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これはひとりの女性の勇気の物語


「――別れてほしい」

「え?」


 一瞬、なにを言われたのかわからなくて、固まってしまった。




 私の名前は矢野目やのめ双葉ふたば

 もうすぐ二十七歳の誕生日を迎える、妙齢なお年ごろ。

 そう、微妙なお年ごろ。だから少しだけ期待していたんだ。

 もしかしたら私も、そろそろ結婚してお嫁に行けるんじゃないかって。


 昨晩、上司で恋人である彼から「明日は午後半休にして、ランチに行かないか」と言われて、すぐにうなずいた。

 今日は金曜日だ。半休を取れば長く一緒にいられる。

 だから、とうとうプロポーズしてくれるんだと思った。


 基本的に彼と食事と言えば、同じ職場という点から施設内の食堂がせいぜいだったのに。今日は職場からかなり離れた超高級店のフレンチレストランだというのだから。

 私たち庶民は普段足を踏み入れることもできない、貴族の社交場。

 期待するなっていうほうが無理だと思う。


 コースはとってもおいしくて、鴨肉のローストなんて、ずっと口の中に入れていたいくらい、ジューシー。デザートのチョコレートケーキとマカダミアアイスクリームまで、絶品だった。

 今度ボーナスが入ったら、いつもがんばっている家族(妹)に、日々のねぎらいの意味も込めて、食べさせてあげられないかな、なんてのんきに考えていた。

 食後のコーヒーを飲みながら「このあとはどうしますか?」と尋ねた私に、彼は言い放ったのだ。


「別れてほしい」と。


 彼からのプロポーズを今か今かと待っていたというのに。

 なのにまさかの別れ話。

 頭の中では「なぜ」とか「どうして」とか。疑問が浮かんでは消える。


 彼から告白されて、お付き合いを開始して約二年。

 激しい恋ではないけれど、おだやかで優しい日々だった。

 この他愛もない日常が続くと思っていた。喧嘩をしたわけでもないのに、本当に、意味が分からない。


「まって……どうして……」


 明らかに動揺している私を見て、上司でもあり恋人でもあったはずの彼は、どこか気まずそうにすいっと目をそらす。そしてゆっくりとコーヒーカップを口に運んだ。


「実は……結婚するんだ」

「え……」


 私は震えながら藁にもすがる思いで、手元のコップをぎゅっとつかむ。


 私たちだって将来の話もたまにしていた。

 口約束ではあるけれど、私はほぼ婚約状態も同然で、このまま彼と結婚するものだと思い込んでいた。

 けれど彼は私以外の、ほかの女性と結婚するという。


「――二週間前、見合いをしたんだ。管理局長の紹介でね」

「その人のことを、好きになったの?」


  好きなのかと尋ねた私の言葉を聞いて、彼は鼻で笑った。


竜宮りゅうぐうの奥向きの……後宮総取締役の姪御さんだ。それは要するに名門貴族ってことだ」

「貴族……」


 この国は、竜が二千年の長きにわたり国をおさめ、私たち人間は彼らの庇護にある。

 彼らの持つ異能の力が私たちの国を守っている。

 そしてその頂点、竜の王がいらっしゃるのが、東京都内にある竜宮だ。

 私は高校卒業後、竜宮で公務員として働いている。

 最初は竜宮全体の総務にいたけれど、働きぶりを認められて、竜宮の奥向き――後宮へ異動となった。


 後宮は竜の王とその眷属がお住まいになる尊い場所だ。

 お仕えする竜族はまさに雲の上の方々で、けれど私のような一般の事務員は、そのお姿を肉眼で拝見することはできない。

 けれど仕事に誇りはもっていて。

 自分がやっていることは末端かもしれないけれど、竜の皆様の生活を、ひいては国を守っているのだと思っていた。

 だから結婚しても、働き続けたいななんて、のんきに考えて――。


「僕の外聞もあるし、できたら君には他に移ってもらいたいんだ。公益法人やら財団やら、候補はいくらでもある。向こうの親御さんが用意してくれる。慰謝料も出すと言っていたよ」

「――」


 急に饒舌になったのは焦りだからだろうか。

 なんと私に仕事を辞めろとまで言い出して、開いた口が塞がらない。


 慰謝料くらい自分でだしたらどうなの。いや、もらうつもりはないけれど。結婚前の相手のご両親にあれやこれやおぜん立てしてもらわないと、私と別れることもできないの?


