第五話 ラ・ボエームの行方
翌朝、劇団から電話があり、ラ・ボエーム組は自宅待機を命じられた。昼過ぎにもう一度連絡するからそれまで待てという。
座組みが解散されるのかもしれないと思った。少なくとも心の準備はしておかなければなるまい。
はたして二時ごろ電話があり、夕方六時過ぎから稽古を開始すると告げられた。
「ではラ・ボエームは予定通り開幕するのですね?」
しかし制作部の担当者は言葉に詰まった様子で、私では分かりかねます、とにかく六時にいらしてください、と急いで電話を切った。現場は相当混乱しているようだ。
六時少し前に稽古場に入ると、ほとんどの俳優がすでに集合していた。部屋の片隅にはスタッフの一団も集められている。
皆、沈鬱な表情で押し黙り、私語を交わすものは一人もいない。まるでお通夜のように重苦しい雰囲気で、だれもが最悪の事態を予感し、祈るような気持ちでいるのが分かる。
この一ヶ月半というもの、ここにいる全員がこの作品を作り上げるために心血を注いできた。俳優にとって、懸命に稽古してきた作品が、日の目を見ずにお蔵入りすることほど、つらく悲しいことはない。
出入口の鉄扉が開き、桜井が唇をきつく結んだ顔で入ってきた。
その後ろから滝沢が姿を現す。
おーっ、と俳優たちから、低いどよめきの声が上がった。
滝沢の顔は憔悴して頬が削げ落ち、無精髭も伸びて、一気に十歳ほど老け込んだ印象だ。彼を彼たらしめていた、オーラもカリスマ性も、ほとんど感じとることができない。
「すまない、こんな時間に」
開口一番、謝罪の言葉を口にした。
「午前と午後は取り調べがあってね。この時間でないと身体が空かないんだ」
「先生は逮捕されたわけじゃない。あくまで任意の取調べだ」
桜井が皆の不安を払拭するように言った。
いつもなら滝沢が入室した途端にぴんと張りつめ、静寂に包まれるはずの稽古場が、彼が話し始めても各所で私語が飛び交っている。ほとんどは外部オーディション組によるものだ。滝沢のまるで生気の抜け落ちた姿に、もはや演出家としての佇まいはどこにもない。この場の誰もが鋭敏にそれを感じ取っていた。
「静かにしてください」
桜井が再び両手を前に出した。「先生からお話があります」
私語が止んだのを見て、滝沢はおもむろに語り始めた。
「今日、みんなに集まってもらったのは、現在の状況をきちんと説明するためだ。さまざまな憶測や流言飛語が飛び交い、みんなも集中して稽古に専念することができない状況だと思う。桜井からもそのことは聞いている。本当に申し訳ない。実はさっきまで、今後の方針を巡って幹部会が開かれていた。結論に達したので、それをみんなに伝えたいと思う。だが、その前にまず、俺が現在置かれている状況を包み隠さず話しておきたい」
滝沢は大きくひとつ息を吸い込むと、全員を見渡して言葉を継いだ。
「知っての通り、俺は今、あずさ殺害の容疑をかけられている」
その声はあくまで穏やかだった。
「今さら隠しても仕方がないから正直に言うが、俺とあずさは半年ほど前から恋愛関係にあった。だがここへ来てうまくいかなくなり、関係を解消したんだ。それが公開オーディション前日のことだ。今後は演出家と女優として向き合っていこうと――。別れは俺から切り出した。あずさにとって、それはとても辛いことだったんだ。彼女は激しく俺を責め、口論になった」
いつもの静寂が稽古場に戻った。滝沢の真摯で率直な告白にみな耳を澄ましている。
「そのことをもって警察は俺が犯人だと疑っている。殺害当夜、遅くまで劇場に残っていたことや、あずさの楽屋から俺の指紋が多数発見されたことも容疑を裏づける有力な状況証拠だという」
滝沢は一拍置いて、訴えるように続けた。
「だが、俺はあずさを殺していない。絶対にやっていない。神に誓って潔白だ。信じてほしい」
俳優たちは黙って滝沢を見つめている。前列の若手女優の何人かが、頷くように小さく首を縦に振った。
「だが現状は極めて厳しい。逮捕される事態も想定しなければならないだろう。劇団幹部の中には公演を延期すべきだという者もいる。万一逮捕に至れば中止もやむなしと――。スポンサーの中にも二の足を踏むところがいくつか出始めた。血塗られたミュージカルに出資するのはリスクが高すぎるというわけだ。実際、俺もこの数日、迷いに迷った。道義的にも上演を強行するのは難しいのではないかと――。正直、昨日まではその気持ちに傾きかけていた。公演を中止する以外に劇団が生き残る道はない。明日、みんなの前で発表しよう……」
