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第10話 正しく読む者の未来

第10話 正しく読む者の未来


王都に春が訪れていた。


中央法務院の庭園では白い木蓮が咲き誇り、窓から吹き込む風には花の甘い香りが混じっている。


朝日が差し込む執務室で、一人の女性が書類に目を通していた。


エルザ・ライゼン。


三十歳になった彼女は、中央法務院の法制度改革局長補佐という要職に就いていた。


濃紺の仕立ての良いドレス。


胸元には法務院職員章。


髪は美しくまとめられ、落ち着いた気品が漂っている。


机の上には大量の法案資料が積まれていた。


戸籍制度改革。


契約手続き簡素化。


公文書通知制度改善。


どれも彼女が中心となって進めている仕事だった。


「局長補佐」


若い職員が書類を抱えて入ってくる。


「修正案がまとまりました」


「ありがとう」


エルザは微笑んだ。


若い職員は頬を赤くする。


法務院では有名だった。


優秀であること。


誠実であること。


そして誰に対しても公平であること。


彼女の下には優秀な人材が集まる。


机の端には昼食が置かれていた。


鶏肉と野菜のサンドイッチ。


新鮮な果物。


温かな紅茶。


昔の侯爵家で忙しく働いていた頃より、ずっと質素な食事だった。


だが今の方が美味しい。


自分の力で手に入れた生活だからだ。


「局長補佐」


別の職員が笑顔でやってくる。


「改革案が議会を通過しそうです」


「本当ですか」


「はい」


部屋が明るくなる。


皆が喜ぶ。


エルザも自然と笑顔になった。


窓の外を見る。


春の日差し。


青空。


自由な空。


あの日、侯爵家を去った馬車の中で見た空より、ずっと広く感じられた。


一方その頃。


王都から遠く離れた地方の港町。


冷たい海風が吹いていた。


古びた倉庫街。


魚と潮の匂い。


荒れた石畳。


そこに一人の男が立っていた。


ジュリアンだった。


かつて侯爵家嫡男だった男。


今は日雇い労働者。


色褪せた上着。


擦り切れた靴。


日に焼けた顔。


誰も彼を侯爵家の息子とは思わない。


朝から荷運びの仕事をしていた。


肩は痛い。


腰も痛い。


手には豆ができている。


昼食は黒パンと薄いスープだけ。


かつて毎日食べていた豪華な料理は夢のようだった。


仕事が終わる頃。


監督者が紙を差し出した。


「契約更新だ」


ジュリアンの顔が引きつる。


契約書。


その言葉だけで胃が痛くなる。


監督者が笑った。


「ちゃんと読めよ」


周囲の労働者も笑う。


冗談のつもりだ。


だがジュリアンだけは笑えなかった。


震える手で紙を受け取る。


一行ずつ読む。


ゆっくり。


何度も。


確認する。


昔なら絶対にしなかった。


だが今は違う。


文字を見るだけで汗が出る。


読み飛ばすことが怖い。


見落とすことが怖い。


あの日からずっと。


通知書を見るたび胸が締め付けられる。


人生を変えた一枚の紙。


捨てた封筒。


読まなかった通知。


それらが何度も夢に出る。


監督者が呆れたように笑う。


「ずいぶん慎重だな」


ジュリアンは答えなかった。


慎重になったのではない。


恐ろしくなったのだ。


書類というものが。


文字というものが。


その頃。


中央法務院では新人研修が行われていた。


大講堂には数十人の新人職員が集まっている。


皆、緊張した面持ちだった。


エルザは演壇へ立つ。


窓から差し込む春の日差しが彼女の横顔を照らしていた。


新人たちは静かに耳を傾ける。


エルザは柔らかく微笑んだ。


「皆さん」


穏やかな声が広がる。


「法務院の仕事は難しくありません」


新人たちは顔を上げる。


「大切なのは一つだけです」


会場は静まり返った。


エルザはゆっくり言った。


「署名の前には必ず読みなさい」


その言葉は不思議な重みを持っていた。


「契約書を」


「通知書を」


「申請書を」


「公文書を」


誰も瞬きをしない。


エルザは続けた。


「人生は一枚の書類で変わります」


春風が吹いた。


木蓮の花びらが窓の外を舞う。


「だから必ず読みなさい」


「理解してから署名しなさい」


「わからなければ聞きなさい」


静かな声だった。


だが誰の胸にも残る言葉だった。


新人たちは真剣に頷く。


エルザは微笑んだ。


その笑顔には後悔も恨みもなかった。


過去は過去だ。


読まなかった人間は破滅した。


読んだ人間は未来を手に入れた。


それだけのこと。


研修が終わる。


拍手が起きる。


エルザは窓の外を見た。


青空が広がっていた。


どこまでも高く。


どこまでも自由に。


人生は一枚の書類で変わる。


だがその先を決めるのは、いつだって自分自身なのだ。


そう思いながら、エルザは新しい未来へ向かって歩き出した。




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― 新着の感想 ―
総務や上司から電話が来るだけで『俺何か悪いことしたかな』とビクッとするのに書類を一切見ないとは凄い胆力だ。 この男が貴族の時に詐欺契約を結ばせておけば一儲け出来たかもしれない。
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