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変わらなかったもの

 薄暗い部屋だった。

 湿った空気に、安い香の匂いが混ざっている。

 ベッドの上で、母は浅い呼吸を繰り返していた。

 痩せた腕が、かすかに動く。

 その傍に、レオンは立っている。

 まだ幼く、何もできないまま、ただ見ていることしかできなかった。


 母は、この国の人間ではなかった。

 言葉も後ろ盾もないまま流れ着き、選べたのは娼婦という生き方だけだった。

 それでも、客からは軽く扱われる。

 異国の血を引く女というだけで、安く、都合のいい存在として消費されていた。

 それでも母は働き続けた。

 レオンを育てるために。

 やがて、客から病を移され、体を壊した。

 本来なら治療の余地はあった。

 だが、金がない。

 そして何より、まともな医者は診ようとしなかった。

「そういう女だからだ」

 ただ、それだけの理由で切り捨てられた。

 放置された病は、ゆっくりと母の体を蝕んでいく。

 それでも母は、弱音を吐かなかった。


 ある夜。

 呼吸はさらに浅くなり、意識が遠のいていく。

 そのとき――

 母はレオンの手を握り、わずかに笑った。

 ――愛してるわ、レオン

 かすれた声だった。

 そして。

 ――人を恨むような、人間になってはダメよ

 それが最後の言葉だった。

 やがて、手の力が抜ける。

 動かなくなる。

 部屋は静まり返った。


 レオンは動かなかった。

 ただ、母の亡骸を見つめていた。

 どうして、母がこんな目に遭わなければならないのか。

 客が。医者が。

 母を差別したすべての人間が、憎くてたまらなかった。

 だが――

 母の最後の願いを、裏切ることもできなかった。


 恨んではいけない。

 その言葉が、何度も繰り返される。

 そう思うほど、胸の奥で何かが膨らんでいく。

 押し込める。

 押し込める。

 それでも、消えない。


 やがてレオンは、父に引き取られた。

 父は商人であり、母の客だった。

 血のつながりはある。

 だが、そこに情はなかった。

 必要だから引き取った。

 それだけの関係だった。


 父が見出したのは、レオンの頭の良さだった。

 幼い頃から、異様なほど記憶力が高く、理解も早い。

 その才能に気づいた父は、迷わずそれを利用した。

 大量の本が与えられる。

 商売、薬学、植物、流通、政治。

 あらゆる知識を読み込ませた。

 そして命じる。

「必要な情報だけを抜き出せ」

 価値のある情報だけを選び、報告する。

 それがレオンの役割だった。


 やがて、それを完全にこなすようになる。

 膨大な情報の中から、利益につながるものだけを拾い上げる。

 父はそれを徹底的に使った。

 薬の情報。希少な植物の取引。

 他国との流通経路。市場の変動。

 すべてがレオンを通して最適化され、商売は拡大していく。

 褒められることはない。

 ただ利用される日々。

 それでも、レオンは従い続けた。

 感情を表に出さないことは、簡単だった。

 押し殺すことには、慣れていた。

 価値を示し続けなければ、捨てられる。

 母のように。


 やがて父は、さらに価値を見出す。

 王立研究所に人を送り込めば、より高度な情報が手に入る。

 内部の動き。研究内容。

 流通前の技術。

 すべてが利益に変わる。


 レオンは送り込まれた。

 表向きは、優秀な研究者として。

 実際には、情報を持ち帰るための存在として。

 差別はあった。

 褐色の肌と異国の血は、確実に線を引かせる。

 それでも、気にしなかった。

 ただ淡々と、役割を果たし続けた。


 その在り方は、上にとって都合がよかった。

 従順で、優秀で、扱いやすい。

 成果を出し、余計なことは言わない。

 だから、上に置かれた。

 代表という立場に。

 だがそれは実権ではない。

 責任を負わせるための“顔”に過ぎなかった。

 いつでも切り捨てられる駒。

 それでも構わなかった。

 異国の血が流れる自分が、その位置に立てたこと自体に、価値があった。


 ある病の研究で、記録を追っていたとき。

 異国の者だけ、明らかに扱いが違うことに気づいた。

 記録は簡潔だった。

 治療なし。

 経過観察。

 死亡。

 同じ記述が、何度も繰り返されている。

 そのたびに、母の顔が浮かんだ。


 母の言葉の通りに生きてきた。

 何も言わず、従い、価値を示し続けてきた。

 それでも――

 何も変わっていない。

 そう気づいた。


 ならば。

 抑える理由はない。

 ——そのときから、すべては始まっていた。

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