逆流
「戻れ!ユウキ」
堆積した地層や、遺構の狭間には、流れ切らなかった湖の水が緩やかに流れる音を静かに響かしていた。それら周りの水溜りや地層の窪地から、先程までは見当たらなかった黒い泥のようなものが、まるで柱のように林立し始めている。
くそう!もう、始まりやがった!
あせるリュ君。見ると、魚を捕ろうと手を伸ばしたユウキの目の前にも、ヌルリと黒い泥の柱が立ち上がり、いまにもユウキにのしかかりそうにうねった体をもたげている。ユウキはその柱を凝視したまま、その場で動けず固まっていた。それを見て、慌てたリュッ君がユウキに叫ぶ。
「ユウキ!早くこっちへ上がって来い!」
リュッ君の叫び声に割ってはいるかのように、サイレンの音が周囲に響き渡った。振り向いたユウキは、リュッ君が置いてある灯篭の道へ急ぎ戻って来る。
「大丈夫か?ユウキ?」
「う!うん!」
ユウキがリュッ君をお腹に担ぎ直すと、改めて、灯篭の道から周りを見回した。
「な…!何あれ!」
息を切らしたユウキが、周囲に増えていく泥の柱を見てリュッ君に聞く。
見ると、周りには幾本もの黒い柱が地層や廃屋、岩の狭間からにょきにょき出現し始めていた。ダム湖の底の廃村辺りに屹立するそれらの柱は、ぬめっとした光沢を波打たせて、ブルブルと震えるようにして、その形をジワリと変化させていた。
「ありゃあ、あれだ、あのダムにいたやつと同じやつだ!」
「え?そうなの?」
そう答えたリュッ君の顔は強張ったままだった。同じなんだが、なにかが違う。伝わって来る何かが、あのダムにいたやつらとは根本的に違う。
「ユウキ!魚は今回は無しだ。ロープウェイへ急ごう!」
何かざわつく予感に、ユウキも体を緊張させていった。
「ここが日影に落ちる前に、ロープウェイから山に登ろう」
「わ、分かった!」
ユウキは返事をすると、そのままロープウェイを足早に目指す。
あたり一杯に広がるサイレンの音。そして、その広がりに合わせるかのようにその数を増やしてく黒い柱。それらにあまり目をあわさないように歩き出したユウキは、社の残骸の反対側から石灯篭の続く道へと向かい進んでいった。
次々と生えてくる黒い柱は、光沢を波打たせながら、その高さを上げていくと、その天辺をにゅるんとうねらせ突起を形作っていった。次々と、まるでボーリングのピンか、こけしのような形に変化していく。そして、その天辺の丸い突起の中心がすり鉢状に凹んで穴を作っていくと、そこからうめくような声が漏れ出始めた。
「ぼおおおおおおお」
歩くユウキが、びくっ!と体を震わせる。この声は前にも聞いた。遊園地でも、ダムの中でも…。その声が徐々に数を増やしていく。あの黒い柱から響き渡って来る。
ユウキは肩を縮めると、両手で耳を塞いだ。体の奥から、どうしようもない恐怖がにじみ出て来て、流れる汗と体の震えが止まらなくなって行く。
跳ね上がる心臓の鼓動と、ガタガタと震えるユウキの様子が、リュッ君にも伝わって来る。
でも、リュッ君にもどうすることも出来ない。
黒い柱から発せられるあの不快なうめき声は、いまやサイレンの音とともに、周りを取り囲んでの大合唱になっていた。それでも、背中には太陽の光は照りつけている。日の光に背を向けて、ただひたすら、ロープウェイのある湖畔に向かって歩き続けるユウキ。ユウキに担がれているリュッ君には、その距離がとても遠くに感じられた。
走れというべきだろうか?いや、しかし、ユウキが運ぶ荷物も多い今は、あまり無理をさせるべきではない。荷物を減らして、いっそのことクーラーボックスは捨てるべきか?ゴールも近付いてきていることだし、あと一日だけ持たせることが出来きるなら、いっそのこと…。
ユウキのお腹で思案に暮れるリュッ君。
