第十四話 貝原の好意
稽古が始まって十一日目、ひととおりのミザンスが完成した。
それにしても、ここの劇団員は恐ろしく優秀だ。たった十日あまりで、ダンサーたちはほとんどの振りを覚えてしまった。それも一糸乱れぬレベルにまで到達している。全体稽古が始まる前からダンサーとコーラスはすでにブロードウェイスタッフと共に稽古を積んでいたと聞くが、それにしても驚異的なはやさだ。振付師からは未だに厳しい叱責が飛ぶが、私から見ればすでにほぼ完璧。明日にでも舞台に立てるのではないかと思えるほどだ。
「明日からは、滝沢先生がいつ入られてもいいように、小返ししながらの通し稽古に移っていきます」
桜井が稽古終わりに言った。
ようやく、地獄のような繰り返し稽古から解放される。通し稽古になれば、喉の負担は格段に減る。今後は琴美の助けを借りずともやっていけるだろう。ミザンスが身体に入った以上、あとは役を深めていくだけだ。どこまでミミの気持ちと一体になれるか。それが勝負だ。
「百合亜さん」
第一稽古場を出たところで貝原誠に声をかけられた。
「あっ」
と私は小さく声を上げた。気まずい笑みが口の端に漏れた。
「稽古の方、一段落ついたみたいですね」
「ええ」
と答えながら頬が引きつるのを覚えた。
「今日あたりいかがですか、例の約束」
食事へ行かないかという誘いである。正直、気が進まなかった。
「ごめんなさい。今日はちょっと体調が悪くて」
嘘をついた。本当は、ロドルフォ役の鮫島と近くの鉄板焼きの店へ二人だけで行くことになっているのだ。
「地獄のミザンス稽古を生き延びた記念に祝杯を上げよう」
と誘われていた。
しかし、たとえ鮫島との約束がなかったとしても、貝原の申し出は断っていただろう。
ここ最近、貝原は悩みの種になっていた。稽古開始当初は心細さもあり、ファンだと言ってくれる彼に心を許し、優しく接していた。一度二人だけで食事に行ったこともある。その時の私の言動がきっといけなかったのだろう。
彼を勘違いさせてしまったのだ。
翌日、プレゼントだといってダイヤのネックレスをくれようとした。
「デパートで買ったら十五万円はする代物ですよ。百合亜さんにきっと似合うと思います」
「そんな高価なもの、とてもいただけないわ」
私は慌てて彼の手に戻した。
「気にしないでください。実際には五万五千円で購入したものです。御徒町に知り合いの宝石商がいましてね」
「それにしたって……」
「お近づきになれた記念です。あなたが受け取ってくれなければゴミ箱に捨てるだけです。他の女性にあげようとは思いません。このまま打ち捨てられるより、あなたの白く美しい首にかけてもらったほうが、宝石もきっと喜ぶと思いますよ」
彼は麗句を並べ立てて、こちらが受け取らざるを得ない状況を作り出した。
「じゃあ、今回だけは遠慮なく――。でも、二度としないでくださいね」
そう念を押して受け取り、
「たしかにデザインがとてもいいわね」
プレゼントしてもらった手前、商品を褒めた。
すると彼は、宝石の買い方について長々と講釈をたれ始めた。
「デパートやブランド店で宝石を買うなんて馬鹿ですよ。本当に素晴らしい石を安く買いたかったら御徒町へ行くべきです。昔は小売りはやっていなかったんですけど、今はかなりの店がこっそりやっています。飛び込みで入って、売ってくれるかどうか聞くんです。売ってくれるとなったら、値札の六割引きで交渉する。いいですか、六割引きですよ。たいていそれで売ってくれます。デパートなんかの数分の一の値段ですよ。今度ご案内します」
彼の話には、常に自分の知識をひけらかすようなところがある。自己陶酔的というか、話している内容に自ら酔いしれていくのだ。一緒に食事をした時も、私への賞賛以外は、ほとんどが自慢話だった。
「私は滝沢先生から全幅の信頼を得ています」
「劇団内で私ほど舞台に精通している人間は他にいません」
「私はオペラもきちっと見ています。他の奴らは狭い視野しか持っていなくて本当に困ったもんです」
「滝沢先生に百合亜さんがミミに相応しいと進言するつもりです。私の意見は、かなり考慮されるはずですよ」
その後には必ず、「だから私と仲良くしておいた方がいい」というニュアンスが加味された。口角を上げて、こちらを覗き込むような笑みを浮かべながら――。
私は昔からこの手の男性が苦手だ。それでいて、はっきりと拒絶の意思を示すことができない。
音楽に関しては辛らつなことでも平気で言えるのに、押しが強く露骨な好意を示してくる男性にははっきりものが言えないところがある。私の欠点の一つだ。
「そうですか。体調が悪いんじゃ仕方ありませんね」
貝原は落胆したように肩を落とした後、すぐに顔を上げ、
「じゃあ明日はどうですか」
と輝く瞳を向けてきた。
「どうかしら。ミザンス稽古が終わったといっても、まだまだ課題は山積みだし……。とにかく、時間ができたらこちらから連絡しますから」
そう言って逃げるように貝原に背を向けた。




