天上の夢、地上の愛
『竹取心惑ひて泣き伏せる所に寄りて、かぐや姫言ふ。
「ここにも心にもあらでかくまるに、昇らむをだに見送り給へ」と言へども、
「何しに悲しきに見送り奉らむ。我を如何にせよとて、棄てては昇り給ふぞ。具して率ておはせね」と泣きて伏せれば、御心惑ひぬ。
「文を書き置きてまからむ。恋しからむ折々、取り出でて見給へ」
とて、うち泣きて書く詞は、
「この国に生まれぬるとならば、嘆かせ奉らぬほどまで侍らで過ぎ別れぬること、返す返す本意なくこそおぼえ侍れ。脱ぎ置く衣を、形見と見給へ。月の出でたらむ夜は、見おこせ給へ。見棄て奉りてまかる、空よりも落ちぬべき心地する」
と書き置く。
天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣入れり。又、あるいは不死の薬入れり。
一人の天人言ふ。
「壺なる御薬奉れ。きたなき所のものきこしめしたれば、御心地悪しからむものぞ」
とて、持て寄りたれば、いささかなめ給ひて、少し形見とて、脱ぎ置く衣に包まむとすれば、ある天人包ませず。御衣取り出でて着せむとす。その時にかぐや姫、
「しばし待て」と言ふ。
「衣着せつる人は心異になるなりと言ふ。もの一言いひおくべき事ありけり」と言ひて文書く。
天人「遅し」と心もとながりたまふ。かぐや姫、
「もの知らぬことなのたまひそ」
とて、いみじく静かに、朝廷に御文奉り給ふ』
(かぐや姫は取り乱して泣き伏せっているおじいさんに、寄りそってこう言った。
「わたくしも心にない、悲しい思いで去っていかなくてはならないのです。せめて天に昇ってゆくところをお見送り下さいませ」
そう言われても悲しみに暮れるおじいさんは、
「どうしてこれほどの悲しみの中、お見送りなど出来ようものか。われらをこの後どうやって暮せと言い、棄ててお昇りになってしまうのじゃろう。いっそ、われらもろともにお連れ下され」
と泣き伏せったままでいるので、姫の心も乱れるばかり。
「親不幸をお許しくださいませ。せめて手紙を書き残して行きましょう。わたくしを恋しく思われる時は、折々にでも、手紙を取り出して御覧になって下さい」
そう言って、涙の中で書かれた言葉は、
「わたくしがこの地上の国で生まれたのであれば、お二人をこうも嘆かせることの無い時まで、お傍にいられたのでしょうが、そうする事も出来ずに時が来てしまい、こうしてお別れしなくてはならないのは、返す返すもわが心に沿わぬ思いで、残念なことです。せめて、ここに脱ぎ残して行く衣を我が形見と思って御覧下さい。月の出た夜は月をご覧になって下さいませ。わたくしもお二人を見棄てたまま去っていくのは、心残りのあまり、空から落ちてしまいそうな気がいたします」と書かれていた。
そして天人の一人が持っている箱には、天の羽衣が入っていた。もう一つの箱には不死の薬が入っている。一人の天人がかぐや姫に言った。
「壺のお薬をお飲み下さい。穢れた地上の食べ物を召しあがっていたのですから、御気分が悪いはずです」
そう言って薬を持って来たので、姫はほんのわずかに薬を舐めると、少し薬を形見として脱いでいく着物に包んで残しておこうとしたが、そこにいた天人が、包ませなかった。そして天の羽衣を姫に着せかけようとしたが、かぐや姫はその手を止めさせると、
「ちょっと待って」と言った。
「天の羽衣を着た人は、地上の人とは違う心になってしまうと言います。ですから衣を着る前に、一言言い残しておくべき事があるのです」
そう言って姫は手紙を書いた。天人は「おそい」といら立つが、かぐや姫は、
「思いやりのないことをおっしゃいますな」
と言って、とても静かな様子で帝に手紙を書きつづっていた)
***
人が天人の不思議な力に敵うはずもなく、姫を閉じ込めていた戸は全て勝手に開いてしまい、嫗が抱えていた姫は外へ出てしまいます。翁も嫗も、悲しむばかり。
それでも天人は容赦なく屋根の上に空飛ぶ車を寄せて、姫を連れ帰る準備を進めます。しかも穢い人間世界にどうしていつまでもいるのかと、不思議がっています。
天人達には人の心がありません。どれほど清く、気高い存在だとしても、人の情愛や悲しみを知らない者たちなのです。彼らはそれを、清く、気高いことだと信じているのです。
でも、かぐや姫は知ってしまいました。人の世の喜び、悲しみ、そんな中でこそ、温かい情愛を育む事が出来るという事を。
男性たちの執拗な求婚や、その後に姫は男の身を滅ぼすと噂される中、翁夫妻がどれほど自分を愛し、守ってくれていたかを姫は知っているはずです。だからこそ、翁たちとのお別れが、こんなにも辛いのです。
