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【コミカライズ】歌姫の罪と罰  作者: 琉莉派
第三章 指につばを吐いて描く
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第六話 滝沢の思い

 稽古終了後、私はひとつの決意を胸に、滝沢の部屋を訪ねた。彼の個室は二階のトレーニングルームの隣にある。


 扉をノックしようとした時、中から一人の女性が飛び出してきた。


 西條敦子だった。


 真っ赤に泣きはらした瞳で、マスカラが落ちて目元が黒く滲んでいる。一瞬彼女とは分からないほど、悲嘆にくれた弱々しい姿だった。


「敦子さん」


 と声をかけたが、彼女は私を見るなり慌てて顔を伏せ、逃げるように階段を駆け下りていった。 

 滝沢との間でなにか深刻な話でもあったのだろうか。常に強気で居丈高な彼女が、あのように泣き崩れるのは尋常ではない。


 今彼の部屋に入るのはまずいのではないか。

 一瞬、そう思って躊躇したが、こちらの用件もまた緊急を要するのだ。


 気を取り直して扉を叩き、中へ入った。


「どうした?」


 滝沢は、黒い本革製の椅子に座って台本に目を通していたが、顔を上げて私を見た。十二畳ほどの室内は高価そうな調度品が配され、壁際の書棚には分厚い演劇書がぎっしり埋まっている。いかにも滝沢の部屋らしい重厚な造りだ。


「お話があるんです」


 勧められるまま近くの椅子に座り、用件を切り出した。


「実は、滝沢先生の、私に対する評価をお伺いしたいと思いまして」

「評価?」


 怪訝そうにこちらを見る。


「はい。先生は先程、ミミ役は私しかいない、と仰いました」

「ああ、言った」

「それは、片桐あずささんが亡くなったから仕方なくということなのでしょうか。それとも、私の演技や歌を本当に高く評価してのお言葉なのでしょうか」

「なぜそんなことを訊く?」


 眉間に縦皺が寄っている。


「知りたいんです」

「知ってどうする」

「私にはとても大事なことなんです」


 膝の上の両拳をきつく握り締めて言った。実際、今後の身の振り方は、彼の返事次第だと考えていた。


「ふむ」


 滝沢は目を細めて私を値踏みするように見ると、腕組みし、質問には直接答えずにこう言った。


「一ヶ月半前、君を最終選考の二人に残した時、他の幹部社員や俳優たちから猛反対にあったんだ。あんな事件を起こした人間をキャスティングしたら、劇団の品位がけがれるといってね――。それでも俺は独断で押し切った。どうしてだか分かるかい?」


 私はかぶりを振った。


「十年前、君の舞台を見てるんだよ。トゥーランドットのリューだった。十年に一人のリリコと騒がれていた頃で、どんなものかこの目で見てやろうと思ってね」


 意外な事実に驚いた。私にとって実質上のデビュー作だ。それを滝沢が見ていたとは。


「いかがでした?」


 恐る恐る訊いた。


「表現は荒削りだったが、歌が抜群に良かった。これでオペラを見る楽しみが増えたと思ったよ」


 滝沢は頬をゆるめて優しく微笑んだ。だがすぐに眉根を寄せ、


「ところがあんな事件が起きて、せっかくの楽しみが消えてしまった。傷害事件を起こしたことは責められて仕方ないが、あれだけの逸材をこのまま野に埋もれさせるのは惜しいとずっと思っていたんだ。ラ・ボエームのオーディション応募者の中に君の名前を見つけた時、その気持ちが蘇ってきた。ミュージカルに順応できるかどうか不安はあったが、思い切って最終の二人に残した。何より、俺自身がもう一度舞台で歌う君の姿を見てみたいと強く思ったからだ」


「……」


 私は何も言えなかった。


「正直に言えば、まだ君の演技には完全に満足はしていない。ミュージカルの方法論に順応しきれていないんだ。だが百合亜ならやれるはずだ。まだ二週間ある。ここからが本当の勝負だ。俺はもう一度、舞台で光り輝く君を見てみたい」


 身体の芯が、じんと熱くなるのを感じた。


 知らなかった。そんな温かくもやさしい眼差しで私を見守ってくれていたなんて、思ってもみなかった――。


 身体の芯の熱いものが、喉元までせり上げてくる。

 唇を結んで必死にこらえた。それでもじんわり、視界がたわむ。

 私は彼について、とんだ思い違いをしていたようだ。完全に誤解していた。


「ありがとうございます」

「礼を言うのはまだ早い」厳しい声で言った。

「いえ。そのお言葉だけで、私はこの役に全身全霊を注ぐことができます。たとえ地獄の底を這うような苦しみがあろうとも、耐えることができます」


 脳裏には貝原の顔が浮かんでいた。

 滝沢は小さく頷いた。


「今まで君を(さげす)み、馬鹿にしてきた連中を見返してやるんだ。ラ・ボエームは間違いなく、演劇史にその名を刻すマスターピースとなる。その中心に徳大寺百合亜という稀代(きだい)の歌い手がいたことは、必ずや後世に語り継がれていくだろう」


 私の頬を、こらえきれないものが流れた。


 今まで誰に言われたどんな言葉よりも胸にずっしりと重く響いた。医者が処方してくれたどんな薬よりも私を正気に戻してくれた。


 真に私のことを理解してくれる人がここにいる。その喜びに救われた気持ちだった。ありがたかった。

 この人のために死力を尽くそう。この人のために最高のミミを作り上げよう。


 そのためならば、貝原との地獄の交渉にも耐えられる。

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