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ロステアール・クレウ・グランダ 1

 あの子が泣いている。淋しい、苦しいと、泣いている。

 それは迷い子の泣き声のようで、しかし怨嗟が籠められた呪いのようでもあった。けれどきっと、この子は嘘偽りなく、心の底から慟哭している。どうしてだか、それだけは判った。

 いたいよ。こわいよ。つらいよ。さみしいよ。ねぇ、どうしてぼくをおいていくの。いっしょだって、やくそくしたのに。

 あの子の震える喉から、そんな言葉たちが零れ落ちた。ああでも、きっと、あの子の言っていることは何ひとつ間違っていないのだ。裏切ったのはこちらで、手放したのもきっと、こちらからだったのだから。

 いかないで。いかないで。

 ああ、あの子の声が遠ざかっていく。誰よりも愛おしくて何よりも守ってあげるべきあの子が、遠くへと離れてしまう。

 張り裂けそうに胸が痛んだのは、きっと罪の証だ。けれどそれでも、この腕も足も動いてはくれない。遠ざかるあの子の泣き声に、ただの一声も返すことができない。

 

 ぼくをひとりにしないでよ……、きょうや……。

 

 遠くなっていく声は、きっと最後にそう言った。けれど、この胡乱な頭はそれすら思い出すことができないのだ。

 あの子とは、一体誰だったのだろう。





 はっと目を覚ました少年が真っ先に見たのは、心配そうにこちらを覗き込んでいる王の顔だった。

「大丈夫か、キョウヤ」

 王の大きな掌が、少年を案じるように髪を撫でる。それに僅かばかりの居心地の悪さを覚えた少年がそっと視線を逸らすと、ここが少年が寝泊まりしている部屋であることが窺えた。どうやら、あのやけに大きなベッドに寝かされているらしい。

 慌てて身体を起こそうとした少年だったが、制止した王にやんわりとベッドへと押し返されてしまう。

「身体に障るから、そのまま寝ていなさい」

「あ、……あの、僕……」

 戸惑うように声を漏らした少年に、ベッドに腰かけたままの王がゆるりと微笑んでみせた。

「話の途中で突然倒れてしまったのでな。勝手ながらここまで運ばせて貰った。しかし、眠っている間中うなされていたものだから、酷く心配したぞ」

「倒れた……」

 呟いた少年に、王が少しだけ窺うような表情をした。

「覚えているか?」

 問われ、少年は暫しの沈黙のあと、静かに頷いた。

 やや記憶があやふやだが、確か、この王に母のことを話したのだ。少年にとって禁忌のようなあの話を何故自ら口にしたのかは思い出せないが、そんなことはよくあることなので、今はどうでも良い。それよりも少年にとっては、王に全てを知られてしまったことの方が重要だった。

「……あの、…………ごめん、なさい……」

 思わずといった風に口にした言葉は、酷く震えてしまった。けれど、謝らない訳にはいかなかったのだから仕方がない。

「それは、何に対する謝罪だろうか」

 凪いだ水面のような穏やかな声が、少年の耳を優しく撫でる。たかだかそれだけのことだったのに、少年は何故か、泣いてしまいたい気持ちになった。

「……僕、とても汚い、のに、……こんな、貴方みたいな、綺麗な人に、」

 愛しているなどという言葉を吐かせてしまうなんて。

 それが罪であることなど、とうの昔に少年は知っていた。知っていて、王に進言することができずにいた。それは、王の好意に背くようなことを言うのを恐れたからかもしれないし、もしかするとそれ以外に理由があったのかもしれない。けれど、そんなことはもう関係なかった。理由がどうあれ、少年は結果的に王を裏切ってしまったのだろう。

 何故なら、王は少年がどれほど汚くどれほど醜い存在なのかを知らなかったのだ。そして、少年はそれを王に伝えられなかった。王が与えてくれた真摯な言葉に向き合いたいなどという欺瞞が、こんな自分でも愛されることが許されるのかもしれないという甘えが、この事態を招いたのだ。

 少年が犯したこれ以上ないほどの裏切りという罪は、今こうして己の身に返ってきた。

 王はきっと、少年が想像するよりもずっと激しく落胆したことだろう。それはそうだ。自分が愛した相手がこんなにも醜く、生まれた価値すらない存在だったなんて、あまりにもあまりだと、少年だって思う。

 王に対してこの上ない罪悪感を抱くと同時に、少年はもしかすると打ち首になってしまうのではないかという恐怖にも震えていた。醜い自分は、この期に及んでなお己の命に縋ってしまうのだ。本当に、救いようがない。

 断頭台の前に立たされた囚人の心地でいる少年は、ただただ俯いて、王の唇が罪状を紡ぐときを待っていた。

「……ふむ。まあ、この際お前が汚いかどうかは置いておこう。お前の生い立ちを考慮するに、私が口先だけで何を言おうと、お前の考えを変えることは容易ではないだろうからな。幼い子供にとって、親とは世界そのものだ。世界が相手では、さしもの私も分が悪い。……それでは、こうしようか」