 こんな人だったんだ。

 どうして今まで見抜けなかったんだろう。

 自分の馬鹿さ加減がいやになってくる。


『二年付き合った恋人を捨てて、出世の道を選ぶ』


 よくある話なのかもしれない。だけどまさか自分の身に降りかかってくるなんて誰が思うだろう。


「妹さん。シングルマザーなんだってね。だったらお金は欲しいだろう?」

「――今すぐ口を閉じて」

「はっ?」

「今すぐその恥知らずな口を閉じろって言ってるのよ、このスカポンタンが!!!!!」


 私の絶叫が、ビストロのフロアに響き渡る。

 そして手元にあったグラスの中身を、思いっきり元恋人に向かってぶちまけていた。


「ひいいいいっっ!」


 冷たい水をかけられて、情けない悲鳴を上げた彼は、おびえた目で私を見つめた。


「きっ、君はそんな人だったのか! おしとやかな女性だと思っていたのにっ!! 騙したな!」


 なぜか私が悪役になっている。

 ちゃんちゃらおかしい。へそが茶を沸かすわ。


 そう、確かに私はよく『おとなしそう』だとか『おしとやか』だとか言われるタイプだ。

 普段は後ろで一つにまとめている背中の真ん中まで届くまっすぐな黒髪と、色白な肌と華奢な体。

 ただそれだけで勝手に中身まで『男に従順な女に違いない』と思われてしまう。

 けれど演技をして周囲をだましているわけでもない。

 私の奥底に、『絶対に譲れないものがあるときは、断固として声をあげる』という性質があるだけだ。


「詐欺だ、ひどい詐欺だ!」と私を見て目を吊り上げている元恋人を見て、『そうか、こういう人だったのか』と、すうっと全身から熱がさめていく。


 むなしい。なにもかも。

 この男の妻になるのだと思った自分が情けない。


「――熱いコーヒーじゃなかったことを感謝して」


 ハンドバッグを持って立ち上がり出口へと向かう。

 ランチの時間でフロアはいっぱい。おそらく二十人くらいはいただろう。

 明らかに別れ話のもつれという状況なのだから人目を引かないはずがない。


 だったら私は胸をはるわ。

 なにも悪いことなんてしていない。

 堂々と、胸を張って出ていく。


 だけど――。




「うっ……うううっ……ひっ……」


 ビストロを出ると同時に、涙があふれた。嗚咽が止まらなくなる。

 情けない。

 あんな人と結婚できるかもしれないなんて、幸せになれるかもしれないなんて、期待していた自分が情けない。

 昼日中のはずなのに、ショックが大きすぎて、涙が止まらなくて目の前がよく見えない。

 足はフラフラで、思うように動けない。

 息もうまくできない気がしてきた。

 もしかしたら貧血だろうか。

 転ぶ前にどこかに座らなければと思った瞬間、ヒールのつまさきが石畳につまづいた。


「あっ……」


 体がぐらりとかたむいた瞬間、


「失礼」


 耳元で引く声が響いて、背後から腕がつかまれ引き寄せられる。

 そして私の体は、そのまま誰だか知らない男の人の胸に飛び込んでいた。





「どうぞ」


 親切なその男性は、魂の抜け殻のような私をそのまま近くのベンチに連れて行き座らせ、ハンカチを差し出してきた。


「すみません……」


 一応お礼は言ったが、彼の顔すら見られない。力が全く入らない。


 ハンカチはバッグの中にあるけれど、出す元気もなかったので素直にそれを受け取り目に当てる。清潔な布の感触にほっとして、少しだけほっとした。


「――もしかしてビストロにいましたか」


 うつむいたままの私の問いかけに、


「ええ」


