第十五話 鮫島との食事
「あの子、すごい向上心だよね。密かにミミ役を狙ってるんじゃないかな」
鮫島がサイコロ状に切り分けられた牛肉を、箸で口に運びながら言った。
劇団明星から徒歩十分ほどの川沿いに建つこの店は、瀟洒な洋館の中にクラシカルな調度品を配した、高級鉄板焼きのチェーン店だ。
劇団の主役クラスの俳優たちもよく利用する店だという。
「琴美のこと?」
「ああ。台詞も歌もミザンも完璧に入ってるじゃない。見ているうちに自然に覚えたなんて言ってるけど、嘘だね。あれは陰で相当努力してるよ」
「でも、向上心があるのは悪いことじゃないでしょう」
自分の付き人を擁護するように言った。
同期のあずさに負けまいとライバル心を燃やしている彼女の姿はむしろ好感を覚える。若手はそれくらいの気概があってしかるべきだ。かつての自分もそうだった。
「ま、そりゃそうだけど」
鮫島は赤ワインに口をつけると、
「でも彼女、歌が日に日にうまくなってる。君が教えてるの?」
「時々ね。でも、本人の努力の賜物よ。ミュージカルの歌は難しくないから、努力すればするだけうまくなっていく」
「まあね」
実際、琴美の歌は短期間で急成長を遂げている。
しかしそれはスタート地点のレベルがあまりに低すぎたためで、お世辞にもプロのレベルに達しているとは言い難い。それでもこのまま二年、三年とたゆまず精進を重ねていけば、いつか準主役級の役くらいには辿り着けるかもしれない。
「そんなことより」
私は身を乗り出して鮫島の顔をまじまじと見つめた。
「教えて欲しいんだけど」
「なに」
と彼は赤ら顔で私を見た。
「私は片桐あずさに勝てると思う?」
「え」
鮫島は虚を衝かれたように目を丸くした。
「ミミ役を手にすることができると思う?」
真剣な眼差しで重ねて訊いた。
「そんなこと、俺に訊かれても……」
「鮫島さんの意見を聞きたいのよ。舞監の貝原さんや琴美は絶対大丈夫だって言ってくれてる。でも、どこか不安なの。オペラもミュージカルも両方精通している鮫島さんの意見が是非聞きたい」
「そうだなあ」
鮫島は両手指を組み合わせて顎の下に持っていき、考える仕草をした。
「どういう視点で見るかによるんじゃないかな」
「視点って?」
はっきり「君だよ」と言ってくれなかったことに内心軽いショックを受けつつ訊いた。
「つまり……歌を中心に見るか、それとも台詞を重視するか、あるいはキャラクターを重んじるか……。でも一番やっかいなのは、人間のやることには、常に私情が入るってことだよね」
「私情?」
「ああ」
「どういう意味?」
「うん……」
と言ったきり彼は黙り込んだ。言おうか言うまいか、逡巡するような短い間があった。
次の瞬間、彼は窓の外を見て、
「あれっ?」
と素っ頓狂な声を発した。
私も思わずそちらに視線をやる。
薄明かりの中で、黒い人影が植え込みの陰に消えるのが見えた。
「なに?」
「あの人だよ」
鮫島が言った。
「あの人って?」
「ほら、さっき話題に出たじゃない。舞監をやってる……何て名前だっけな」
「貝原さん?」
思わず声のトーンが一段高くなった。
「そう。貝原さん。あの人が窓の外からじっとこちらを見つめてたんだ」
「なんですって」
腰を浮かし、もう一度、窓の外に視線を投げた。血の気が引いていくのが分かる。
なぜ貝原が――。
ずっと二人の後をつけてきたのだろうか。彼のにやけた笑い顔と粘りつくような視線を思い出して、思わず身震いした。
「何も慌てて隠れることないのにねえ」
事情を知らない鮫島が、笑顔で言った。
「おかしな人だ」
「……ええ」
私は顔を引きつらせて応えた。




