選ばされた選択
研究室の扉が開いたとき、アイリスは反射的に顔を上げた。
入ってきたのはレオンだった。
その表情は、いつもと変わらず静かだった。
「……準備は整いました。場所を移します」
淡々とした声。
だが、わずかな違和感が残る。
「……場所を?」
「別の研究所です。ここでは設備が足りない」
迷いのない返答だった。
「……ここでは出来ないんですか」
警戒を押し隠しながら問い返す。
「無理ですね」
短く言い切られる。
それ以上の説明はない。
アイリスはゆっくりと首を振る。
「……行きません」
その瞬間、空気が変わる。
レオンの手が止まる。
「……では、教えておきましょう」
静かな声のまま、レオンが歩み寄る。
足音が近づき、距離が詰まる。
すぐ隣で止まり、耳元に声を落とす。
「すでに、いくつか流しています。男にも効くものを」
息が詰まる。
「貴方の協力がなければ、回復薬は完成しない」
低く、淡々と続く。
「そうなれば、被害は拡大する。確実に」
息がかかる距離で、声だけが落ちる。
「今なら、まだ制御できる」
「回復薬が完成すれば止められる」
「ですが、拒めば——それも不可能になる」
心臓が強く打つ。
逃げ場はない。
最初から、選択肢は一つしか残されていなかった。
アイリスは一瞬、言葉を失う。
「……どうして、そんなものを作ったんですか」
かすかに震える声。
それでも、目は逸らさない。
短い沈黙。
すぐ隣で、レオンが息を吐く。
「……この国の人間を、選ぶためです」
一拍置く。
「病を蔓延させた後で、生き残るべき人間を選ぶ」
あまりにも淡々とした言葉だった。
「……分かりました。行きます」
小さく告げる。
レオンは何も言わず、一歩引いた。
それでも、胸の奥の冷たさは消えない。
——伝えなければ。
「……その前に、お手洗いに行ってもいいですか」
声を整えて言う。
レオンはわずかに眉を動かし、短く考える。
「……構いません。ただし、時間はかけないでください」
アイリスは頷き、案内された個室に入る。
扉を閉める。
外に気配がある。
離れていない。
見張っている。
震える手で包帯をほどく。
まだ完全に塞がっていない傷が開き、血がにじむ。
時間がない。
気づかれずに、残さなければならない。
下着の端を掴む。
力を込めて引き裂く。
布が裂ける感触が指に残る。
その切れ端に血を押しつける。
震える手で、書く。
――男にも作用 完成 危険
文字は歪む。
それでもいい。
伝わればいい。
布を握り、便座の内側へ手を差し入れる。
見えない縁の裏に押し込む。
急いで包帯を巻き直す。
手元が狂い、わずかに強く締まる。
コン、コン。
扉が叩かれる。
びくりと肩が跳ねる。
「……まだですか」
レオンの声。
「すぐ出ます」
手を拭い、息を整える。
扉を開ける。
レオンが立っていた。
無言のまま中を一瞥する。
床。壁。穴。
視線が一瞬だけ走る。
だが、何も言わない。
「……行きましょう」
背を向ける。
アイリスも続く。
振り返らない。
研究室に戻ったとき、ルーファスは足を止めた。
静かすぎる。
いつもならあるはずの音がない。
器具の音も、人の気配も、何もない。
「……アイリス?」
呼びかけても、返事はない。
胸の奥に嫌な感覚が広がる。
アイリスの部屋へ急ぐ。
扉を開ける。
——いない。
踵を返し、廊下へ出る。
すれ違った職員を捕まえる。
「アイリスを見なかったか」
「え……さっき、レオン様と……」
一瞬、思考が止まる。
「どこへ行った」
「別の研究所に移るって……それで……」
それ以上は知らないらしい。
ルーファスは手を離す。
……レオンか。
歯を食いしばる。
舌打ちしそうになるのを抑え、足を動かす。
そのとき。
別の職員の声が耳に入る。
「そういえば、あの子、さっきトイレに……」
ルーファスは振り返る。
「どこのだ」
短く問う。
指された方向へ、迷わず進む。
扉を開ける。
中は静まり返っていた。
人の気配はない。
数歩踏み込む。
視線を巡らせる。
床。壁。扉。
何もない。
あいつが、何も残さず行くはずがない。
レオンに連れて行かれる直前に、わざわざトイレに行った。
なら、残している。
見える範囲は確認した。
それでも見つからない。
なら——
ただの死角ではない。
床の石の継ぎ目か、壁のひび割れか。
レオンが見逃す場所。
視線が、ゆっくりと下へ落ちる。
穴の中を覗き込む。
石の座の内側、縁の裏。
わずかに何かが引っかかっている。
身を屈め、手を差し入れる。
引き上げたのは、布だった。
乾ききっていない血が指に付く。
その表面に、歪んだ文字が浮かんでいた。
――男にも作用 完成 危険
息が浅くなる。
強く布を握りしめる。
思考はすでに次へ向いていた。
止める。
今すぐに。
ルーファスは踵を返す。
迷いはない。
走り出した。