と、彼は答えた。


 落ち着いて上品な声色だ。

 貴族だな、とすぐにわかった。


 年は私と同じくらいか、少し上だろう。

 職場柄、上等な人間というのは、顔や様子を見なくてもわかる。

 息継ぎ、呼吸のタイミング、声の出し方。

 立ち居振る舞いというものを、貴族は生れた時から、徹底的に叩き込まれる。

 うちだって一応士族のはしくれではあるけれど、びっくりするくらい貧乏なので、ほぼ庶民。彼らとは住む世界が違う。


「内容も聞かれましたか」

「少しだけ」

「お見苦しかったでしょう。忘れてください……すみません」


 どこの誰だか知らない、ハンカチを貸してくれた親切な人。

 きっと女性を放っておけないタイプなんだろう。

 だから私も彼をこれ以上気遣わせないように、少しおどけた。

 本当は大声をあげて泣き叫びたいくらいだけど、気が付けばタイミングを失ってしまった。


「そう言われても、なかなか忘れられそうにないな。むしろ君に興味がわいてきた」

「振られて失業しそうな女が珍しい……?」


 思いもよらない彼の言葉に、私は衝撃を受けた。

 なんてこと。また私は男によって都合のいい存在にされようとしているんだ。


 最悪だ、本当に最悪だ……。

 うつむいたままうめくようにささやくと、


「そうじゃない」


 上等な衣擦れの音がしたかと思ったら肩を抱かれていた。


「君から目が離せない。君が……欲しくなった」


 かなり長身の男なのだろう。

 肩を抱かれただけでまるで全身を包み込まれたような感覚を覚える。


「貴族らしい傲慢ごうまんなお言葉。それでなんでも自分のものになると思っていらっしゃる」


 私は低い声でささやいて、肩を抱いていた手を振り払った。

 それでも男の顔は見なかった。

 ただ地面を見つめ、自分がはいている靴のつま先をじっと、穴があかんばかりに眺めていた。


 あれがほしい、これがほしい。

 それがたとえ他人のものであったとしても関係ない。

 竜王とその一族、そして特権階級である中央政権に存在する、数万人の貴族たちは、こうやって私たちをまるで物のように扱うものなのかもしれない。


「いや、そういうわけでは……困ったな。君を傷つけるつもりはない」


 私の強い反発に驚いたようだ。

 彼は少し困ったように、耳元でささやいて、抱いていた肩から手を放す。


「もう少し話がしたい」


 それは誘惑のつもりなのだろうか。


「貴族なんてお断りです」

「――」

「お断りよっ……あっちに行ってっ……」


 両目からぽたぽたと涙があふれて、膝の上に落ちた。

 しばらく彼は隣に座っていたけれど、間もなくして立ち上がり歩き出す。

 数を10数えて顔を上げると、長身の黒いスーツの男が道を挟んだ向こうの黒塗りの車に乗り込んでいくのが見えた。

 白い手袋をした運転手が丁寧にドアを閉める。

 逆光で顔まではわからなかったけれど、裕福なのは間違いない。


 やっぱり貴族だ。

 泣きながら、ぼんやりと車が出ていくのを見送って、はっと気が付いた。


「ハンカチ……」


 私の手元には、上品な刺繍が施されたハンカチが一枚、残されてしまった。


 だがもう返しようがない。

 名前どころか顔も知らない貴族の男なんて、二度と会うことはないのだから。




 公園の水道で顔を洗い、そのままなんとなく帰る気もせず、ふらっと入ったカラオケ店でひとりカラオケとしゃれこみ、バッティングセンターでホームランを立て続けに打った後、オールナイトで立て続けに三本の映画を見た。

