しにたがりやさん
洗濯物も部屋干しするから、普段はベランダになんて出ない。今夜は、乾いてちょっと尖るから裸足で出てみただけのこと。あら、ってなにかがまちがって、ふわっと飛べたりしないかなんて。
雪の朝みたく光るナイフや、北風とかより速い電車や、チェックのマフラーなんかを見ても、眩暈のように想像をする。そんな思想はいけませんとか、自分に禁止するのもやめた。今は平気だ。くらっといっちゃう。すぐに、戻ってきてしまう。
だれかをびっくりさせたくないし、怪談話を生みたくないし、いろいろ解釈されるのも癪。それも、たぶん、ほんとうだけど。
手すりにもたれて覗き込んだら、ぜんぶを吸い込む海ならばいい。下に化け物がわんさかといて、舌で舐め取ってくれるならいい。あっちの窓から駄目スナイパーが流れ弾でも寄越したらいい。天才的な隕石とかと、運命的に出会えればいい、バカだ。笑えないほどバカだ。ありえないくらいバカらしいから、世界終焉が今ならばいい。
きれいでとうとい、世界はきれいでとうといからすぐ終わるわけ。たったひとつのかけがえのない、宇宙なんかよりふかくてきれいでどうしようもなくとうとい世界は、ふかくてきれいでどうしようもなくとうといんだから終わるわけ。一個、言わせてもらっていいか。終わらせなくてもきれいだったよ。あなたはきれいでとうとかったよ。爪の先までそうだったけど。
爪の先すら触れなかった。違う? 触らなかったのかもね。
「やあこんばんはー、おじょーさん」
急に、横から声が聞こえた。
やわらかいけど、男の声だ。いよいよバカだ。そんなわけない。性別なんぞは問題じゃない。こっちはずっとひとり暮らしで、最近は人を呼ぶこともない。あとここ、そこそこ高いベランダ。
「あれー。こんにちはのほうがよかったー?」
やわらかいけど、軽い声。さっきよりも近くで聞こえた。横に、確かに気配がしている。手すりにもたれて下だけ見ておく。遠い平らな舗道を見ておく。
「おじょーさん、ねえ。ねーってば」
軽薄さに拍車がかかった。覗き込んできている気がする。これは、どういう状況だろう、ああ、そうか。ユメか、マボロシ。それともなにかのオムカエなのか。それって、かなりまずくもないか。別に、いいやという気がしてくる。ついさっきまでそんなことばかり、ずっと考えてたからだろう。きっと頭がゆるくなってる。じっと下ばかり見つめていたけど、さらっと横を向いていた。
「おー、やっとこっち見てくれたよー」
満員電車以外では、許したくないし許されたくない。そのくらいの距離感で、だれかが横に立っていたけど。避けるの面倒でそのままにした。
長身の若い男という感じだ。魔法使いのローブみたいな、黒くて長い服を着ている。でかいフードをかぶっているから、顔がまったく見えてない。フードの中からまた声がする。
「あらためまして、こんばんはー。とってもすてきな感じの夜ねー」
「死神?」
正体も意味も不明な相手に、懇切丁寧に応対するほどできた人間じゃないのである。だからいきなりそう聞いた。男は、ふふっとか言って笑った。
「僕? 違うよー、死神じゃない」
「悪魔」
「違うよー」
「幽霊」
「違うー」
「変態」
「……それが一番やばくねー?」
確かに、それはそうだと思う。でも、変態の死神とかかも。ただの死神じゃないのかも。失礼したねと言おうとしたら、男に先を越されてしまった。
「ねー。天使とか妖精とかさ、そっち方面だとは思わん?」
ちょっとだけ拗ねた声だった。男の姿をあらためて見る。重そうな真っ黒い布に覆われ、顔も全然わからない。
「怪しい。羽とかもないし、暗い」
「だから天使とか妖精じゃねーだろ?」
「そう」
「いやーん」
「あなた帰って」