「……」
「しかし、昨夜事情聴取を終えてから、最後にもう一度台本を読み直してみたんだ。俺が不在の間の通し稽古の音声も桜井から聞かせてもらった。それを聞きながら、俺の心の中で、一人の演劇人としての情熱と矜持が溢れるように蘇ってくるのが分かった。――。これだけの作品を、ここまでの傑作を、俺のちっぽけなスキャンダルごときでお蔵入りにしてしまって本当にいいのだろうか。ラ・ボエームは、万難を排してでも、今、この世の中に送り出されなければならない作品ではないだろうか――」
ここで初めて、滝沢の目が輝きを取り戻した。力を帯びた、いつもの射るような視線が戻ってきた。
「俺は決めた。どんなに世間の非難を浴びようとも、ラ・ボエームは開幕する。みんなのこれまでの努力は決して無駄にしない。たとえ俺が逮捕され、スポンサー総てが降板する事態になろうとも、劇団明星の責任において必ず幕を上げる。だから安心して稽古に集中してほしい」
滝沢の目の縁は赤く染まり、口元は微かに震えていた。
俳優たちは、その鬼気迫る表情に、呑まれたように息を詰め、やがて口から小さなため息のような声を漏らした。
それはすぐにどよめきに変わり、やがて拍手となって稽古場内に鳴り響く。
俳優たちがひとり、ふたりと立ち上がっていく。
やがて全員が立ち上がり、滝沢の決断に敬意を表すように、力の限り両手を打ち鳴らした。
誰もが分かっているのだ。
毎年、何百何千という演劇作品が日本各地で産声をあげる。
プロの舞台からアマチュアのものまで様々だ。
そのほとんどはその場限りで消費され、泡沫のように消え去って、跡には何も残らない。
それがこの仕事の宿命だ。
けれど、ごくまれに、俳優とスタッフの共同作業が奇蹟的な化学反応を引き起こし、これまで誰も見たことがないレベルの作品が産み落とされることがある。
それは他の凡百の演目とはまるで異なる姿形をしている。
プッチーニやシェークスピアの作品がそうであるように、それは時を越え、はるか後世にまで語り継がれていく。
私たちの短い人生がついえた後も、作品は生き残り続けるのだ。
そんな特別な演目のファーストキャストに名を連ねることは、俳優にとってこの上ない栄誉であり、一生に一度巡り合えるか否かの仕合わせである。
「ラ・ボエーム」が、そんな作品のひとつに成りえる可能性を、ここにいる全員が稽古を通して実感している――。
滝沢は拍手が鳴りやむのを待って、私の方を見た。
「百合亜」
と真剣な顔で語りかける。下の名前で呼ばれるのは初めてだった。
「ミミ役はもう君しかいない。君の歌と演技にラ・ボエームの成否はかかっている。最高のミミを見せてくれ。頼んだぞ」
胸に熱いものが込み上げた。
「はい」
滝沢の心意気が、私の情熱に再び火をともした。
私はもはや外部オーディション組のお客様ではない。座組みの一員であり、主役として皆の手本となり、先頭に立ってチームを率いる存在なのだ。滝沢が捨て身の覚悟でこの作品に挑むというなら、私も全身全霊を賭けてミミを演じ切ってみせよう。全身を流れる血潮が沸騰するような高揚感が襲ってきた。
「お任せください。ブロードウェイを凌駕する、最高のミミをお見せします」
「頼んだぞ」
私はにっこりほほ笑んだ。
が、次の瞬間――、
稽古場の片隅から発せられる不穏な視線に気が付いて、思わずそちらに目をやった。
窓際にスタッフの一団が陣取っており、前列の中央に貝原が胡坐をかいて座っている。腕組みをして片頬を吊り上げ、不気味な嘲笑を浮かべていた。
――さあ、どうする?
その目が問いかけてきた。
――ミミをやりたければ俺の言うことをきくしかないぞ。
私は胴震いを覚えて、思わず視線を逸らした。
忘れていた。
ミミを演じるためには、彼との案件を解決しなければならないのだ。
通し稽古が始まった。
滝沢のスピーチを機に心を一つにした俳優たちは、昨日とは打って変わって熱のこもった迫真の演技を繰り広げる。
反対に、私一人が集中力を欠いていた。
懸命に演じようとするのだが、部屋の片隅から発せられる不穏な視線が気になって役に没頭することができない。
心に迷いが生じ、歌も演技も散々の出来栄えとなってしまった。




