第3話 片瀬 夕
03
穏やかな夏風が頬を撫でていく。頬に張り付いた髪を払うように、夕は軽く首を振った。
「たっだいま〜」
ガラガラと、立てつけの悪い引き戸を開ける。
片手でスーツケースを持ち上げ、わずかな段差につまずかぬよう足元に気を配った。
久しぶしの実家、――鼻先をかすめる懐かしい匂いに、胸がじんと熱くなる。
夕は誰かが駆け寄ってくるよりも早く、玄関の床にばたりと倒れ込んだ。少しカビ臭いはずのその床さえ、すべてが温かく、自分を迎え入れてくれるように思えた。
「おかえり〜、夕……ってあらまぁ。そんなところで寝そべっとらんと、はよ部屋に荷物運びんさい」
「懐かしい〜、母さんの大阪弁!」
勢いよく立ち上がった夕は、エプロン姿の母に抱きついた。すりすりと頬を擦り合わせ、笑みを浮かべる。
「懐かしい〜、このちょっと古ぼけた布感!」
「アホなこと言っとらんと、ほら。動く!」
ポカリと頭を小突かれ、夕は渋々と身を離した。
母親――明子はエプロンの紐を結び直しながら、呆れ半分に言う。
「今日はさ、いろんな親戚さん来るんやから、それまでにやりたいこと済ませとき。レッスンするんやったら、スタジオの鍵、もう空いてるで」
「はーい」
奥の台所へと消えていく明子の姿を見送る。
再び訪れる静けさの中で、外からは蝉の声が微かに響いていた。夕はようやく重たい腰を上げ、スーツケースを持ち直す。
――初夏。
春公演、進級テスト、新学期と、立て続けに行事を乗り越えた国立バレエ学校の学生達は、一息つく時期を迎えていた。これから夏を迎える前に、一週間の休暇期間が設けられ、学生達はそれぞれ量を離れ実家へと帰っていく。
実家へ戻れない生徒は、特別に申請を出せば寮に残ることもできるが、その間スタジオの使用は禁止されていた。教師の目の届かない場所での怪我は、絶対に避けなければならないからだ。もっとも、実家に帰った生徒が地元のスタジオなどでレッスンをすることも、本来は禁止されているのだが、それをきちんと守る者はほとんどいない。
大阪の豊能郡。
緑豊かな環境で育った片瀬 夕もまた、実家に戻り、一週間の休暇を迎えようとしてた。
ようやく二階の自室へとスーツケースを運び終えた夕は、顎の先から滴る汗を手の甲で拭った。思わず冷房のスイッチを押すと、古い機械特有の埃っぽい匂いが鼻をつく。
「こりゃ、明日には掃除せな使えへんな……」
小さくため息をつきながら、部屋をぐるりと見渡す。
姉と二人きょうだいの夕は、ありがたいことに一人部屋を与えてもらっていた。もともと古くからある大きな家なので、今もなお空き部屋は余るほどある。寮の部屋とは比べものにならない広さで、勉強机とベッド、壁一面の本棚、クローゼット。さらに部屋の隅には、追いやられるようにして置かれたトレーニング器具が鎮座していた。
夕はリュックの中の荷物を軽く選別すると、深呼吸ひとつして部屋を後にした。
実家から少し離れた山の麓に、ポツンと一軒の建物が建っている。
傾斜のある屋根のせいで遠目には二階建てのように見えるが、中へ入れば大きな吹き抜けが広がるバレエスタジオだった。見た目こそ洒落ているが、夕が幼い頃は夏は蒸し暑く、冬は底冷えしてたまらなかった。
しかし近年、母の知り合いの建築家に改装してもらったおかげで、随分と快適な空間へと生まれ変わっていた。
明子の言うとおり、鍵は空いていた。
「……泥棒でも入ったら、どうすんねん」
つい独り言が漏れる。
東京の学校生活ではすっかり標準語に慣れていた夕だが、実家に帰り母の声を聞くと、自然と言葉は昔の調子へ戻っていた。
