第8話 私たちは最初から夫婦ではありません
第8話 私たちは最初から夫婦ではありません
舞踏会場を満たしていた音楽が止まった。
弦楽器の最後の音だけが高い天井へ消えていく。
誰も動かない。
誰も話さない。
数百人の視線がエルザへ集まっていた。
巨大なシャンデリアの光が彼女の紺色のドレスを照らす。
夜空のような生地に銀糸が輝き、まるで星々をまとっているようだった。
その姿は以前の侯爵家で見せていた控えめな装いとはまるで違う。
堂々としている。
そして静かだった。
ジュリアンは葡萄酒のグラスを傾けながら笑った。
「どうした、エルザ」
会場中へ聞こえるように言う。
「祝福の言葉はないのか?」
マリアも微笑む。
「そうですわ」
二人の視線が絡む。
勝者の余裕。
敗者を見下す目。
そう思っているのは二人だけだった。
エルザは小さく息を吐く。
「祝福ですか」
「そうだ」
「もちろん申し上げます」
ジュリアンが得意げに顎を上げた。
「なら言え」
エルザは微笑んだ。
「婚約おめでとうございます」
会場がざわつく。
あまりに普通の返答だったからだ。
マリアが鼻で笑う。
「素直になるのですね」
「ええ」
「悔しくないのですか?」
エルザは首を傾げた。
「なぜでしょう」
「あなたは捨てられたのです」
その言葉に何人かの貴族が顔をしかめた。
マリアは気づかない。
ジュリアンも笑っている。
「そうだ」
「私はお前を捨てた」
「離婚したのだからな」
その瞬間だった。
エルザの隣にいたクラウスが一歩前へ出た。
革鞄を静かに開く。
その動作だけで会場の空気が変わった。
法務監査官。
その肩書きは軽くない。
クラウスは淡々と言った。
「その件について確認があります」
ジュリアンが眉をひそめる。
「何だ」
「離婚したとおっしゃいましたね」
「そうだ」
「いつですか」
「つい先日だ」
クラウスは眼鏡の位置を直した。
「離婚届はどちらへ提出されたのでしょう」
ジュリアンが固まる。
「それは……」
「離婚届の受理番号は」
「知らん」
「受理証明書は」
「ない」
クラウスは小さく頷いた。
「なるほど」
マリアの顔が曇る。
嫌な予感がしていた。
クラウスは一枚の書類を取り出した。
王国戸籍院の公印。
赤い印章。
誰が見ても正式文書だった。
会場の空気が張り詰める。
「王国戸籍院発行」
クラウスの声が響く。
「婚姻届不受理証明書です」
ざわり。
大きなざわめきが起きた。
ジュリアンが顔をしかめる。
「何だそれは」
「三年前に提出された婚姻届についての証明です」
エルザは何も言わない。
ただ静かに立っている。
クラウスが続ける。
「婚姻届は書類不備により受理されませんでした」
会場が静まり返る。
誰も息をしない。
「補正要請通知」
「再通知」
「最終通知」
「すべて未対応」
クラウスは紙をめくる。
「その結果」
そして宣告するように言った。
「婚姻届は不受理となりました」
沈黙。
完全な沈黙だった。
ジュリアンの顔色が変わる。
「待て」
「つまり」
クラウスは淡々と答える。
「婚姻は成立しておりません」
マリアが震えた。
「え……」
「どういうことですの」
エルザが初めて口を開く。
穏やかな声だった。
「そのままの意味です」
「私たちは最初から夫婦ではありません」
会場が爆発した。
「なんだって!?」
「三年間も?」
「未婚だったのか!?」
「侯爵家が!?」
囁きが渦になる。
ジュリアンは真っ青になった。
「嘘だ!」
「嘘だ!」
「そんなはずがない!」
クラウスは次々に書類を並べる。
補正要請。
再通知。
最終通知。
不受理決定。
すべて正式記録。
逃げ道はない。
ジュリアンは後退した。
「エルザ!」
「お前知っていたのか!?」
その言葉にエルザは静かに彼を見る。
怒りもない。
憎しみもない。
ただ事実だけを告げる。
「はい」
「知っていました」
会場がさらにざわめく。
ジュリアンが叫ぶ。
「なぜ言わなかった!」
その問いにエルザは少しだけ目を細めた。
「言いました」
静かな声。
しかしよく通る。
「何度も」
クラウスが新しい手帳を取り出す。
あの記録帳だった。
「五月十日。確認依頼」
「五月二十日。確認依頼」
「六月三日。確認依頼」
「六月十八日。確認依頼」
ページをめくる。
「一年目」
「二年目」
「三年目」
何度も何度も同じ記録。
会場の貴族たちが顔を見合わせる。
エルザは続けた。
「受理証明書は届きましたか」
「戸籍は確認されましたか」
「通知はご覧になりましたか」
「私は何度もお尋ねしました」
ジュリアンの顔が引きつる。
思い出していた。
確かに聞かれていた。
何度も。
そのたびに。
面倒だ。
後で見る。
うるさい。
そう言っていた。
エルザは静かに微笑んだ。
「確認しなかったのは、あなたです」
その言葉がとどめだった。
会場中の視線がジュリアンへ向く。
同情はない。
憐れみだけだった。
侯爵家の次期当主。
三年間。
公文書を読まず。
婚姻届も確認せず。
離婚したつもりになっていた男。
マリアが震える声で呟く。
「じゃあ……」
「私は何になるの……」
誰も答えない。
答えられない。
ジュリアンは口を開こうとした。
だが声が出ない。
反論できない。
証拠が揃いすぎていた。
事実が重すぎた。
会場の誰もが理解していた。
今日ここで笑い者になったのはエルザではない。
侯爵家でもない。
ジュリアンただ一人だった。
そして彼の沈黙は。
破滅の始まりを認めた沈黙でもあった。




