05香りのない花
ユディアールの琥珀色の瞳が、驚きに見開かれる。
「……おもいだした……」
悲しみの名残のように、涙が一筋頬を伝う。
「オレは……ナディル。シグがくれた名前……」
キオは目を開けて、オカリナを吹くのをやめた。
モノノリュウを見上げる。
「そうだよ、ナディル! もう君は、竜じゃないんだ! だからもう、自分のものじゃない憎しみや怒りにとらわれなくていいんだ! だって…だって君は、ずっとずっと、悲しいばっかりだったじゃないか!!」
「そうだ……悲しかった…! どうしようもなく…!」
ユディアールだったナディルは、片手で顔を覆う。
仕方なさそうに、笑った。
「ああ…目が、覚めちゃったね……こんな現実、見たくもなかったのに…」
ギジーもシュレイザもアイネクライネも、固唾を飲んで、二人のやり取りを見守る。
「ユディエル…いや、キオだっけ。もういいよ、やっちゃえよ。今、モノノリュウの主導権は、オレが握ってるから。抵抗はしないよ。このまま、オレたちを殺せば、世界の平和は、保たれるよ」
「何言ってるんだ、ナディル! そんなこと、もう、できるわけないじゃないか! 僕は戦いたくなんてないんだ! 僕は、―――……?」
ふと、キオは空を見上げる。
何か…さわさわと、とても小さなざわめきのようなものを感じた。
キオに続いて、ナディルが気付く。
場の面々が、次々に赤い空を見上げた。
さわさわさわさわさわさわ………
最初はわからなかった。
が、ようやくそれが、空に浮かぶ月からの囁きだと、ようやくキオは理解した。
キオが気付くと同時に、月がほろほろと形を崩していく。
さわさわさわさわさわさわ………
モノノリュウによって、空に浮かべられていたタマシイたちが、ひとつ、またひとつと、キオの方へと降りてきて、包み込むように、ふわふわと回り始めた。
さわさわさわさわさわさわ………
「いったい、なにが…?」
アイネクライネは、心配そうにキオの方を見ている。
すぐに、ギジーが何かに気づいた。
「! オトのセイレイ、タールトットよ! かれらのコエを、おおきくトドけて!」
ふわりと、ギジーの周囲に、緑の燐光が舞う。
それが場を包み込むと、たくさんの人の声が、その場に満ち始めた。
(なつかしい)(いまの曲)(歌だ…故郷の)(かえりたい)(子守歌だ)(おかあさん…)(聞きたい、もっと…)
「…!」
キオは瞠目する。
タマシイは、隔離された存在でも何でもなかった。
ちゃんと、歌が、届いた!
ギジーは、感極まったように、口元を抑える。
「わかります…!! わたしたちも、ユディさまのオトで、ウタで、ジガ、メバえたようなものだから…!! ウタのダイジさ、たくさんシってます…!」
キオも、本当に興奮したように頷いた。
「じゃあ、僕が、たくさん曲を吹くよ、青い空の世界の歌を! 大丈夫、今なら全部知ってるから! だって僕たち竜は、君たちタマシイに寄り添って、青い空の世界と繋がっていたんだから!」
(ほんとう?)(春だ、春の歌が聞きたい)(私は月の歌)(あたし、童謡が好き!)(ああ、知らない所に来たと思っていたのに!)(うれしい、うれしい)(赤とんぼを聞かせて?)