苦しみや悲しみのない天の世界の月の都は、それは夢のようなところなのでしょう。けれど姫は今、天上の清らかな夢の世界よりも、穢れていると言われても、心にしみる愛と情けを育んだ地上を恋しく思っているのです。
そして、この苦しみ、悲しみの心さえも、これから失ってしまう事を、本当に切なく思っているのです。
「せめて天に昇ってゆくところをお見送りくださいませ」かぐや姫はそういうけれど、翁は、
「われらをこののちどうして暮せとて、棄ててお昇りになるのじゃ。もろともにお連れ下され」
と、姫をかき口説きます。
姫も仕方がないとは思いながらも、悲しいことには変わりがありません。それならせめてと翁に、着物を形見と思い月夜にわたくしを偲んで欲しいと手紙を書き残すことにしました。
これが自分を愛してくれた、残された人々にとって、どれほど心の慰めになるか姫は知っているのでしょう。
姫は自分の為に用意された天人の不死の薬を、形見として脱いでいく着物に包もうとして、天人に止められてしまいます。
天人が天の羽衣を姫に着せかけようとしますが、
「羽衣を着せられた人は、地上の人の心とかわってしまうということです。人間の心持でいる間に、ひとこといいのこすことがあります」といって帝にも手紙を書きます。
しかし天人は「おそい」とイライラするばかり。姫は、
「思いやりのないことをおっしゃいますな」とたしなめます。
天人は穢れた人の世に長く居たくない様子がありありですね。確かに人の心が無いようです。自分の今後の月の都での生活よりも地上に残される人々の事を想うかぐや姫と、人の心が分からない天人と、どちらが本当に気高く、清らかな存在なのか、このシーンは私達に教えてくれます。
天人はかぐや姫が罪を犯したためにその償いとして姫は地上に置かれることとなったと言っていますが、ついに姫の罪が何であるのかは明らかにされません。
初めの方でこのお話はスタンダードな伝説の組み合わせで出来ているとお話しましたが、このくだりは「貴人の流罪」伝説のパターンをなぞっているようです。
これより後年のお話の「伊勢物語」では主人公の昔男は東に下っていますし、「源氏物語」でも源氏が須磨・明石をさすらっています。そして古くは日本の神話に遡ると、高天原での狼藉により建速須佐之男命が出雲の国に追放されています。
かぐや姫も天人達の姫に対する態度から見ても、本来は月の都でも相応の地位を持った人物であることは確かでしょう。そう言った貴人が若気の過ちで罪を犯し、償いの地で心をより成長させてもとの地に帰って行く。かぐや姫もそういう「貴種流離」と呼ばれる伝説の人物と考えて差し支えないと思います。
姫の罪状は明らかにはなっていませんが、その心の成長ははっきりと描かれています。
地上で翁に発見され僅かな間に成人したかぐや姫ですが、その精神は我儘で、自分に率直で、負けず嫌い。翁夫妻や自分の使用人たちなどにはすぐに心を開く無邪気さもあり、理屈に理屈で返すような生意気さもありました。人に敬われるべき貴人としては、明らかにまだ精神が幼稚な印象があります。いくら月の都の人には地上の人のような苦悩がないとはいえ、この幼児性は何らかの問題を引き起こしたのかもしれません。
しかし、地上での父母の情、仕える者の献身、男女の駆け引きと人の苦悩、結ばれることのない恋……。そして、避ける事の出来ない別れ。これらの感情を「地上の人」として体験した姫は、明らかにその心を大きく成長させています。翁夫妻に生意気を言い、求婚者達を振り回し、やりこめた姫の幼い姿はもうありません。親心を思い、自分を慕ってくれた人たちに感謝し、その思いを振り払ってさらなくてはならない我が身を嘆いています。
更に彼女は「きたなき所」と言われる地上を嫌って急がせる天人に、別れの悲しみの最中にも関わらず、天人に人間の思いやりまでも説いています。いかに彼女がこの地上で心を成長させたかを物語っていますね。
そして、おそらくは不遇な思いをしているのであろう作者の心情にも私は想いを馳せてしまいます。この作者はそれなりの地位に生まれ、豊富な知識と才を持ちながら、決して良い境遇には無い自分であっても、勢力に甘んじて権勢を誇る者たちよりも、立場の弱い者たちと寄り添って生きる事に誇りを感じて生きていた人なのかもしれません。
このお話はかぐや姫を通して、人の世で本当に美しい物はなんなのかを、考えさせてくれるのです。




