さよならリュッ君
西日を遮る巨大な黒い泥の山が、ユウキ達に濃い影を落としていく。
「ユウキ!逃げろ!逃げるんだ!」
うず高く広がっていくドス黒い山を見上げたまま、体を硬直させているユウキ。そのお腹で叫ぶリュッ君の声は聞こえているが、体が動かない。
湖の底には、黒い山の影が太陽の傾きと共にじわじわと大きく広がっていった。すそ野に広がる巨大な影に覆われたドロの柱は、ずるりと前に倒れこむと、人の形に変化して、黒い山に背を向けてゆっくりと前に向かって歩いていった。まるで、山から遠ざかろうとするかのように、ダムのあった場所からワラワラと対岸に向かって歩を進めていった。
黒い山は、よく見ると、その中と外に蠢いている何かが無数に見えた。泥の山に紛れている沢山の人の影。それはまるで、その影に溺れるように手をばたつかせて蠢いている。
やがて、軋むような音を周囲に響かせて黒い山が傾くと、その積み上げられた黒い頂きが、四方に向かって崩れ始めた。
それを見たリュッ君は、さらに声を荒げてユウキに叫んだ。
「ユウキ!走れ!巻き込まれちまう!走ってくれ!頼む!」
その声に反応したユウキが、慌てて泥の流れに背を向けて、ロープウェイのある岸辺に向かって走り出した。
巨大な山から流れ落ちる無数の泥と人影が、湖底に向かって流れ込んでいく。
荷物を抱えながらも、必死で息を切らして走るユウキ。その後ろからまるで雪崩か土石流のように泥の津波が追いかけて来た。
黒い泥の塊は、湖底を埋め戻そうとするかのように流れ込んで行った。地層の低い部分から渦を巻いてなだれ込み、あちこちに顔を出していた村の遺構を埋め戻していく。亡者のように歩く泥人形達は、後方からの巨大な流れに次々と飲み込まれていった。押し流した全てのものを地層の低い部分に流し込む黒い泥が、そのかさを増して、湖底を黒い水面で覆っていく。渦巻く黒い潮流が隆起の激しい地形にぶつかってうらがえると、遮っていたあらゆるものを飲み込んで、腹の中に沈めて行った。
ユウキが走る道の端にもすでに到達して、その低い地層から水面を広げていった。脇を歩く泥人形達の膝頭を黒い水面が埋まっていくと、ドロ人形達は次々と膝から崩れ落ちて飲み込まれていった。
周りが黒い地層に埋まって渦を巻き始めると、低い部分は完全に黒い流れに埋まってみえなくなっていった。ユウキが走る一段高い道にも、うねりを上げて水面のかさを上げて、黒い泥が迫って来た。泥の中に流れる濁流の中に、まるで溺れているような人影が、手や足を水面に出してばたつかせてもがいている。あるものはひっくり返って沈んでいき、あるものは水面から体を出して、まだ沈んでいない何かにしがみついては流されを繰り返していた
。その度に上がるうめき声のようなものが、響いていく轟音に紛れて流れて、ちぎれて、消えていった。
全力で走るユウキは耳を閉じることができなかった。周りに響くうめき声を聞きながら、恐ろしさに目を見開いて、息を切らせて必死にロープウェイの対岸に向かっていた。
しかし、黒い泥の流れは、ユウキの足を捉え始めた。
「うわああ!」
一気に水かさを増した黒い泥はユウキの足元をすくって、そのまま前方に体を押し流していった。激流に簡単に体を転がされ、木の葉のように、黒い泥の上を滑って流れていく。水かさが深いところに押し流されると、体が一気に沈んでいった。必死で水面に顔を出そうと体をばたつかせるが、次々と上からかぶさってくる泥の渦に体を抑えられて飲み込まれていく。
「ぶはあ!」
お腹のリュッ君が水面から顔を出して大きく息を吸い込むと、バフン!っと体を膨らませて水面の上に浮かび上がった。ちょうど浮き袋代わりになったリュッ君にしがみ付いてなんとか溺れずに済んだユウキだったが、湖底を埋め尽くす泥の渦に翻弄されるがままの二人は、湖の岸からドンドン離されていく。
「ゆうひゆうひ!」
リュッ君が、ユウキを水面に出して呼びかける。
返事が無い。気を失ってしまったのか?
背中越しに見たくても、ユウキの姿を視界に捉えることが出来ない。流れに翻弄されるがままのリュッ君とユウキ。リュッ君は、ユウキが沈まないように肩掛けをきつく締め付け、ぐるぐる回る体の体勢を何とか整えようと必死で動いた。
見ると山の端は影に入り、湖底に日の光が届かなくなり始めていた。対岸には明かりがついて、人影も見えた。湖底の稜線に視線を走らせるリュッ君だったが、まだ、どこからもこの場所は遠く、岸辺に近づくための方法が思いつかない。
その時視線の端に入った湖畔の岸辺に、崖や木々を乗り越えて走る一頭の巨大な白い獣の姿が見えた。
あいつだ!昨日、オレ達を救ってくれたあの、白い影だ!