ふわり、ふわりとタマシイたちが塔を舞う。
シュレイザも、アイネクライネも、それどころかナディルでさえも、その夢のような光景を、驚くように見ていた。
中心には、笑顔のキオが居る。
全員、その笑顔が移ったかのように、ふっと、気が抜けたように微笑んだ。
キオがタマシイたちのリクエストに応えて、一曲、また一曲と、オカリナを吹いていく。
ナディルは、「大サービスだからね」と前置きをして、曲に合わせて歌を歌った。
アイネクライネもギジーも、ナディルが歌う歌を覚えて、一緒に合唱をする。
♪菜の花ばたけーに、入ーりー日薄れー、
見わたーす山のー端、霞ふかしー、
シュレイザは見守るだけだが、一曲が終わるたびに、満足したタマシイたちが、ふつり、ふつりと一個ずつ消えていく様子を、目に焼き付けた。
シュレイザの腕の中のトビークレイは、とても穏やかに目を閉じたままだ。
♪春風そよふーく、空ーを見ればー、
夕月かかりーて、におい淡しー、
月明かりになるくらい煌々と輝いていたタマシイたちは、曲を重ねるにつれ、いつしか歯の抜けた櫛のように、部分的に輝きが薄れていく。
(怖いな…。死ぬのよりも、誰にも知られずに終わるのが怖い)
あの時のサヤの言葉が、キオの脳裏によみがえる。
つまりは、そういうことなんだと思う。
ひとりきりで、誰も知らない場所で終わることに、彼らは狂おしいほどに怯えていただけだった。
だからこそ、キオは心を込めてオカリナを吹く。
♪里わーのほかげーも、森ーの色もー、
田中ーのこみちーを、たーどーる人もー、
忘れないよ。
ずっとずっと、覚えているよ。
君たちとの出会いと別れを。
僕が未来に持っていくよ。
♪かわずーのなくねーも、かーねーの音もー、
さながら霞めーる、朧月夜ー……
それから、どれくらいの時間を費やしただろうか。
キオの傍を漂っていた、最後の一個のタマシイが、ふつりと消え去った。
「ありがとう」と、そう添えて。
キオたちは、空の向こう側に消えたタマシイたちを見送る。
いつしか空の色は、翡翠の色合いに戻っていた。
「憎しみも、怒りも……もう消えたみたいだ」
ナディルが、胸をおさえながら、そう呟いた。
キオは微笑んで、モノノリュウを見上げる。
「じゃあ、もうこれ以上、誰も死ななくてよくなったね…」
自分でそう口にしたのに、涙が流れた。
胸ポケットをおさえる。
アイネクライネも、ギジーも、ナディルも、泣いていた。
シュレイザは静かに見守り、そしてねぎらいの言葉をかける。
「……お疲れさん」
こうして、長い長い戦いは終わり、二つあった月は、その日から一つに戻った。
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その場の誰もがくたくただった。
が、体の中に残った何かが、興奮冷めやらぬ形で、キオたちの足を立たせていた。
全員で余韻を噛み締め終わった後、最初に口を開いたのは、誰あろうナディルだった。
「さ、そろそろオレ、寝るよ。疲れちゃったしさ」
キオは驚いて、半透明のナディルの方を見る。
「ナディル。寝るって…君はどうなってしまうんだ」
ナディルは、背後のモノノリュウを見上げる。
「どうにもならないよ。竜の夢に溶け込むだけ。オレ自身としては、もう目覚めないだろうね。でも、もうそれはオレの望みなんだ。オレ、これからずっと、シグの夢を見るよ。シグと旅をした、あの日々の夢を。それが、オレの幸せだから」
ナディルは、そっと自分の胸をおさえた。
彼の背後のモノノリュウは、ゆっくりと、ニャンニャが丸まるような姿勢で、戦いの跡が残る地面に横たわっていく。
「キオ。未来は、オマエにやるよ。そうやって過去ばかり見るのは、オレの役目ってことでさ。オマエはちゃんと歩いていけよな」
「ナディル……」
複雑そうなキオの表情を、ナディルは勝ち誇ったように見る。
「あ~あ、やっと悪夢じゃない夢が見られるぜ~! オレのこと、うらやましいだろ? でもこの役目は先にオレが取ったからね、オマエにはやーらない、にゃはは~!」
「……!」