靴を脱ぎ、リノリウムの床をぺたぺたと歩く。
足裏に伝わるひんやりとした感触。ハイサイドライトから差し込む木漏れ日が、舞い上がる細やかな埃を浮かび上がらせる。
夕はスタジオをひと巡りした。
昔から掲示板エリアと呼んでいる壁には、いくつものチラシが貼られている。各地のオーディションや、サマー・ウィンターのワークショップ情報、そして教室の年間予定表。
端の方には、いくつかのコンクールの案内も混じっていた。
いつの間にか、そこは思い出写真を貼る場所にもなっている。
「これ……いつのやねん」
写真に指先を触れながら、夕は小さくつぶやいた。
そこに写るのは、まだ丸みを残した幼い自分と、当時の仲間達。
十人にも満たなかった頃のスタジオ。
今でこそ評判を集める教室となったが、始めた当初は辺鄙な土地柄もあって、生徒は少なかった。それでも、みんなが家族のように温かな関係で結ばれていた。
けれど、――国立バレエ学校はまた違う。
そこは夢と才能がぶつかり合う、厳しい場所でもあった。
ふと視線が別の人物で止まる。写真中央で無邪気にピースをしている自分とは対照的に、端の方で姿勢を伸ばし、柔らかく――けれどどこか人を寄せ付けない笑顔を浮かべる少年。
親戚の李恩 律鬼―――。
夕より一つ上で、夕が国立バレエ学校を目指すきっかけとなった人物だった。
「――いつやったけな、その写真撮ったん」
不意にドアが軋み、声が響いた。
夕はびくりと方を震わせ、慌てて写真から手を離す。
スタジオへ入ってきたのは律鬼だった。
相変わらず全身を黒い服で包み、袖から除く肌は対照的に白い。片手で靴を脱ぎ、静かに床へ上がってくる。
「か、帰ってたんやね」
――というか、学生全員が規制期間なんやから、当たり前やろ……。と心の中で自分にツッコミを入れる。
「うん。なんや、明子さんから聞いてへんの? 俺、昨日帰ってきたんやで」
「へ、へえ。そうなんや……」
どうにも、うまく会話が続かない。
夕は近づいてくる律鬼から少し距離を取るように、スタジオの鏡の前に腰を下ろした。リノリウムにお尻をつけると、ひんやりとした感触が伝わる。昨夜もレッスンが行われていたのだろう。夜と朝の冷え込みが厳しいこの地域では、その余韻がまだ床に残っていた。
夕はいつもやっているように自然とストレッチを始めた。
まずは股関節の柔軟。その後に前桃屋後ろ腿を伸ばす。足だけではなく上半身の筋肉も伸ばさないと違和感が残る。
一方、律鬼は持っていた黒いカバンの中からヘアバンドを取り出すと、頭に巻き、前髪はパサっとその上に被せる。
かっこいい。
そして夕と同じようにストレッチを始めた。律鬼の場合は上半身のストレッチから始める。左右に脇腹の筋肉を伸ばし、首も忘れずにストレッチする。
大きな鏡を前に、二人の間には会話が生まれず、時間は過ぎていった。
なんだか、居心地が悪い思いが心の奥に渦巻いていた夕だが、やはり体は自然と次の行動へと動く。軽く体幹トレーニングと筋トレを済ませ、立ち上がった。バー(水平に壁についている棒)に手をつき、バレエ学校で教わっているバーレッスンを始めた。無音の中でも、頭の中では音楽が流れている。ここ数年で身についた技だ。
レッスン曲が流れてはウォーミングアップを始め、水を飲む時は止まる。そしてまた始まる。
少し体が温まってきた頃、ふと律鬼の様子を伺うと、床で開脚したまま携帯をいじっていた。
何をしているのか――。
問えばいいものの、夕は言葉が出てこなかった。自分のことに集中しよう。休暇が終わったらまた怒涛の日々が待ってるんだ。
グランバットマン(足を高く振り上げる動作)まで終え、リンバリングを始めようとした時、ようやく律鬼は動き出した。
