第一話
「お、ようやく来たな。お前が次のお役目か?」
広い居間の真ん中に丸くなっていた猫が、なんとこちらを向いて喋りかけてきた。
「え!? 猫が……喋った……!?」
とても現実とは思えない出来事に、僕の頭の中に今日の出来事がぐるぐると渦巻いた。
どうしてこんなことが起きたのか? 僕は今日の出来事を思い返した。
ここはどこだろう? 気が付くと、僕の周りには闇が広がっていた。じっとりと粘り気のある闇が纏わりつき、締め付けられるような閉塞感が僕を蝕んでいる。この息苦しさから抜け出したくて身を捩るが身体は全く動いてくれない。段々と僕を押しつぶすような重圧がかかってきているような気がする。苦しい、助けてくれ、どうしよう、僕は闇の中でもがき続けた。
ふと前を見ると、小さな光が遠くに見えた。僕は縋るようにその光に向かって手を伸ばした。
「透くん!」
僕の名前を呼ぶ声で目を覚ました。僕は息苦しさから解放されて大きく息を吸った。いつの間にか眠り込んでいたようで夢を見ていたようだ。
「大丈夫? 透くん。なんだかうなされてたみたいだけど」
横を見ると、太一おじさんが車の運転席から心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「あ、うん、大丈夫。ちょっと夢を見ていたみたい……」
小さな深呼吸を何度か繰り返してようやく落ち着いてきた。僕は額の汗を拭って、車のシートに座り直した。
「大丈夫? まだ辛いんじゃないかい?」
「いや、もう大分良くなってるから心配ないよ」
おじさんが心配しているのは、僕が少し前まで病気に罹っていたからだ。病気と言っても身体の方ではなく心の病気だ。そのおかげで僕は勤めていた会社を35歳にして退職した。
でも、会社を辞めてから少し経つが、仕事のストレスから解放されて心身共に上り調子だ。今は新しい仕事も見つかって、ここから新しい人生を始めよう! と前向きになっていた。
「でもすまないな、なんだか透くんにあの家を押し付けたみたいになっちゃって」
おじさんが運転している車がトンネルの中に入った。薄暗いオレンジ色をしたトンネルの照明の光が、車内を流れるように滑っていく。
数ヶ月前に僕のおじいちゃんが亡くなった。
おじいちゃんは田舎の大きな家で一人で暮らしており、その家をどうするか? というのが家族の中で問題となった。祖父の家は代々受け継がれている古い家なので、取り壊すのも躊躇われていた。
祖父の子ども——おじさんや僕の父親は遠く離れて暮らしているので、家を管理することは難しい。そんな困っていたところに、ちょうど仕事を辞めて身軽になった僕に白羽の矢がたったのだ。
僕も話を聞いたときは迷ったが、大好きだったおじいちゃんの家が無くなるのは寂しかったし、病気を寛解させるために環境を変えた方が良いと医者にも言われていたので、思い切って僕が住んでしまうことにしたのだ。
それで今、おじさんの車でおじいちゃんの家まで送っていってもらっているところなのだ。
「家に手は付けてないけど、透くんの好きにしてもらって構わないよ」
「うん、色々好きにさせてもらうよ」
車がトンネルを抜け、一瞬、眼の前が真っ白になった。光に目が慣れてくると、視界いっぱいに空の青と山の緑が広がった。春分を過ぎて寒さが薄れ、春の足音が近づくこの時期の茶色から緑に変わろうとしている景色が、なんだか新しい人生の始まりが感じられて胸が高鳴った。僕はしばらくその景色に見入っていた。
「この山を降りたらすぐだよ」
ガードレールの向こう側に小さな町並みが見えた。きっとあそこが僕の新しい故郷になる場所なのだろう。僕は景色を眺めながら期待に胸を膨らませた。
三十分ほど車を走らせたところで、ようやくおじいちゃんの家へと辿り着いた。ここへ来るのはおじいちゃんの葬式以来だ。それからあまり時間は経っていないのに、なんだか少し懐かしさを感じた。
それから僕とおじさんとで持ってきた荷物を車から家へ運び込んでいると、家の前で知らないおばさんが声をかけてきた。
「もしかして、白崎さんのお家の方かい?」
「はい、白崎透といいます。もしかして祖父の知り合いの方ですか?」
「ええ、白崎さんには生前お世話になったからね。私はすぐそこに住んでるから困ったことがあったら何でも聞いてね」
「はい、ありがとうございます! よろしくお願いします!」
僕がそう挨拶を返すと、おばさんは笑いながら去って行った。
それから何人か同じように挨拶に来てくれる人がいた。みんなおじいちゃんに世話になったからと、笑いながら優しい言葉をかけてくれた。おじいちゃんはこの町の人たちから本当に好かれていたんだと感じられて、なんだか嬉しくなった。
一通り荷物を運び終えると、おじさんは「元気にするんだよ」と言い残して車で帰って行った。ひとりになって少し寂しさを感じた僕は、それを紛らわせるために家の中を見て回ることにした。
葬式の時はそれどころではなかったので気づかなかったが、家の中は昔の記憶からあまり変わっていないように感じた。
古さを感じさせる木造の家は所々傷んではいたけれど、柱の傷や天井の染み、日に焼けた畳、そんな家の端々からなんだかおじいちゃんの気配が感じられた。
ギシギシと軋む廊下を歩いて行くと、客間に差し掛かった。おじいちゃんの家は六畳の客間が3つあり、僕たちはいつもここに寝泊まりをしていた。
ここに布団をたくさん敷いて、おじいちゃんとよくプロレスをして遊んでいた。おじいちゃんの家に来た時はいつもおじいちゃんが遊んでくれていた。そんなおじいちゃんが僕は本当に大好きだったんだ。
客間の隣には仏間があった。そこの仏壇には曽祖父母とおばあちゃんの位牌が並べられており、その中央に新しくおじいちゃんの位牌が並んでいた。
僕はペン立てからライターを取ってお線香に火を付け、手を合わせて目を閉じた。
「ただいま、おじいちゃん」
目を閉じると、今でもおじいちゃんの笑顔が脳裏に浮かんでくる。そんなおじいちゃんはもういない。僕は目を開いて仏壇を少し見つめると、仏間を後にした。
次に僕は居間へと入った。居間は親戚が一堂に集まっても大丈夫なくらい広い。ここでみんな揃ってご飯を食べていたものだ。
そんなことを考えながら居間の敷居を跨いだ時だった。居間の真ん中に真っ黒い塊が見えた。僕はびっくりして急いで電気を点けて目を凝らすと、それは真っ黒な毛をした猫だった。その猫は部屋のど真ん中でふてぶてしく丸くなり、気持ち良さそうに眠っていた。つやつやとして柔らかそうな毛に、ピンと立った耳がたまにぴるぴると動いているのが愛らしい。
おお、かわいいな……。僕は思わず撫でたくなってしまい、その猫へそっと近づいた。すると、その猫がパッと目を開け、くあ~っと大きな欠伸を一つして僕の方へ顔を向けた。
「お、ようやく来たな。お前が次のお役目か?」