キオはたまらなくなって、ナディルの方に駆け寄り、手を掴もうとする。
半透明の彼の手は掴めずに、すり抜けるばかりだった。
ナディルは一瞬ビックリしたような顔をした後、困ったように笑って、キオに小声で耳うちする。
「これ、内緒だぜ。オレさ。全部終わったら、シグのこと……ちゃんと相棒って呼ぶ予定だったんだ」
恥ずかしそうに笑うナディルに、今度はキオが驚いた顔をする。
「何言ってるんだよナディル! 僕には二人とも、とっくの昔に相棒に見えてたのに!」
ナディルは、きょとんとした。
その後、幸せそうに笑いながら、ふわりと透けていく。
寝静まったモノノリュウに同化するように、ナディルの姿は空気の中へと溶けて行った。
「………。……おやすみ……モノノリュウ」
キオの声は、震えていた。
もう、自分は竜ではなくなったのだから、還る場所はない。
モノノリュウには、左腕がないままだ。
それが嬉しくもあり、悲しくもあった。
振り返ると、アイネクライネもギジーもシュレイザも、心配そうにキオを見ている。
キオは、気を取り直すように、精一杯の笑顔を作った。
「…さ、これからを考えないとね」
全員、ただ頷くだけだ。
ふと、キオはギジーの方を見る。
「ギジー、すごくたくさんの祝福の力を使っていたけど、体調の方は大丈夫?」
「…わかりません。このようにオオくのシュクフクをシヨウしたのは、はじめてのことです。しかし、わがチチ、ライサスライガからワけアタえられたイノチのチカラは、このテイドでヒヘイなどしないとシンじております」
「…おい。さっき錆の精霊の力を使用していなかったか?」
シュレイザの問いに、ギジーはぺたりと自分の体を手の平でおさえる。
「はい。かつてわたしたちは、とてもヨワいセイメイタイでした。ですから、チカラのヨワいとされているセイレイさまのシュクフクもアタえられたようです。サビのセイレイ、ザリエイラのソンザイは、もうこのセカイからはキえてしまっているようにカンじます。わたしたちのカラダにノコったこのシュクフクは、のこりが、のようなものなのでしょう」
「すごいな、じゃあ、全ての精霊の力を使えるってわけなのか」
感心したようにキオが言うと、ギジーは真剣に頷いた。
「おそらくは。ですから、わたしたちのチカラは、ユディさまのメイレイいがいでツカってはならないと、わがチチにきつくイわれております。コジンでフルっていいチカラではないから、だそうです」
「あ……、ごめんギジー。実は僕の本当の名前は…」
キオは、今までのことを話し始めた。
自分はモノノリュウの左腕だったこと。
リルハープが命を賭けて人間にしてくれたこと。
この顔は、材料に使った姉のものであること。
何の罪もない故郷の人々を材料に受肉していること。
「きっと僕は頭の片隅でそれを覚えていて、その罪悪感もあって、人助けみたいなことをやり続けて来たんじゃないかな」
「それは違うだろう」
キオの言葉に、即座にシュレイザが反論してきて、思わず驚いた顔を向ける。
「テメエは終始やりたいことしかやってねエよ。責任感や義務でいくら飾り付けようが。身を削るような行為は長続きするもんじゃねエ。テメエは自分の中の『好き』に従っただけだ。おれが保証する」
「シュレイザ……。…ありがとう」
キオは俯く。
その視線の先で、アイネクライネがこぶしを握っているのが見えた。
そういえば、先程から彼女は一言も口をきいていない。
どうしたのかと、口を開きかけた時。
「なるほどの。そういう流れじゃったか」
急に女性の声が割り込んできた。
見ると、塔を登ってきたばかりのパメルクルスが居る。
「! パメさん!」
シュレイザは一瞬警戒態勢になったが、キオと面識がある相手とわかり、緊張を緩めた。
パメルクルスは、シャンと鈴のついた杖を鳴らしながら、ゆったりとやってくる。
命の大賢者はとても感慨深い顔で、眠りについたモノノリュウに目を向けた。
「空が晴れたからの。すべてが終わったとすぐにわかったよ。立ち聞きしたことを許しておくれ。じゃが……ようやってくれた。本当に……。まさか、我が友をもう一度この目で見られるとは。滅ぼされてしまうのを覚悟しておったからの。感謝に堪えんという言葉では足りんわい」