音響器具が揃っている机へ向かうと、何やら携帯で操作を始め、音を流し始める。
聞いたことがあるような、ないような音だった。古典バレエの曲ではない。
これは、あの冬に観た作品のような、どこか怖い音だった。
その音と一体化するように律鬼は自分の体を動かす。硬くない動き。まるでその動き自体がウォーミングアップのように。
しかし、時折鏡を横目で見て自分の体のラインを確認する。
それからまた、緩やかな動きが始まり、不意に止まる。止まったかと思うと手に握っていた携帯で音を止め、また初めから流し始める。
夕は、はっと気が付く。
これは振り付けをしているのだと。同時に胸の奥でよくわからない痛みが走った。
いつからか―――。
夕は律鬼と自分との間に距離を感じ始めた。
これが天才と凡人の差なのだと、自分の中で線引きをし始めた。
小さい頃は、ただ一緒に踊れることが嬉しかった。律鬼が隣にいれば、それだけで自分も特別な存在になれる気がしていた。鏡張りのスタジオで、汗を流しながら笑い合い、どちらが先に回転を成功させるか競い合った。
あの頃の律鬼は、まだ「天才」なんて言葉とは無縁で、ただ身近な従兄の一人に過ぎなかった。
けれど、気がつけば差は開いていた。
律鬼はいつの間にか自分だけの世界を持ち始め、その体は音楽に触れた瞬間、別次元の存在へと変わっていった。舞台で観る彼は、親戚の「律鬼」ではなく、圧倒的な光を放つダンサーだった。
夕はバーに手を添えたまま、律鬼の動きを追う。
音と体が重なり合い、止まる瞬間すら意味をもって見える。呼吸の間合いまでが計算されたようでありながら、自然そのもののようでもあった。
胸の奥に、言葉にならない痛みがじわりと広がる。
――自分は、どこまで行けるんやろか。
凡人として線引きをしたはずなのに、その問いはどうしても消えてくれなかった。
外では、蝉の声がいっそう強く鳴き始めていた。夏の空気に包まれながら、夕は再び踵を伸ばし、鏡の中の自分と向き合った。
***
こんなに大勢で夕食を囲むのは、一体いつぶりだろう――。
広いダイニングに長い机を囲み、皆があぐらをかきながらそれぞれの近況を語り合う。酒が回れば、大人達の声はますます大きくなり、笑いも増していく。
その騒がしさをどこか懐かしく思う一方で、夕は心の奥に、自分だけが少し置き去りにされているような感覚を覚えていた。
日が落ち、やがて我が家に静寂が戻る。庭に面した縁側からは、暗闇を埋め尽くすように星々が瞬いていた。
「なんや、あんたまだ風呂入っとらんのか。はよ入り」
「あ、ああ。今、律鬼兄が入っとるんよ。上がったら入る」
「そう」
風呂から上がった姉――夏夜が片手にアイスを持ち、夕の隣へ腰を下ろした。
いつの間にか短くなった髪の毛先から水滴がポタポタと落ち、肩にかけたタオルを濡らしていく。その様子を横目で見ながら、夕はぽつりとつぶやいた。
「髪、切ったんやね」
夕の記憶の中の夏夜は、腰まで届くほどの黒髪だった。けれど今は茶色に染め、肩にも届かないショートヘアへと変わっていた。
「そっかぁ。あんた、あたしが髪切ってから会うのは初めてか」
夏夜はアイスをひとかじりし、少し間を置いてから口を開く。
「……あたしもなぁ、そろそろ切り替えよっかなーって思って」
不意に洩れた姉の言葉に、夕は目を星空へ向けたまま耳を傾ける。
「大学生になって、将来のことも考えなあかんやろ? いつまでも“部活一本”! なんて通用せんしな。せやから今年からは勉強に専念する決めたんよ。……まあ、推薦とれへんかった時点で気づくべきやったんやろけど」
