第八話 貝原からの電話
しかし、それにしても分からない。
なぜ象の置物が楽屋内から忽然と消え去ったのか。なぜ私の指紋が室内から一切検出されないのか。
横浜西署を出て駅へ歩きながら、考え続けた。
脇坂は明日も午前十時から任意で事情聴取をさせてほしいと言った。劇団とは話がついているらしい。私を有力な容疑者として考えていることは間違いあるまい。
「いいですか。あなたは病気なんですよ」
精神科の主治医の言葉がふいに脳裏に蘇った。
言葉こそ辛辣だが、患者の心にしっかり寄り添ってくれる、私にとってなくてはならない存在だ。
「ミュージカルの世界はよく知らないが、過度にストレスのかかる状況は極力避けたほうがいい。せっかく快方に向かっているのに、今までの努力が水泡に帰してしまいかねない」
彼は父と同じく、当初から今回のミミ役への挑戦に強く反対していた。
六年前、私は自分が米田礼二を襲ったことをほとんど覚えていなかった。ミミ役を降ろされてから帰宅するまでの記憶が不鮮明で、まだら模様のように部分部分しか認知できない。
検察やマスコミは、私が嘘をついている、演技をしている、と激しく責め立てたが、覚えていないものはどうしようもない。検察・弁護双方の精神鑑定書が提出され、裁判長は私の主張に真実があると認定してくれた。
ひょっとすると、今回もあの時と同じように、私が事件当夜の正確な記憶を失っているだけかもしれない。あるいは事実を捻じ曲げて覚えているのだ。その可能性は充分にある。片桐あずさを殴りつけて彼女が倒れ込んだ後、私自身がドアノブの指紋を拭き消し、象の置物を持ち去ったのだ。ナイフでとどめを刺したのもおそらく自分だろう。私自身の知らないところで、もう一人の私が勝手に犯行に及んでいたとしたら――。
そこまで考えて、恐怖にゾクッと総身を震わせた。これ以上考えると深い闇に落ちていきそうだった。
私はバッグの中から主治医に処方された安定剤を取り出し、慌てて口の中に放り込んだ。
「百合亜さん」
代々木の自宅アパートに戻り、化粧を落とそうと洗面台の前に立ったところで、貝原から電話がかかってきた。一瞬迷ったが、出た。
「大丈夫でしたか? 警察のほう」
「ええ。色々聞かれたけど、問題ないわ」
「それはよかった。ずっと心配していたんですよ」
気遣うような優しい声で彼は言った。
「今から会えませんか? 大事な話があるんです」
「でも、もう家に帰っているし」
「私がそちらまで行きます」
こんな時に、なんと無神経な男だろう。
「長時間の事情聴取で疲れているの。明日も朝から取り調べがあるのよ」
思わずつっけんどんに返した。
「だからです」
と貝原は力を込めた。
「だからこそ話し合っておく必要があるんです」
「どういうこと?」
まるで意味が分からない。
「象の置物です。あずさの楽屋にあった金属製の。あれについて打ち合わせる必要があるでしょう?」
「……え」
私は驚きのあまり、その場に凍りついた。
「何を言っているの」
声が震えているのが分かる。
「実は今、百合亜さんの自宅近くまで来ています。二十分後に駅前のユリイカという喫茶店で落ち合いましょう。くれぐれも尾行には気をつけて」
「ちょっと待って。ねえ……」
と呼び掛けるが、電話はすでに切れていた。