命じて、手すりに頬杖をついた。風が吹いたら身体に沁みた。裸足に床から冷えが伝わる。横の正体不明の男は、布の余った服を着ている。ちょっとくれよと一瞬思って、その愚者っぷりに頭沸きそう。
「帰って……」
「やだよー。僕帰らない。だっていま来たばっかりだもん」
駄々っ子みたいに男は言って、だらんと手すりにもたれかかった。身長があるから危なっかしい。こいつ羽とかないのにな。
「帰って」
「やだってー」
「帰れ」
「いやだー。だってお喋りしたいんだもーん」
きみとねー、とかつけ加えてから、男はさらに身を乗り出した。黒いローブから両手が飛び出て、ゆっくり宙をかき混ぜ始める。筋張っていてでかい手だった。爪は整って青白かった。
「話しかけないでほしいんだけど」
「帰らなくてもいいってことねー?」
なんだこいつは。とても不愉快。相手になんかしなきゃよかった。宙に浮かんだみたいな手から、目をそらして反対を見る。
「やったね、じゃあさー。これ見てくれない?」
こっちはそっぽを向いているのに、男はなぜか楽しそう。遊ばせていた手を引っこめて、がさごそなにかを探り始める。服の中にでもなにかあるのか。つい、耳を澄ませてしまう。
「ほらー見て見て。これなんだけど」
きらり。
小さい音がした。ガラスの鈴より繊細だった。初めて聞いた音だったから、ほぼ無意識に視線を向けた。
「あーっ、やった。見てくれたねー」
ベールがかかったように感じた。男の抱えていたものが、視界がかすむくらいにきれいで。
「そこそこいい品なんだー、ぜんぶ」
男は、広げたてのひらくらいの、四角い木箱を持っていた。中は均等に区切られていて、その小さい部屋のひとつひとつに、まんまるい玉がおさまっている。どれも透明でつやつやしてる。中まで澄んで色がないのに、オーロラみたいに発光していて、光がゆらゆら、くらくら揺れる。黒いローブを滑って踊る。
「なに、これ……」
見つめていたら。どれも同じに見えていたけど、本当は違うらしいとわかった。形も、光り方も違うし、ほんの少しだけ色も違った。消えかけの虹から採ってきた色。そういう感じは同じだけれど、ぜんぶ別々の色なのだ。まんまるじゃないし、でこぼこもあるし、生きてるみたいに光っているのだ。
「ねえ、なんなの」
「あ、僕のこと?」
「違う。あなたのことじゃない────」
この、ものすごくきれいなの、なに。
揺れてる光に釘付けのまま、ただ知りたくて男に聞いた。ページをめくるくらいの間のあと、上から声が降りてくる。
「あのねー。きみも、これになれるよ」
ちょっと、真面目なふうに聞こえた。
「いい感じになると思うんだよなー。なるのか、ならないのかっていうのは、きみの気持ち次第だけどねー」
なにを、言い始めたんだこいつ。ふざけてないでこたえてほしい。
「なんなの……」
「どーかな。きみはなりたい……?」
きらり。
小さい音がした。涙がこっそり砕ける音だ。男の顔を見あげてみたら、なにも見えない。フードが隠して。
「わたしがこんなのになれるわけない」
これになるってどういうことか、あんまりわかってないけど、それでも。とにかく、とりあえずこんな自分は、こんなきれいなものにはならない。あと、そんなことはどっちでもいい。
「聞きたいんだけど。これはなんなの」
「きみなんてねー、これの中でも、かなりいいのになると思うよ」
「なに言ってんの」
「かなりいいのねー」
「あのね────」
「だからー。エモいってこと」
夜風みたいに囁いた。おなかの底がひやっと浮いた。男は、箱に蓋をした。揺れる光が閉じ込められて、あたりが急に暗くなる。
「これってねー。よく売れてるんだよ」
