存在しない記憶
翌朝、ホワイトヴェルは薄い霧に包まれていた。
朝露が石畳を濡らし、解放された街はまだ眠りの名残を抱いている。
健司たちは静かに準備を整え、スパークランドへ向けて出発することになった。
「それじゃあ、行こうか」
健司の声は、いつもと変わらないはずだった。
だが――
彼自身が、その違和感に最初に気づいた。
ふと、視線が向いてしまう。
スパークランドから逃げてきた、あの女性。
街娘のような服装。
柔らかい雰囲気。
どこにでもいそうな存在。
なのに。
(……胸が、苦しい)
理由が分からない。
鼓動が、わずかに早くなる。
視線を外そうとしても、なぜか引き戻される。
(恋……?)
そんなはずはない。
会ったのは、ほんの数日前。
名前すら、聞いていない。
それでも。
(懐かしい……?)
健司は思わず、足を止めた。
女性はすぐに気づき、振り返る。
「どうかしましたか?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。
健司は、正直に口にしてしまった。
「昔……どこかで、会ったことがありますか?」
自分でも驚くほど、切実な声だった。
「何か……恋しいんです」
言葉にした瞬間、健司は後悔した。
(何を言ってるんだ、僕……)
女性は一瞬だけ、息を呑んだ。
(……来た)
胸の奥で、歓喜が爆ぜそうになる。
(でも、まだ)
必死に、感情を押さえ込む。
(まだ、抑えなきゃ)
彼女の脳裏に、ルメの姿がよぎる。
(あの人がいる前で、見せなきゃ意味がない。ルメ……あなたが出る幕じゃない)
女性は、穏やかに微笑んだ。
「それは……一目惚れですね」
声は、完璧だった。
「でも、会ったことはないですよ」
はっきりと、嘘をつく。
健司は、少しだけ安堵したように笑った。
「そう……ですよね」
だが、その胸の痛みは消えなかった。
その様子を、リセルとクロエは見逃していなかった。
二人は視線を交わし、健司に近づく。
「健司、どうしたの?」
クロエが、いつもより優しい声で聞く。
「あなたらしくない」
リセルも、真剣な表情で頷いた。
健司は苦笑する。
「ごめん、ちょっと考え事をしてて」
だが、その答えに納得した様子はない。
少し離れたところで、ペレアは唇を噛んでいた。
(……遅かったか)
確信に近い不安。
ラグナが、隣に立つ。
「どうした? さっきから様子がおかしいぞ」
ペレアは、低く言った。
「ラグナ……」
一拍、置く。
「健司は、もう手遅れだ」
「……は?」
ラグナの目が細くなる。
「昨日から、何を隠している?」
ペレアは歩きながら、答えた。
「ひとつだけ、言えることがある」
風が吹き、木々がざわめく。
「意識の書き換えだ」
ラグナは、息を呑んだ。
「……存在しない記憶が、存在するようになる」
「魔法……?」
声が低くなる。
「一体、誰のだ?」
ペレアは、視線を前に向けたまま言った。
「それよりも――」
歩みを止めない。
「スパークランドに行こう」
それ以上、語る気はないようだった。
夕暮れが近づく頃、景色が変わり始めた。
空が暗く、重く垂れ込める。
遠くで、雷鳴が響いた。
ゴロゴロと、地鳴りのように。
エルネアが、前に出る。
「……ここが、スパークランドだ」
その声は、硬かった。
「見ての通り、雷が降っている」
空から、紫電が走る。
一定の間隔で、まるで意思を持つかのように。
リーネが、思わず呟いた。
「……どうする?」
沈黙。
健司が、ペレアを見る。
「ペレアさん、行けますか?」
ペレアは、雷鳴を見上げた。
「……ああ」
短く、しかし強い声。
「行こう」
その瞬間、女性は心の中で笑った。
(やっぱり)
(あなたは、ここに来る。そして、この町を救う)
視線を、スパークランドに向ける。
(だって――ここには、四女しかいない。長女も、次女もいない。なんて、ラッキー)
エルネアに、健司が聞く。
「エルネアさん」
雷が落ちる。
「この雷を操っている魔女は、どこにいるんですか?」
エルネアは、門の方角を指差した。
「おそらく……あの門の付近だ」
巨大な門。
雷に照らされ、影が揺れる。
健司は、無意識に拳を握った。
胸の奥の痛みが、さらに強くなる。
(……何だ、この感じ)
知らないはずの場所。
知らないはずの戦い。
それなのに。
(帰ってきた、みたいだ)
愛の魔女は、まだ名乗らない。
だが、確実に――
健司の心は、もう彼女の指先に触れていた。
雷鳴が、スパークランドを包み込む。
決着の時は、近い。




