。
そして違うニュースに切り替わった。映し出されたのはボロいアパートだった。
『東京、足立区のアパートで男性が内縁の妻と揉めた際に頭を床にあったガラス製の灰皿打ち亡くなった事故で、新たにアパートの住人が同時刻、若い男性の叫び声を聞いていたことが解りました。しかし内縁の妻は当時は部屋に誰も居なかったと証言を続けています……』
ミズキは興味なさそうにテレビの電源を切って窓の外の青空を眺めた。
緑の山々の上に広がる青い空、そして流れる雲。見ているだけで心が洗われるような美しい風景だった。
トントンとノックの音がした。
「ホントだ。ミズキさん目が覚めたんだね。起き上がって大丈夫かい? 」
ミズキが振り返ると、そこには白衣の男性が立っていた。ネームプレートに脳神経外科 鈴木と書いてある。
「……医者……先生? 」
「そうだよ。気が付いて良かった」五十代くらいの医師はそう言って笑った。
「ミズキさん、痛いところはない? 」先ほどの看護師も一緒である。
ミズキはまたじっと考えた。
「身体は痛くないです。頭が少し重い感じがするんですけど、なんかすっきりしています」
「すっきり? 」医師と看護師が目を合わせた。
「何も思い出せないんです。名前も誕生日も、家族も友達も。なのに気分がいいんです。必要じゃない情報が頭から消えてくれたような……」
「そうか……。取りあえず、もう一度検査をしてみよう。大事なことまで忘れてしまったら困るからね」
医師は優しくミズキの頭を撫でた。
「あの……。私の名前がミズキって何で知ってるんですか? 」
「あー、あれよ。あの音楽聴くやつ。あなたが発見されたとき握りしめてたの」
「音楽? 」ミズキは首を傾げた。
「そこの一番上の引き出しに入ってるわよ」
ミズキはサイドテーブルの下にある棚の一番上の引き出しを引いてみた。
そこにはただひとつ青いポータブルオーディオが入っていた。
「汚れてたから拭いたの。そしたらどっかのスイッチ押しちゃって、そしたら多分だけどあなたの名前が入ってて」
ミズキはポータブルオーディオを手に取り不思議そうに眺めた。
「ごめんね、なんか充電なくなっちゃったみたいで。でも、うちの若い研修医くんが同じの持ってるていうから、今度充電器持ってきてくれるって」
「はい……」
ミズキには看護師の言っていることがよく理解出来なかった。
「ミズキさん、検査の前にまずは十分休んでね。そうしたら記憶も戻るかもしれないよ」
医師は優しく声を掛けた。
二日後、脳を重点的に精密検査が行われた。ミズキの記憶は戻らないままだった。
そして、検査結果が告げられた。
外来の診察室に呼ばれたミズキ。鈴木医師と向かい合った。あの看護師もそばにいた。
CTやMRIで撮られたミズキの脳の画像が貼りだされる。
「とくに悪いところは見付からなかったよ」
医師は笑顔でそう言った。
「血圧も安定してるし、身体は健康そのものだね。あと……血液型が解ったよ。B型だ」
「B型……」
そう言われてもミズキにはピンとくるものはなかった。
「ミズキさんが気になるのは記憶喪失のことだと思うけど、記憶っていうのは確かに脳の問題で、脳が傷付くとなくなったりするものだけど、ショックなことやうつ状態が原因で記憶をなくす場合もあるんだ。その失われた記憶がいつ戻るのかは分からない。明日かもしれないし、十年後かもしれない。一生戻らないケースも珍しくないんだ」
ミズキはポカンとして話を聞いていた。どこか他人事のような気がしてならなかった。
「……事故の関係者に君のことを話してみたんだけど、君のことを探している人は今のところ居ないみたいなんだ。犠牲者の中に親族が居たとも考えられるんだが、いずれにせよ記憶が戻らない限り君は独りなんだ。君を証明するものが何もないからね」
ミズキを気遣いながら優しく説明する医師。ところがミズキに落胆する様子はなかった。
「先生、前にも言ったけど、私は記憶がなくなったこと、ショックじゃないんです。本当にすっきりして、とても楽なんです。記憶がなくなる前の自分がどんな人間だったか分からないけど、家族とか友達とか、もしかしたら恋人とか大事だったかもしれないけど、なんか……戻りたくなくて。生まれ変わった感じがして幸せなんです」
言葉通りすっきりとした表情でミズキは微笑んだ。
「独りで生きていくのは大変だよ」心配する医師。
「はい。でも、不思議だけど大丈夫な気がするんです」
「そうか」医師は微笑み返した。
診察室を出て個室へ戻る最中、ミズキは肩を叩かれた。