パメルクルスは、何かを我慢するように、口を真一文字に結んで、しばらくの時間を耐えた。
それから、キオに目を向ける。
「そして、おぬしが我が友の一部じゃったとはな。確かに少し周囲から浮くような生命反応じゃとは思っておったが、全く気付かんかったわい」
「ああ、そういえば前々から時々、浮世離れした感じとか言われてきました。そのせいだったのかもしれませんね。そういった部分に敏感な人は感じられたのかも」
キオは一人で納得する。
パメルクルスは、じっくりと場の面々に目を向けた。
シュレイザが抱き上げている、トビークレイの遺体で目を止める。
「じゃが、おぬしらのほうに犠牲が出たことを、心から悔やむよ。……」
誰も、何も返事ができない。
キオも、胸ポケットをそっとおさえた。
ぐっと我慢する。
なるべく考えないようにしていたが、やはりどうしても、叫びだしたいくらいの感情が出てきそうになる。
やがてパメルクルスは、何かを決意したように顔を上げた。
「青い空の世界の話じゃがな。英雄譚については、キノシタがかなり熱く語っておったのを覚えておる。げーむ、や、しょうせつ、といったものでは、おなじみのようでな」
「えっ、パメさん、小説も知らないんですか? …あ、そうか、千年間、一人で過ごしてきたから、文化の発展も知らないんでしたっけ」
「うむうむ。わしの頃は実話の口伝が主じゃな。ニャンニャという生き物の話も、リルハープに聞いて初めて知ったからの。どうやらわしの知る頃より、生態系も変わっておるようじゃ。ひょっとしたら、ウチュウセンからの零れ種でもあったのかもしれんな」
「娯楽もなくずっと一人か。おれなら気が狂うような話だ」
思わず言うシュレイザに、パメルクルスは軽く笑った。
「ほっほ。わしは命の精霊の祝福を受けておるからの。気が狂う、などという不健全な状態にはならんのじゃよ」
「そういうものなんですか……」
驚いて言うキオに、パメルクルスは首を振った。
「いや、話を戻そう。つまりわしが言いたいのはな。おぬしらには、頑張った『ご褒美』があってしかるべきじゃと、そう言いたいわけじゃ。ドラゴンを退け、世界に平和をもたらした勇者には、王から褒美を賜るのが一般的だそうじゃからな」
「そこに一般性があるとは思ってもみませんでした…!?」
「ホウビ…なにでしょう?」
ギジーが、パメルクルスとキオを見比べながら、そっと聞いてきた。
「うむうむ。知っての通り、精霊の祝福を受けた者は、なんとなくこうできる、と思ったことができる。そして、祝福の量が多ければ多いほど、可能な範囲は広くなる。―――褒美とは、わしの命じゃ」
「急に重たいなどうした」
シュレイザが戸惑っている。
「これこれ最後まで聞かんか。わしはもう、十分に生きた。生き過ぎたレベルじゃ。本懐は果たしてもろうたわけじゃし、思い残すことはない。つまり…わしの命を、死した者へと移そう」
「! コイツが生き返るのか!」
シュレイザが、トビークレイを抱き上げる手の力を込める。
「最後まで聞けと言うとる! 人間は無理じゃ。器が大きすぎるでな、わしの命の量では足りん。感覚的なものじゃから説明は難しいが、そういうものなんじゃと思ってくれい」
そう言って、パメルクルスは、キオの胸ポケットに目を向けた。
ドクン、とキオの胸が高鳴る。
「まさか……」
「うむうむ。わしが時を止められた時間を考えると、残りの命はあと三十年程度じゃろうがな。妖精の命に比べれば、ちっぽけな時間じゃが、その程度の寿命で良ければリルハープを生き返してやれる」
思わず大声を出してしまいそうで、キオはごくんとつばを無理やり飲み込んだ。
シュレイザは、難しい顔をする。
「……そうか。二人は無理か……」
シュレイザは、何らかの感慨を持って、トビークレイの安らかな死に顔を見る。
「……??」
キオもアイネクライネも、シュレイザの様子に不思議そうにした。
接点はないものと思っていたが、二人は知り合いだったのだろうか?
