離さない手
回復薬は、王都全域に配布された。
すべての者を対象とし、優先順位は設けない。
それが、国の方針だった。
だが、現場は違っていた。
混乱は収まらず、人は並び、順を争う。
判断は個人に委ねられ、偏りが生まれる。
異国の者は、後回しにされることが多かった。
もともとあった差別は、今回の事件で表に出ていた。
回復薬を服用した多くの者に、改善が見られた。
だが、すでに手遅れとなった命も少なくない。
街の様子は、大きくは変わらない。
不安は残り、疑念も消えない。
人と人との距離も、そのままだ。
それでも。
回復薬は渡されている。
渡さない者がいる一方で、渡す者もいる。
迷いながら差し出す者もいた。
誰かから、誰かへ。
確実に。
小さな変化が、生まれていた。
目に見えるほどではない。
何も解決していない。
それでも——
止まってはいなかった。
その流れの中に、アイリスもいた。
アイリスの体は、完全には戻っていない。
腕に残った発疹の跡は、消えなかった。
薄く、だが確かに残っている。
それでも、歩くことはできる。
言葉も問題なく出る。
日常は、少しずつ戻り始めていた。
王都を離れることに、迷いはなかった。
戻る場所は、決まっている。
出発の日、空は静かに晴れていた。
見送りは、多くない。
馬車の前に、ルーファスが立っている。
いつもと変わらない顔。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
アイリスは、一瞬だけ足を止める。
視線が合う。
「……行くのか」
短く尋ねる。
「うん」
小さく頷く。
それ以上は、続かない。
「……気をつけて」
それだけだった。
アイリスは、わずかに笑う。
「ルーファスも」
アイリスは馬車に乗る。
扉が閉じられる。
ゆっくりと動き出す。
王都の景色が、遠ざかっていく。
やがて、賑わいも消える。
代わりに、静けさが戻る。
見慣れた道。
風の匂い。
変わらないものと、変わってしまったもの。
その両方が、そこにあった。
村は、以前よりも静かだった。
人はいる。
だが、少ない。
失われたものは、埋まっていない。
墓地へ向かう道を、足は迷わない。
そこに、サイラスがいた。
変わらない姿で、立っている。
視線が合う。
言葉はない。
距離が、少しずつ縮まる。
止まらない。
サイラスは手を伸ばす。
迷いなく。
アイリスの手を取る。
少しだけ、強く。
離さない。
「……戻った」
小さく言う。
「ああ」
それだけで、十分だった。
二人で、墓へ向かう。
足音が、静かに重なる。
並んだ石の一つの前で、止まる。
ミーシャの名前が、刻まれている。
あの日から、変わらないまま。
アイリスは花を取り出し、そっと置く。
風が吹く。
花びらが、わずかに揺れる。
アイリスは、小さく息を吸う。
「……ただいま」
サイラスは何も言わない。
ただ、隣にいる。
手は、離れない。
失われたものは、戻らない。
消えることもない。
それでも。
ここにあるものも、確かにある。
風は、変わらず吹いている。
二人は、並んで立っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
本作はこれで一区切りとなります。
次回作は、戦えなくなった元勇者の物語です。
金曜日の夜頃より更新予定です。
よければ、また読んでいただけると嬉しいです。