 考えてみたら、半休を取ろうと元恋人に言われたのは、時間をあけて頭を冷やさせるという周到な罠だったのかもしれない。


 でもその作戦は成功だったと思う。

 土曜の朝、自宅に帰った私は、妹とその息子(私にとっては目に入れても痛くない最愛の甥っ子だ)と三人で、小旅行と称して箱根の温泉に繰り出し豪遊。


 そうやって散々遊んで、いざ月曜日が来て出社してみれば、自分でも驚くくらい、元恋人に対して、なにも感じるところはなかった。

 とはいえ、向こうはちらちらと私を見て、なにかを気にしている風だ。

 ちらちらと視線を感じるけれど、私は完全無視。いや、仕事でのやりとりは今まで通り以上に丁寧にやったので、誰にも何も言われることはない。

 と、思ったのに。




「いったい何をしでかしたんだ」


 元恋人のさらに上司である部長から呼び出された私は、デスクの前で、いきなりの叱責に首をかしげる。


「なんのことですか」

「殿下が君をお召しになっている」

「殿下……?」


 この国に、殿下と呼ばれる方はひとりしかいない。

 竜王には三百人の側室がいるが、貴重な竜種は、おそろしく子供ができにくく、その子はただひとり。それが『殿下』と呼ばれる皇太子だ。

 お召しになるという意味がわからないが、自分と皇太子に接点はない。


「なにかの間違いかと思いますが……」

「間違いだろうが何だろうが、殿下のご命令だ!」


部長は顔面蒼白のまま、デスクをこぶしでドンと叩く。


「でも私、仕事がまだ山積みなんです」


 あれから何ごともなかったかのように出勤してくる私に対して、上司は嫌がらせをしかけてきた。

 大げさにならない程度のささいなミスを押し付けられたり、自分の許容範囲を超えた仕事をどんどんと回してくる。

 ここ一週間ほど、定時に帰れた日は一度もなかった。

 同じ職場の同僚で、私と上司の関係を知っていた人は、お気の毒様という顔をしているが、裏では「捨てられたんだって。早くやめればいいのに」と笑っているらしい。


 笑いたければ笑えばいい。

 でも私は逃げない。

 理不尽な仕事を押し付けらえたとしても、仕事は仕事だ。

 やりぬいて見せるし、投げ出さない。


「仕事っ!? そんなものどうでもいいから、早く支度をしなさいと言っているだろう!」


 殿下のもとにいかなければ、一秒ずつ寿命が縮まるといわんばかりに叫ぶ部長は、焦ったようにデスクから立ち上がると、私を追い立てようと腕を伸ばしてくる。


「どうでもいいって、そんな……」


 どうでもいいならなぜ私は出世のために捨てられたのか。

 会うとか会わないとか、そんなの、そっちの勝手じゃないか。

 ぐっと奥歯をかみしめながら、それは違うと反論しようとしたその瞬間。


「君の仕事が終わるのを、見ていよう」


 背後から涼やかな声がして。

 振り返るとそこに、長身の輝かんばかりの美男子が立っていた。


 しみひとつない陶器のような白い肌に、くっきりとした目鼻立ち。切れ長の二重瞼に上品な鼻筋、そして柔らかく微笑みを浮かべた唇。美しい黒髪はつやつやで、まるで子供の髪のようだった。

 黒を基調にしたゆったりとした着物の上に、いくえもの紗を重ねた衣装の裾が、優雅に床に広がっている。

 竜宮に勤める職員は全員スーツ着用だ。

 こんな格好で竜宮内を歩けるのは、ほんのごく一部――。


「つの……」


 私は信じられないものを発見し、ぽつりと、つぶやいていた。

 そう、彼のこめかみの上あたりから、片手で握ることができないくらい太く大きな角が、斜め上に向かって伸びている。根本は濃い瑠璃色で、上に伸びていくほど薄くなり、先端は象牙色に輝いていた。


 竜人――!