 いよいよ断頭台に上げられるときが来たかと、少年が身を固くする。王が発する言葉をここまで恐れるということは、自分はこの王に何かを期待していたのだろうか。ああ、きっとそうだ。醜く浅ましいからこそ、愛されることが怖いのに愛されたいと願ってしまうのだ。尤も、その願いは今度こそ断たれるのだけれど。

 重い刃が己の首を落とすのを覚悟して、少年はきつく目を閉じた。しかし、

「まず、私はお前のことを愛しているのだから、お前が汚くても醜くても気にしない。良いな?」

 思っていたのと違う言葉に、少年は思わず顔を上げてしまった。そして、やや呆けた顔で王を見る。

 見上げた王の顔は、いつもと変わらない柔らかな笑みを象っていた。

「……あの…………、でも、お母さんは、僕のことを汚いって……、」

「お前の母はそうだったのだろうが、私はそうではない。私はお前の母ではないからな」

 そう言った王に、やはり状況が飲み込めない少年は、思ったままに言葉を零す。

「……貴方は、汚いものが好き……?」

 小さな呟きに、王が苦笑を漏らした。

「それは盛大な勘違いだが、お前がそれで納得できるのならばそういうことにしておいても構わんぞ」

 そう言って、大きな掌が少年の髪を滑る。

 王の言動から察するに、汚いものが好きという訳ではないのだろう。しかし、それならば何故、未だに少年に優しくしてくれるのだろうか。

「…………僕、お母さんにも嫌われてしまうくらい、とても汚いのに……」

 自分がどれほど汚く醜いかを知られてしまった以上、この王が自分をそれでも愛してくれるなどいうことは有り得ない。そんな思いが籠められた言葉に、王が少しだけ悲しそうな顔をしてみせた。

「そんなに寂しいことを言うものではないぞ、キョウヤ」

「……でも、僕は……、」

 汚い自分が生きているせいで、美しかった母の顔は醜く歪んでしまったから。こんなにも綺麗なこの人まで母と同じようになってしまうのは嫌なのだ。怖いのだ。

 だって、王はもう少年がどれほど汚れた存在であるかを知ってしまった。知ってしまった以上、その汚れはいつか王を蝕んでしまうかもしれない。美しかった少年の母が、醜悪な何かに成り果ててしまったように。

 目を伏せて唇を強く噛んだ少年を、王が静かに見下ろす。

「……お前は、私の美しさがそんなにも簡単に損なわれてしまうものだと思っているのか? お前を愛し、お前に触れるだけで、私という人間は汚れてしまうと、そう思っているのか?」

 その言葉に、少年は弾かれたように目を開けて王を見た。その瞳が、不安と恐怖で頼りなく揺れる。

「そ、そんなことはないです。ごめんなさい。僕、そんなつもりは……、」

 王に対してこの上ない侮辱を吐いてしまったのかもしれないと青褪めた少年に、王が少しだけ困ったような表情を浮かべた。

のだろう。お前の言葉を事実として深く受け止め、考えを改める」

「ち、違うんです、そんなこと、だって、貴方は、とても綺麗だから……」

 そんな簡単にその美しさが損なわれてしまうなんて、思うはずがない。この人の美しさは、そんな儚くか弱いものではないのだから。

「ふむ。それでは、お前が気にすることはもう何もないではないか」

「……え、ええと……?」

 王の手が、少年の手をそっと包み込んだ。そうされて初めて気づいたが、どうやら自分の指はもうずっと前から震えていたらしい。

「たとえお前がどんなに醜く汚れた存在だとしても、私の美しさが損なわれることはない。ならば、私がお前を愛し、お前を望んだところで、そこに問題などありはしないだろう?」

「…………どうして……、」

 どうして、この人はこんなにも自信で満ち溢れた言葉を紡ぐのだろうか。王の美しさが至上のものである知っていてなお、少年は自分がそれを汚してしまう可能性を思ってしまうのに。どうして王は、僅かな可能性すら存在しないと言い切れるのだろうか。

「お前が私の在り方を美しいと言ったのだ。それならば、私が私である限り、それが揺らぐことなどありはせんよ」

 王の言っていることはやはり半分以上理解できなかったが、それでも、きっと、彼の言葉は少年が求めていたものに近かったのだろう。

「……ほんとう……?」

 細い声が、少年の喉から零れ落ちた。

「……本当に? 本当に、貴方は、ずっと綺麗なままでいてくれる……?」

 自分の手を包む王の指を、少年が僅かに握り返す。それはやはり、あのときと同じなけなしの勇気で、しかしあのときとは違って、もっとずっと本質的な一歩であった。それならば、王がその歩みを祝福しない訳がないのだ。

「ああ、約束しよう」

 短くも確かな誓いの言葉を受け、少年は王を見つめた。ああ、本当に綺麗で、強い人だ。この人が誓ったのならば、きっとその誓いは果たされるのだろう。きっとこの人は、永遠に綺麗なままで、自分と接してくれるのだろう。

 それは最上の幸福で、同時に最大の罪のようだった。それでも、少年は王の誓いに心の底から安堵した。このことが何を意味しているのか、少年にはまだ判らない。けれど、彼の中で何か大きな変化があったのは事実だった。

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