リュッ君は動けないなりに身体をもぞもぞと動かすと、何とか岸の方向へ向かおうとする。
あの影が、あの影が届く位置にさえ行くことができれば…。
しかし、手足も無いリュッ君には、渦巻く流れに身を任すことしかでき無い。
くそう!くそう!どうすりゃいいんだ。
おおおおーーーん
岸を走る白い獣が遠吠えを上げると、岩の張り出しに向かって行った。そして、濁流の先で流されているユウキとリュッ君を見つめたまま、その張り出しから飛び出した木の枝に登って、可能な限り近付こうとしていた。
近くを通った時に、飛び込んできてくれるつもりか?ありがてえ…。しかし、まだ遠い…。細かく渦を巻き、激しく唸りを上げるこの濁流を、あんな図体のでかい獣が泳ぎきれるのか?飛び込んできても、泳ぎ切ることが出来ず、一緒に沈んじまうかもしれ無い。そして何よりも…。
リュッ君達の脇から、のたうち回るドロ人形がガバッと顔を出して奇声を上げる。周りに流されるドロ人形達は、まるで、溺れないように必死でもがいているかのようだ。そして、この黒い泥も、普通の濁流ではない…。
黒い濁流の下で、俺の身体にまとわり付くように掴もうとする幾つもの手を感じる。これは、こいつらは、あの黒い化け物達や、あの獣が身体に纏っているものと同じなにかなのだろうか?
なんだかわからねえ場所で、こんなゲームみてえな状況に巻き込まれて…。
リュッ君は直感で、あの獣がここに飛び込む事は避けたいと思った。
こんなガキんちょを使って、なんとかここまで来たってえのに…。
少なくとも、長い時間泳がせる事はさせない方がいいと、心の奥底が警鈴を鳴らしている。
後一つだってえのに…、こんなところで、こんな格好で終わるのか…。意味がわからねえ!
リュッ君は意を決すると、顔を水面から出して、大きく大きく息を吸い込んだ。リュッ君の体が。どんどん、どんどんと大きくなっていく。そして、何倍も膨れ上がり、その大きさがユウキの丈より大きくなると、ユウキの身体を黒い泥の濁流の中から引き上げることが出来た。そのまま、身体の向きを変えて、ユウキを岸辺にいる白い獣の方に向ける。
「う、うーん…」
ユウキの声が背中から聞こえて来る。
「ゆうひ!ゆうひ!だひじょうふか?ゆうひ」
「ん…、リュッ君…。わっ!」
目を覚ましたユウキは、目の前で大きく膨れ上がっているリュッ君を見て驚いた。
「リュッ君!大丈夫?」
「ゆうひ、おへのからたのわひにあるポケットだ」
苦しそうにユウキに言うリュッ君。
「脇のポケット?」
ユウキが手を伸ばして脇のポケットの中を弄る。そこにはカンパンと書かれた缶詰が入っていた。
「ひようしょくだ!だいじにもっとけ」
「リュッ君?」
「わひをひめて、からたをちいさくひろよ」
「脇を締めて小さく?」
「はやふしろ!」
ユウキは、リュッ君の言っていることを聞いて、脇を締めて、身体の力を入れて出来るだけ小さい姿勢を取った。
「こ?こう?」
「いくそ!」
「え?え?」
すうーっと身体を曲げてユウキの身体を自分の体に沈みこませていくリュッ君。深く深くリュッ君の体に沈みこんでいくユウキ。そして、これ以上なく沈みこんだユウキの肩から、リュッ君と繋ぐ両の肩止めが、パチン!と外れた。
そして、リュッ君が「むん!」と力を入れると、凹んだ場所が大きく押し出されて、ユウキを空中に大きく跳ね飛ばした。
「うわあああああーーー!」
空中に放り出されたユウキが声を上げて飛んでいく。
飛ばされたユウキの先には、あの白い獣がいた。飛んでくる軌道に合わせて、跳ね上がる濁流の上に飛び出た岩や桟橋、木々の幹や枝を伝って来ると、飛び上がって空中でユウキをキャッチした。
そしてそのまま岸辺の岩場に着地して、自分の体にユウキを下ろした。
突然のことに一瞬意識が混濁したユウキが、白い獣の背中で目を覚ます。瞬間、ユウキは飛び起きて、湖の湖底に向かって行くとリュッ君の姿を探した。
目の前の湖底は、すでに黒い濁流があらゆるところで渦を巻いていた。複雑な流れが隆起して、先ほどまで見えていた湖底や村の遺構を飲み込んでしまっていた。
「リュッ君!りゅっくうーーん!」
激しい濁流渦巻く、黒色の湖に向かって叫ぶユウキ。
「ゆうきい!」
リュッ君の声が、濁流の轟音に紛れてユウキの耳に届いた。
「あと、ひとつだ!あとひとつで家に帰れるぞう!」
ユウキが声のする方を見ると、黒い渦に巻かれて浮かぶリュッ君の姿が小さく見えた。岸から遠ざかって離れて、浮かんだり沈んだりをしながら沖に流されていく。
「リュッ君…、」
どんどん遠ざかっていくリュッ君を見つめて身体を震わせるユウキ。状況を把握すると、流れていくリュッ君に向かって身を乗り出した。
「リュッ君!りゅっくぅーーーん‼」
声を絞り出して叫ぶユウキ。
「いやだあ!リュッ君!いやだよう!」
「大丈夫だあ!お前ならやれる!あとひとつだがんばれい!」
「リュッ君!いやだあ!」
思わず飛び出そうとするユウキ。その首根っこを咥えてユウキを止める白い獣は、ユウキを咥えたまま顔を持ち上げて空中にぶらんとぶら下げた。
「いやだよう!リュッ君!戻ってよう!」
足をばたつかせ、大粒の涙を流して激しく暴れるユウキ。
「ユウキい!がんばれえ!お前と俺はいつだって…」
ごぽん!と大きな波がリュッ君の上に覆いかぶさった。
そして、そのままリュッ君の姿は、黒い渦に巻き込まれて、見えなくなった。
三日目終了です。
ここまで読んで頂き、大変有難うございます。
無事にユウキがお家に帰るまで、暖かい応援を宜しくお願い致します。




