第二十話 琴美の励まし
私は身体の震えを感じながら、無言で立ち尽くした。
「今のはちょっとまずかったな。やりすぎたよ」
蒼ざめた顔の鮫島が近づいてきて心配そうに言った。
「……ええ」
自分でも分かっている。分かっていながら止められない。この性格は自分でもどうすることもできないのだ。
鮫島が去ると、今度は西條敦子が近づいてきた。
「私はあなたの言ったこと、間違ってないと思うわよ」
私は敦子を見た。
「あずさの歌はまだまだ未熟よ。技術的にはあなたの足元にも及ばない。ところが滝沢にはそれが見抜けない。音程を外したことだって、おそらく彼は気づいていないわ」
ああ、分かってくれる人もいるんだ。救われたような気持ちで小さく頷いた。
「先代の座長は音楽にも精通して偉大だったけど、彼は親の七光りで劇団を引き継いだだけだからね。本当の才能はないのよ。特に歌に関しては素人同然。私はあずさよりあなたの方が遥かに可能性があると思った」
「ありがとうございます」
傷ついていただけに、温かい激励が心に沁みた。
「私はあなたの味方。あずさなんかに負けないでよ」
敦子は私の肩をぽんとひとつ叩いて去っていった。
「ごめんね」
俳優たちがいなくなった稽古場で、ひとり心配して寄り添ってくれる琴美に謝った。「やり過ぎちゃった」
琴美は黙ってかぶりを振る。
「これが自分の欠点だって分かってるんだけど、我慢できなかったの」
「勝負はこれからですよ」
琴美は励ますようにいった。
「いいえ。私の負けよ。演出家に向かってあんな口を利いた以上、自分が選ばれるなんて思っていない」
「滝沢先生はそんな度量の狭い方じゃありません。あくまで実力で判断されるはずです。公開プレビューでの出来が全てです」
「そうは思えないわ」
私の心は折れかけていた。
「最後は情実が勝つのよ」
「諦めたら駄目ですよ。滝沢先生から指摘された点を、一から洗い直していきましょう」
琴美は最後まで全力で挑み続けるべきだと力説した。今日はこのまま帰りたいと言う私に、駄目です、演技レッスンをやりましょう、と言ってきかない。
この子はなぜ、これほど私のために親身になってくれるのだろう。私は琴美の顔を見つめながら、ふと思った。
たんに片桐あずさ憎しの感情からだけとは思えない。最初はそうだったかもしれないが、彼女から演技を教わり、お返しに歌唱法を指導する中で、二人の間にはいつしか友情の絆が生まれ始めていた。琴美は明らかに職責の枠を越えて私をサポートしてくれている。その心意気がうれしかった。
「そこまで言うなら、もう少しだけ頑張ってみるわ」
彼女の粘りに根負けし、モチベーションが上がらないまま、一幕の台詞を最初からさらおうとした時だった。
「水原!」
と前方から男性の野太い声が飛んできた。見ると、出入口の鉄扉が半分ほど開き、桜井が顔をのぞかせている。
「滝沢先生がお呼びだ。至急、先生の部屋へ行ってくれ」
「はい」
琴美は返事をした後、怪訝そうに首をかしげ、「何の話でしょう?」と不安げにこちらを見た。
「どうせ私のことよ」
先ほどの無礼な態度に対する処罰を言い渡す気だろう。稽古から外されるか、あるいは何らかのペナルティーが課されるか――。
「だったら私から滝沢先生にご説明します。百合亜さんのさっきの発言は、役柄を真剣に追求すればこそだって。決して先生に歯向かったわけじゃない。どうかもう一度、百合亜さんにチャンスを与えてあげてください」
「言ってもむだよ」
「水原!」
桜井が再び大声で叫んだ。
「はい、すぐ行きます」
琴美は返事をすると、「では行ってきます」と小声で囁いて去っていった。
私は彼女を見送った後、放心状態で近くの椅子によろけるように腰を降ろした。
虚脱感が全身を襲う。
十年以上に及ぶオペラのキャリアを捨て、退路を断ってミュージカル界に飛び込んだというのに、なんというザマだろう。
これ以上稽古を続けても、ミミ役に選ばれる可能性はほとんどあるまい。
そもそも片桐あずさにあらかじめ主役の座は決定しているのだ。これは出来レースなのだ。そのことが今日はよく分かった。私はあずさをスターとして売り出すための当て馬であり、ピエロに過ぎない。
そう思うと無性に悔しさが込み上げてくる。
畜生。
これ以上生き恥を晒すくらいなら、いっそのこと、こちらからミミ役を蹴ってやろうか――。