軽薄ではない。真面目でもない。すごく、静かな声だった。
「いっぱい仕入れなきゃなんだけどさー。仕入れ先にはわりと困らん」
「なんなの……」
「さーね。なんなんだろうね。なんかすごくよく売れるんだよね。たぶん、エモいからなんだろーね」
「なにそれ……?」
「きみさー、さっき言ったね。わたしがこんなのになれるわけない」
ふわんと、フードがなびいても、その中の顔はわからなかった。そこには、なにもないんだろうか。男は、ガム吐くみたいに言った。
「なれるよ。立派になれちゃうんだよー」
「なれない。絶対なれない……きたない」
「あー、うぬぼれちゃってるんだねー。きみはきたなくなんかないのに」
箱をローブの中にしまった。音はなんにもしなかった。裸足でなにかを踏んづけちゃった。小石か、洗濯ばさみの破片。それとも砕けた涙の欠片。
「きたなくないよー、きみなんかはね。まあいい感じにエモいんだから。確かな需要があるってわけさー。わかるでしょー?」
ね。しにたがりやさん。
「あれっ、あー僕もそれなんだった。屋号? なんか、紛らわしいねー。それにしたってきみだってさー、絶対さっさと売れちゃうよなー。だってちょうどよくエモいんだもん、いい感じだよ。ちょーいい感じ。そーゆう感じが好きなやつって、けっこういるじゃん? ちょーどいいよね」
笑ってる声が、虫食いだった。穴あきだらけの使い古しだ。まだ笑ってる。きみなんてさあ。
「きみなんてどーせそんなもんだよ。商品。装飾。エモ記号だよー」
ね。どう? なってみる?
ぐら、と身体のどこかが揺れた。
ものすごく奥のほうだと思った。だけど、意外と表面なのかも。髪とか揺れてただけかもしれない。
「ちょっと、黙って。バカにしないで」
気づいたらなにか言っていた。
わたしは。
「超絶きたないんだよ」
なに言ってるのか、不思議だと思った。ごわつくなにかが手の中にあった。黒いローブの胸のあたりを、両手でぎゅっと引っ張っていた。胸倉つかんでいるってことだ。
自分がやってることなのに、見事なくらい理解不能で。たぶん、一瞬意識とか飛んだ。勝手に我に返ったときに、自分、怒ったらしいと悟った。ひさしぶりすぎてわからなかった。手とか口とか勝手に動いて、埋まった意志を掘り返してからぶんぶん回して放り出してる。
「そんなの、わたし絶対ならない」
だって。
「超絶きたないから────」
ふーん、って言う、声が聞こえた。軽くあしらうふうだったけど、こいつ、怒ったらしいと察した。違う? ずっと怒ってたのか。やっと表に投げ出したのか。掴んだローブが離れていった。
男は手すりに両手をかけた。ぐっと力をこめて握って、青白い爪が真っ白くなる。それが。それが、ちょっとだけ。
「超絶きたないからって、きみさ。やっぱり超絶うぬぼれてるよ。そんなの全然たりない、全然。きたないの風上にも置けないね。それでも言い張りたいんならさあ、もっと、見せてみろよ。ばぁか」
返事。待たずに、ふわっと飛んだ。黒いローブが翼になった。
あっと思って手を伸ばすけど、爪の先にもかすりもしない。目の前ぜんぶが真っ黒になって、つぎの瞬間すいっと消えた。姿も、声も、消えてしまった。
しばらく、ぼんやり、まばたきしてから、下見て、上見て、なにもなかった。だから、まばたき継続してたら、うしろの窓に頭ぶつけた。あとずさってたつもりはなかった。
痛い。寒いし、裸足も痛い。なにやってたんだろって思った。窓、開けた。部屋に入った。外より空気がほわっとしてた。ベッドに顔から突っ込んだ。
ユメ。マボロシ。すぐ覚める。オムカエ。不要。今日は寝る。忘れてしまおう意味わからない。でも、ちょっと。ちょっとだけ。でもあいつ爪きれいだったな。
おしまい