振り返ると、先ほどまで同じ診察室にいた看護師がいた。
「これ、返しそびれちゃった」
看護師から青いポータブルオーディオが手渡された。
「ちゃんと充電したから聴けるわよ」
「これ……、私のなんですかね? 」
ミズキはポータブルオーディオを眺めながら呟いた。
「だと思うわよ。搬送されて来たとき握りしめていたんだから」
「そうですか」
「それより、検査で異常がなかったってことは近々退院しなきゃならないわね。警察に行って身元調べてもらって、それでも分からなかったら無戸籍者として保護されるんじゃなかったかしら」
「そうなんですか? 」ミズキは目をキョロッとさせた。
「確かね。で、裁判かなんかで新しい戸籍がもらえたような……とにかく面倒よ。でも戸籍がないと働けないから仕方ないけどね」
「なんか楽しみです」
看護師の話を聞いてミズキは何故か浮かれていた。
「あなた、変わってるわね」
「どうしてですか? 」
「普通なら過去の記憶取り戻したいものよ」
ミズキは看護師の目をみて首を横に振った。
「私はいらないんです。分かるんです、何となく昔より今が幸せなこと。さなぎから蝶になって自由になったような気分なんです」
ミズキは両手を広げて羽ばたくような素振りをした。
「でも、それ聴いたら気持ちが変わるかもよ」
看護師はポータブルオーディオを指さし、そう言った。
「音楽でですか? 」
「音楽じゃない方。録音機能って言ってたかな」
「録音機能? 」
「ここのボタン押すのよ」
一瞬黙り込むミズキ。
「あの……、付き合ってもらっていいですか? 」
ミズキは看護師と一緒に病院の屋上を訪れた。
沢山の白いシーツが風に揺れている。
雲ひとつない青空と緑が美しい山。そんな自然に囲まれた温かい風景だった。
シーツの群れの中を歩いていくミズキ。
「私、ここに居るね」
看護師は入口付近にあるベンチに腰掛けた。
振り向いて会釈するミズキ。
シーツの群れを抜けて屋上のへりにたどり着く。握った柵の手すりが温かかった。
「太陽……」と呟いて空を見上げるミズキ。
日差しがとても心地よかった。
もうすぐ紅く色付く山に目を落とす。ゆっくり深呼吸して、肩の力を抜く。
そしてミズキはイヤホンの右と左を間違わないように丁寧に耳に入れた。
そっと目を閉じる。太陽の温もりと風を感じながら、ミズキは教えてもらったボタンを押した。
『……美月。……こんなことになってごめんな』
ミズキは閉じていた目を見開いた。それと同時に涙がポロっと零れる。
何故泣いているのか、本人なのによく解らなかった。ただ溢れる涙は止まることなく頬をつたう。
『……オレは、もう、ダメかもしれない……。ただ、お前だけには……助かって欲しい』
男性の声だった。息苦しそうにしゃべっている。
『……もし、……もしお前が生きていたら、これまでのことなんて、全部……忘れて……オレのことも、おかしな過去の出来事も……、美月を悩ませていたこと全部忘れて……、普通の……普通の何処にでもいる女の子として生きて欲しいんだ……。ノートは燃えたよ……、もう、美月を証明するものはない……。だから、自由に生きていいんだ……。美月に二回も出会えて良かった……。オレは、楽しかったよ……。守ってあげられなくてごめん……。ただ、ただ、オレはいつでも美月の味方だ……。そばにいるよ……。美月、……幸せになれ、美月……愛してる―― 』
録音はそこで終わった。
ミズキの手は震えていた。思い出せないけど、なんだかとても安心する声に涙は止めどなく溢れる。
その場にしゃがみ込んだミズキを見て看護師が駆けつけた。
「大丈夫? 」
泣き続けるミズキの背中を看護師が優しくなでた。
「思い出せないんです……」
「いいのよ、無理に思い出さなくても」
「でも、……私今、とても幸せです」
看護師は美月の肩を抱いて微笑んだ。
そのまま数分の時が流れ、涙を拭ったミズキは立ち上がり空を見上げた。
「私、ひとつだけ思い出したことがあるの」
そう語り始めたミズキは凜としていた。
「ホント? 」
頷くミズキを見て看護師も立ち上がる。
「産まれたばかりの子供をね、施設に預けたの。男の子」
ミズキは満面の笑みを見せた。
「退院したら、ちゃんと働いて、いつかその子に会いにいく。そして幸せになるの」
風に髪をなびかせ、両手を大きく広げるミズキの姿は、太陽に溶け込んでしまっているかのように明るく眩しい存在であった。
罪のない無邪気な笑顔が空高く誇らしげに輝いたとき、懐かしい声が響いた。
「美月」と――。