 全身が泡立つ。

 我に返った瞬間、私はその場にひざまずいていた。

 いや、私だけではない。

 当然ながら部長も、そしてこのフロアにいる人間全員が、その場にひざまずきこうべを垂れている。

 この国を統べる竜の王、そしてその眷属は、私たちのような一介の職員が、直接お顔を拝見できる方ではないのだ。

 急にしゃがみこんだせいか、それとも緊張のせいなのか、くらくらしてきた。


「でっ、でっ、でっ……殿下ぁ……」


 部長が息も絶え絶えになっていた。


 そうよね、そうなるわ。普通の人間なら、耐えられないと思う。何度も唾を飲み込んで、言葉を発そうとしている。


「仕事を辞めて付き合う必要はない。俺が彼女を待つから、皆、楽にしてほしい」

「は?」


 殿下の自由な発言に、部長が目を点にした。

 隣で聞いていた私もぽかんと口が開いた。

 顔をあげていいという許可もないのに、私はひざまずいたまま殿下を見上げていた。


 そしてようやく気が付いた。

 この人は……私にハンカチを貸してくれた貴族だ。

 まさか……。貴族どころか王族だった。


「――あの」


 数々の無礼が脳裏によみがえる。

 上司の嫌がらせなどとは比べ物にならない、自分だけではなく家族も巻き込んだ大問題に発展する。

 全身から血の気が引いた。


「おっ……お許しください」


 私は声を絞り出す。

 震えたが、それでもなんとか声を振り絞った。


「言ったろう、話がしたいと」

「……」


 そう言われればそんな気がする。


「君の嫌がることはしたくないから、どうしたものかと悩んでいたが……。悩んでいても解決しないので、こうやって来たのだ」


 そして殿下はそのまますうっと私の前にしゃがみ込むと、私の地面についた手をそっと包み込むように持ち上げて、にこりとほほ笑んだ。


「どうだろう。俺と『ともだち』から始めてみないか」

「へ……?」


 この国で最も尊い身分の方から、友達になろうと言われてしまった。

 もしかして刑務所に入れられるのではと帯びていた私には、青天の霹靂で。

 当然、いやですという選択肢もなく。


「お友達なら……まぁ」


 と答えて、周囲の空気を凍らせたのは、言うまでもない。





 それから殿下は三日とあけず私の職場にやってきて、皆の仕事の手を止めさせた。

 さすがに仕事にならないと局長が進言して、私のお昼休みだけ、殿下と過ごすようになった。

 私がたくさんある会議室の一つでお弁当を食べている間、殿下はただそれをニコニコと眺めているだけ。殿下にはSPがついているのだが、会議室の中ではなくドアの外に立たされているらしい。

 どうせすぐに飽きるだろうと思ったが、これがなかなか飽きてくれない。

 毎日十五分程度だけれど、殿下は必ず私の顔を見に来て他愛もない話をした。


 たとえば私の家族のこと――母を早くに亡くしたことや、それでも父と妹と、その息子と仲良く暮らしていること。

 勉強が好きだったけれど経済的な理由で進学はあきらめたが、そのうち大学に行ってみたいと思っていること。

 趣味の読書。最近はまっているミステリー小説。

 本当に友達同士でかわすような、どうということもない話をした。


 殿下は美しく人を寄せつけないお姿をしていたが、そのお心は優しく穏やかな人だった。

 彼と話しているだけで、不思議と私もリラックスできるような、そんな気がした。


 けれどそんな日は長く続かない。

 そのうちまことしやかに、私に殿下の手がついたと噂されるようになった。それもある意味、当然かもしれない。

 竜の一族は異能の力を持つが、その貴重さゆえか子供ができにくい。

 今の竜王様には300人の側室がいるが、皇子は彼一人なのだ。

 だから皇太子にもすでに多くの側室が侍っている。


 彼の手がつくということは、私もそのうちのひとりになるということなのだけれど、正直いって迷惑極まりない。

 たったひとりの平凡な男ですら奪われた私が、竜の皇太子の側室のひとりになるなんて、耐えられない。

 あくまでも噂にしかすぎないのに、そう思われるだけで全身からエネルギーが奪われる気がした。


 だから私は、彼に告げた。


「殿下、もう私に会いに来ないでください」


 殿下はお弁当袋を持ったまま頭を下げる私を、ドアを閉めながら抱き寄せる。


「そろそろそういうことを言う気がしていた」


 噂についてはすまないと思っている。

 そういう殿下の声は、優しくて。私を責める気配は微塵もない。


「殿下……」

「だがいやだ。離れたくない」


 抱きしめられると、じんわりと涙が浮かんだ。


「涙をこらえて歩く君を見た、あの時からずっと、俺は君に恋をしているんだ。だからこうやって、君の心が変わるのを待っている。俺をほんの少しでも好きになってくれる日まで、ずっと待つ。だが俺に待たれるのが苦痛だというのなら、会う頻度を減らそう……残念だが……寂しいけども……うん……」


