第二十一話 宿敵
「あのぉ……」
ふいに声をかけられて顔を上げると、目の前に片桐あずさが立っていた。あっ、と思わず顎を引く。
いつの間に入ってきたのだろう。
彼女は神妙な、と言おうか、悩ましげな表情で私の顔を覗き込んでいる。
「なに?」
腹が立って、思わずぶっきらぼうに言い放った。
「誤解なさっているようなので、ひとこと申し上げておいたほうがいいと思いまして」
「だから何よ」
彼女は控えめな態度で言葉を押し出した。
「滝沢先生は、徳大寺さんをおとしめるためにあんな言い方をしたんじゃありません。逆です。滝沢先生がきつく言うのは、期待の裏返しなんです。それだけ徳大寺さんに期待しているということです。ですから……」
「ずいぶん余裕がおありね」
あずさの発言をさえぎり、皮肉たっぷりに言った。
「競争相手に同情の言葉をかけるなんて」
「同情だなんて……」
「そうでしょう」
「私はただ……」
「どうせ自分が選ばれると思ってるから言える言葉よね」
「そんなこと思ってません」
「そうかしら?」
私は片眉を上げてあずさを睨んだ。
その瞬間、彼女の顔がくしゃと縮み、悲しげに言葉を発する。
「徳大寺さんまでそんなことを仰るんですね」
「あら、他の方からも言われてるの?」
冷笑を浮かべて続ける。
「火のないところに煙は立たないってよくいうけれど」
あずさの顔がさっと紅潮するのが分かった。
「徳大寺さんとは仲良くやっていこうと思っていたけど、これじゃ無理ですね」
「仲良くですって?」
思わず立ち上がった。
「馬鹿なこと言わないで。私たちはライバルなのよ。食うか食われるかの競争をしているの。仲良くなんかできるわけないでしょう」
「……」
「ま、演出家から気に入られて、役が自分に転がり込むと確信している人は別でしょうけど」
「滝沢先生は私情でキャスティングをするような方ではありません」
「へえ。ずいぶん滝沢さんのことに詳しいのね」
あずさは口元を歪めると、ぷいと顔をそむけて立ち去っていく。
「待ちなさい!」
怒りに駆られて怒鳴りつけた。あずさはびくりと立ち止まる。
「私は負けないわよ」
気づくと野太い声を発していた。不正によって勝利を手にしようとする人間に、一太刀でも浴びせかけたいという気持ちだった。先程までの虚脱感は吹き飛び、目の前の敵に対する闘志だけがめらめらと燃え上がる。
「たとえ滝沢さんがえこひいきであなたを抜擢しようとも、私は負けない。マスコミ注視の公開プレビューの場で、あなたたちに大恥をかかせてやる。圧倒的な実力差を見せつけて、薄汚い不正が行われていることを白日のもとに晒してやるわ」
「いいでしょう」
あずさは開き直ったように肩をそびやかせた。
「正々堂々と勝負しましょう。私だって、情実で役をゲットしたなんて思われたくないわ」
「よく言うわ」
「当日、あなたに実力で敗れたと思ったら、潔く自分から身を引きます」
「言うだけはタダよね」
「本気です。マスコミや評論家の方々が徳大寺さんの方が素晴らしいと判断したなら、滝沢先生の裁定を待たずに私はミミ役を辞退します。先生に不正の汚名を着せることはできません」
「よっぽど愛しているのね」
「何とでも言ってください」
「面白い。勝負しましょう」
「でも言っておきますけど」
あずさは眼の奥をぎらりと光らせた。
「何よ」
「歌がうまいだけでは、観客を感動させることはできませんよ」
「なんですって」
「ミュージカルを舐めないでください。さっき滝沢先生が仰ったことは全て真実ですよ。あなたの歌ではミュージカルの観客を満足させることはできないわ」
「もういっぺん言ってみなさい」
私は思わず掴みかかった。あなたみたいなド素人のヘタクソに、侮辱されるいわれはないわ。
あずさの襟首を掴みとり、そのまま後ろの壁に叩きつける。
だが彼女の背中が壁につく寸前に、反対に右腕をひねり上げられ、床に一回転して寝転がされていた。
何が起こったのか、瞬時には理解できなかった。
「合気道の心得があるんです。腕力で私に勝つのは無理ですよ」
あずさが仁王立ちして、こちらを見下ろしている。
「お互い女優なんですから、舞台の上で正々堂々と戦いましょう。私は一歩も引くつもりはありませんから」
そう言い放つとくるりと身を翻し、稽古場を後にしていく。
私は屈辱感に身もだえながら、痛む右腕を押さえて立ち上がった。
許せない。
あの女だけは絶対に許せない。
公開プレビューの場で完膚なきまでに叩きのめしてやる。圧倒的な技術力の差を見せつけて――。
思えば、私が片桐あずさに殺意を抱いたのは、この時が最初だったのかもしれない。
いや、そうではない。
この時は、確かに憎悪と憤怒に心は煮えたぎっていたけれど、明確な殺意までは抱いていなかった。
やはりあの時だ。
マスコミ公開プレビューが行われたあの日、私は再び心の均衡を失い、後戻りのできない地点に舞い戻ってしまったのだ。