「……ツッコミづらい自虐ネタ、やめてくれん?」
夕はじとりと姉を見やる。
スポーツ推薦に落ちた話は、母から耳にしていた。
夏夜は笑い飛ばすように、夕の背中をビシビシ叩いた。思わず夕はむせこむ。
「なあに、気にせんでええって。これでもあたし、勉強頑張っとんねん。それにさ、あたしが“建築”受けるなんて……誰が想像したんよ。そんな未来」
冗談めかし、陽気に見せてはいる。
けれど、長年追いかけ続けた夢を人がそう簡単に手放せるはずがないことを、夕は知っていた。
実際、去年の進級テストで落ちた仲間が一日中泣き崩れていた姿を、彼は目の当たりにしている。
夜空には変わらず星が瞬いている。
毎日毎日、同じように、一日の終わりを告げるように。
「……俺、バレエやっててええんかな………」
弟からこぼれた言葉に、夏夜は小さく首を傾げた。
「バレエ学校にはさ、すんごいやつが山ほどおるんよ。俺みたいな凡人じゃ、到底追いつけん奴らが。何をやらせても誰よりも早くできて、一を言われたら、十どころか百までできてまう」
夕の脳裏に、律鬼の姿が浮かぶ。同じ血筋に生まれながら、体型も才能も自分とはまるで違う。自分が苦労して時間をかけている間に、彼はあっという間に先へ行ってしまう。
「……俺はさ、別に恵まれた体型じゃないし、体の柔らかさも人並みや。けど――ただ、あのバレエの世界と音楽が好きで、ここまで続けてきたんよ。子供の頃は運動神経でどうにかごまかせとったけど、この年齢になると粗が目立つし、体の条件の差もはっきり出てくる。この先、将来が約束されとるわけでもない世界で……俺、ほんまにここに居てええんかなって思うんよな」
「なんや。そない難しいこと、考えんでええんちゃう?」
「……え?」
夏夜は棒に残ったアイスをかじり、一息に飲み込んだ。
「あんた、バレエ好き?」
「そりゃ……好きやけど」
「なら、ええやん。好きなことは好きなだけやったらええ」
好きなこと―――。
「あたしはこの家系やのに、バレエのことはようわからんけどさ。夕が通っとる国立バレエ学校? あそこって、すごいとこなんやろ。入学できた時点で選ばれた人間やん。まだまだこれからちゃう? 夢を諦めたあたしからしたら、走り続けてくれてるだけで誇らしいと思うけどな」
少し間を置き、夏夜は付け加えるように言った。
「まあ……もしあんたが自分のアイデンティティー見失っとるんやったら、先生に相談してみるのもええんちゃう?」
「夕。風呂、どうぞ」
いつの間にか風呂から上がった律鬼が、障子に寄りかかるようにして立っていた。湯気の名残を纏った彼に声をかけられ、夕は弾かれたように立ち上がる。
「あ、ありがとう!」
――今の話、聞かれとった? うわ、恥ずっ………。
合わせる顔がなく、逃げるようにその場を去ろうとした夕の背に、不意に律鬼の声が重なった。
「今度、新作作るねん」
その一言に、夕の足が止まる。
新作………。
その響きに誘われるように、脳裏にあの日、あの瞬間の光景があざやあkに蘇った。WPPの舞台。鳴り止まぬ拍手の中、眩いライトを一身に浴びて、深々とお辞儀をする律鬼とダンサーたち。あの時の彼の笑顔は、直視できないほど誇らしく、美しかった。
「そ、そうなんや」
自分とは住む世界が違う。
だから、なんやとゆうねん――。
胸のざわつきを抑え込み、努めてぶっきらぼうに返した夕に、律鬼が静かに、けれど決定的な言葉をなげかけた。
「――夕、踊ってくれへん?」
「…………へっ?」
***【Yu Katase ~fin~】
ご感想等お待ちしております☺︎