 あまりにもしょんぼりした声に、顔を上げると、頭上からさらさらと黒髪が降ってくる。


「寂しい……?」

「ああ、すごく。さびしくてたまらない」


 殿下のすっとした眉尻が、しょぼんと下がった。


 かわいい。

 こんなことを思っては不敬かもしれないけれど、でもかわいい。

 初めて雲の上のこの人を、私は今日、もう会わないと決めたこの時に初めて、愛おしいと思った。


「殿下……」


 私は指を震わせながら、私を見つめる殿下の頬に手を乗せた。


「双葉。俺のかわいい、双葉……もう会わないなんて言わないでくれ」


 その、殿下の率直な懇願は、いろんなことに自暴自棄になって、面倒ごとに巻き込まれるくらいなら、全部捨ててやると思う私のかたくなな心をほどいていく。


 会えないのは寂しい。顔を見たい。声をかわしたい。

 私もそうだ。

 もう殿下に会えないと思うと、寂しい――。

  なんてこと。私も彼に恋をしてしまったらしい。




 それから私たちは紆余曲折を経て、恋人同士になった。

 何度も別れの危機に直面しながらも、彼は私を決して離さなかった。

 そして私も、身分の差に悩み、苦しんで。命の危機にさらされても、私も彼をあきらめなかった。




「双葉、気分は悪くないか?」


 豪華な衣装に身を包んだ、皇太子である璃緋斗の手のひらが、そっと私の下腹部を撫でる。

 いたわるように、そしていつくしむように。


「はい、大丈夫です」


 私がうなずくと、璃緋斗はほっとしたようにうなずく。


「苦しくなったらすぐに言うように。もうひとりの体ではないのだから」


 そう、私は彼の子供を授かった。

 次の王の子供を。

 そのことがわかってから、彼の行動は早かった。

 私を側室ではなく皇太子妃にするために動き続けていた彼にとって、これはまさに奇跡だったのだ。

 そして私は今日、数多くいる側室の一人ではなく皇太子妃になる。




 ここにいるのは、数名の巫女と竜宮職員。

 奥には王族の方々が、ずらりと並んでいらっしゃるはずだ。

 竜宮の奥深くで行われる婚礼の儀は、私の家族ですら呼ばれない秘密の儀式だ。


 私は目を閉じて儀式の手順を頭の中でおさらいする。

 大丈夫、うまくやれる。

 こんなことはおいそれと口に出せないが、ものすごく豪華な神前式のようなものだ。


「前へお進みください」


 巫女の招きに、私は顔を上げて、隣の彼と一緒に歩を進める。

 着物の胸元には、あの日殿下がくれたハンカチを忍ばせて――。



 結婚したところでハッピーエンドとはいかないだろう。

 でも私はこれからも負けたりなんかしない。

 泣き寝入りなんかしない。

 愛する人の隣に立ち、彼を支えよう。


 めでたしめでたしで終わらないのが、人生だ。

 それがたまらなく愛おしい。






この作品は現在連載中の「異世界オフィスラブ〜竜に抱かれて〜」のスピンオフ作品になります。


双葉の妹がヒロインで、皇太子妃になった双葉を護るために竜宮に乗り込むけれど、上司とあれこれ、みたいな異世界を舞台にしたオフィスラブです。


作品へのリンクは下にあります。


暇つぶしにでもしていただけたら嬉しいです。


最後まで読んでくださった方、評価をくださった方、本当にありがとうございました。



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