第6話 読まなかった代償
第6話 読まなかった代償
重苦しい雨が降っていた。
ヴァルハルト侯爵家の屋根を叩く雨音は、まるで不吉な予兆のように響いている。
侯爵家の大会議室には、領地管理人、会計責任者、執事長、税務担当官が集められていた。
長い楕円形の会議卓の上には大量の書類が積まれている。
羊皮紙。
契約書。
請求書。
通知書。
未開封の封筒。
そして戸籍院からの記録。
部屋の空気は張り詰めていた。
レイナルド侯爵は上座に座り、険しい表情で書類を見つめている。
その右隣には青白い顔をしたジュリアン。
左隣には怯えきったマリア。
誰も口を開こうとしない。
やがて会計責任者が震える声で報告を始めた。
「旦那様……まず税務関係ですが……」
「言え」
「三年前の優遇措置申請に不備がございます」
侯爵の眉がぴくりと動いた。
「不備?」
「婚姻成立を前提とした優遇措置でした」
静寂。
ジュリアンの喉が鳴る。
「現在、王国税務局から再調査通知が届いております」
「金額は」
会計責任者は顔を歪めた。
「追徴金を含めると……金貨八千枚ほどかと」
マリアが息を呑む。
ジュリアンも言葉を失った。
金貨八千枚。
地方の子爵家なら潰れる額だ。
侯爵は静かに目を閉じた。
怒りが静かに蓄積していく。
今度は領地管理人が立ち上がる。
「小麦商会との契約も問題がございます」
「続けろ」
「更新期限を過ぎました」
「結果は」
「他領との契約へ切り替えられました」
侯爵の拳が握られる。
「損害額は」
「今年だけで金貨千二百枚ほどです」
誰も動かない。
時計の針の音だけが聞こえる。
その時だった。
執事長バーナードが大きな木箱を運ばせた。
箱の中には大量の封筒が詰め込まれている。
侯爵が見下ろした。
「これは何だ」
「ジュリアン様のお部屋から発見されました」
ジュリアンの顔色が変わる。
嫌な予感がした。
バーナードは一通を取り出した。
王国税務局。
未開封。
さらに一通。
王国戸籍院。
未開封。
さらに一通。
王都契約監査局。
未開封。
未開封。
未開封。
未開封。
まるで墓標のように積み上がる。
侯爵は一枚ずつ確認していく。
部屋の温度がどんどん下がっていくようだった。
「これは」
侯爵が低く呟いた。
「全部読んでいないのか」
ジュリアンの額に汗が流れる。
「忙しかったのです」
「忙しかった」
侯爵が復唱した。
静かな声だった。
だからこそ恐ろしい。
「何をしていた」
「……」
「何をしていたと聞いている」
ジュリアンは答えられない。
狩猟。
舞踏会。
酒宴。
愛人との逢瀬。
そのどれも口にできなかった。
侯爵は封筒を投げた。
机に叩きつけられた紙が大きな音を立てる。
「税務局からの督促だ!」
さらに投げる。
「契約更新通知だ!」
さらに投げる。
「戸籍院からの再通知だ!」
紙が雪のように舞う。
ジュリアンは縮こまった。
「父上……」
「黙れ!」
怒号が響いた。
窓ガラスまで震える。
マリアが悲鳴を上げる。
侯爵は立ち上がった。
長年仕えてきた使用人たちでさえ後ずさる。
それほどの怒りだった。
「お前は何を読んでいたのだ」
誰も動けない。
「本は読まん」
「契約書も読まん」
「通知書も読まん」
侯爵の声は震えていた。
怒りだけではない。
失望だった。
「当主になる人間が」
「公文書を読まないとはどういうことだ」
ジュリアンは唇を噛む。
反論できない。
事実だからだ。
その時だった。
バーナードが小さな手帳を差し出した。
「旦那様」
「何だ」
「エルザ様のお部屋にございました」
革表紙の古い手帳。
侯爵が開く。
そこには美しい文字が並んでいた。
『五月十日。戸籍院通知到着。ジュリアン様へ確認依頼。』
『五月二十日。未確認。再度依頼。』
『六月三日。再通知到着。確認をお願いしたが拒否。』
『六月十八日。最終通知。再度依頼。』
ページをめくる。
『税務局通知。確認依頼。』
『契約更新通知。確認依頼。』
『監査局通知。確認依頼。』
すべて記録されていた。
侯爵は黙った。
部屋も静まり返る。
マリアでさえ言葉を失った。
エルザは何もしていなかったわけではない。
何度も伝えていた。
何度も警告していた。
何度も助けようとしていた。
それを無視したのは。
ジュリアン自身だった。
侯爵はゆっくり手帳を閉じた。
「エルザは」
低い声。
「最後まで侯爵家を守ろうとしていたのだな」
誰も否定できない。
侯爵は息を吐く。
疲れたように椅子へ腰を下ろした。
その姿は急に老けて見えた。
「ジュリアン」
「はい……」
「お前は騙されたのではない」
その言葉が胸に刺さる。
「裏切られたのでもない」
さらに刺さる。
「自分で自分を破滅させたのだ」
窓の外では激しい雨が降り続いている。
ジュリアンは俯いた。
初めて理解し始めていた。
エルザが去ったから侯爵家が崩れたのではない。
もっと前からだ。
三年前。
最初の通知書を捨てたあの日から。
破滅は始まっていたのである。