ユウキは、なるべく周りを見ないように、音を聞かないように耳を塞いで、うつむきながら歩いていた。
前を向くリュッ君の視界には、周りに立っている黒い柱がブルブル震えながら波打ち、徐々に人の体のように変化していくのが見える。泥の柱に閉じ込められた人のような何かが、辛うじてあいた空気穴から口だけをポッカリ出して息をしているような格好に見えた。背中からの日差しは、段々と強くオレンジ色へと変化し始め、ユウキの影を、まわりに立っている黒い柱の影を、手前に長く、濃く伸ばし始めていた。
それらに加えて、リュッ君の視界の端にそれらを飲み込むような大きな影が周囲にジワジワ広がっているのが見えた。ユウキが歩く後ろから、少しずつ少しずつ、追いかけるように迫ってきている。何か、大きく高く聳え立つ何かが、歩くユウキとリュッ君の後ろで、照りつける太陽の光を遮っている。その何かはザワザワと形を変えて広がっている。まるで、影自身が折り重なる人のように、悪夢のような影絵に見えた。
ぎいいいいいい…。
後方で何か大きく軋んだ音が響き始める。
日の光を遮る影に一本、また一本と泥の柱が覆われていく。影に入った泥の柱から、ゴポン…と波打っていくと、泥の地面から足を引き抜いて、一歩前に踏み出した。そして、もう一方の足も引き抜き、手をダランと前に垂らして、ゆっくりと前方に歩き出した。歩き始めた泥の柱が後方からどんどん増えていく。それらが進む方向は、ユウキ達が目指しているロープウェイのある方向と同じ方向に向いていた。
振り向いて確認したいが、ユウキに振り返れとは言えないリュッ君。しかし、ゴオオン!と、大きな揺れがダム湖の底を襲った。地鳴りが響いて、地面が揺れる。前につんのめったユウキが、思わず周囲を見回してしまう。
ゴンゴンゴンゴンゴン…。
周囲を見まわしたユウキが、自分のまわりに大きな影が覆いかぶさろうとしていることに気付いた。そして、その影を生み出す方向に思わず振り返った。
すると、そこには、黒い濁った巨大な泥の壁のようなものが盛り上がり、ダムが崩れて抉られた場所を埋めるように広がっていくのが見えた。
下からもりもりと生まれ出てくる黒くドロッとした何かが、下からせり上がっていくと、上にも横にも成長して、歪で巨大な山を形成していく。膨れ上がるその表面は、細かく詰まった何かがバラバラに蠢いていた。それらは、無数の人のような何かに見えた。
振り返ったユウキはその、巨大な黒い泥の塊を凝視したまま、固まってしまった。リュッ君も同様に、その異形を目の前にした瞬間、見た事を後悔した。あの細かく蠢くものは、おそらく、まわりに立ち上がっている黒い柱と同様の物だ。あのダムで、遊園地で見たノッポの影と同様の何かだ。
一度崩壊したダムがあった場所に、再びあれらを組み上げて、もう一度あの場所にダムを作り上げようとしているのか?
「ユウキ!逃げよう!早くあのロープウェイに向かって逃げるんだ」
絞り出すように声を上げてユウキに呼びかけるリュッ君。
「あ、ああ」
リュッ君の声が聞こえないかのように、ユウキは巨大な黒い泥の塊を目の前に声を失い固まっている。
「ユウキ!」
サイレンの音がますます大きく響き渡った。まわりに立っている泥の柱が発する不快な声も、サイレン同様、ダム湖の窪地に満ち渡っていく。
目の前の巨大な黒い塊はさら膨れ上がり、その高さを盛り上げていった。いびつで巨大な泥の山が、ユウキ達の前に立ち塞がる。そして、ユウキ達のいる場所から日の光を遮断して、周りを影で覆ってしまうと、ずるりとその表面が崩れ落ち始めた。
そして、ユウキたちのいるダム湖の底めがけて、蠢く黒い流れがどろどろと流れ込んで行った。