シュレイザは、塔の床に散らばったリコリネの全身鎧の破片を拾い上げると、そっとトビークレイに持たせた。
「悪いヤツじゃなかった。立派な墓を作ってやらねエとな……」
キオはその行動にますますハテナを浮かべる。
それを見たアイネクライネは、思わず、とばかりに口を挟んだ。
「……シュレイザ殿。ひょっとして、全身鎧の中身は男だと思っていたのですか?」
「誰だテメエは」
「まったく信じられません! 何年を共に過ごしてきたと思っているのですか! そもそも、あなたが船に乗せて来たミレアノットこそ、私の前の代のリコリネなんですよ! 全く気付かなかったのですか!?」
「ええ!? そうだったんだ!!?」
それに驚いたのはキオだった。
「道理でどこかで会ったかもと思った!」
「主はいいのです。あなたが鈍いのは六代にわたって語り継がれてきていますからね。今更です」
「ぐ…!? と、というかアイネ、もうリコリネの振りをしなくてもいいんだよ。君は、君でいいんだ」
「………」
キオの言葉に、アイネクライネは、先程と同じように拳を握りしめた。
「……それでは、もうあなたと一緒に居る理由が……」
「こりゃこりゃ。取り込み中のところを悪いが、死後は精霊様に導かれる可能性を考えると、時間が経つにつれて成功率が下がる気がするでな。とっとと始めるぞ」
「先に言え!」
パメルクルスの言葉を聞き、シュレイザが慌てて道を譲るようにキオの隣からどいた。
アイネクライネもギジーも、さっと一歩下がる。
キオも、急いで胸ポケットから物言わぬリルハープを取り出した。
パメルクルスは、目を閉ざしたリルハープを見て、少しの間、とても痛ましい顔をした。
すぐに、シャン、と鈴のついた杖を突き鳴らす。
それだけで、場の空気が変わったように感じた。
「パメさん…本当にいいんですか? せっかく自由になれるのに」
キオが、念を押すように問いかける。
パメルクルスは、シャン、シャン、と一定のリズムで杖を鳴らしながら、キオに目を向けた。
「構わぬよ。ともに世界の美しさを眺めたいと思った連中は、千年も前に置いてきてしもうたでな。それよりも、若人に未来を託す方が性に合うておるし、まあぶっちゃけた話、そのほうが楽じゃ」
「…そう……ですか…」
「そんな顔をするでない。おぬしらに重荷を背負わせたいわけではないからの。気楽に、笑って見送ってくれればそれでいいんじゃよ。リコリネや、その腕の腫れを治してやれんのは心残りじゃがな。もう無理はするでないぞ」
「パメ殿…。お心遣い、痛み入ります。このような言い方は変でしょうが…、どうか、お気をつけて」
アイネクライネも、複雑な顔でパメルクルスを見ている。
「うむうむ。心配せずとも、わしらはあのタマシイたちとは違い、道に迷うことはあるまい。ユディ…ではなく、キオか。キオや、これで我々は、自分たちが暮らす場所以外に、国があり、世界があるとわかった。今までは他の存在がなかったがゆえに、敢えて呼称をつける必要はなかったが…。大賢者の最後の仕事として、ここを『翠天の世界』とでも名付けておこうかの」
「翠天の世界…。綺麗で、良い名前ですね」
キオは、思わず微笑んで空を見上げる。
シャン、シャン、と刻まれる鈴音が早くなってきた。
キオは気づく。
これは、鼓動の音のようだと。
ギジーもシュレイザもアイネクライネも、固唾をのんで見守っている。
「では、そろそろお別れじゃな。散り際としては申し分ない。とくと見よ、パメルクルス最後の艶姿! 命の精霊、コリネイリの祝福を―――!」
サア、と淡い薄紅色の風が吹き渡る。
命の大賢者は、杖先をキオの手の上の妖精に当て、高らかに声を発した。
「<命移し(みことうつし)の儀>」
サアアアアッ―――
溢れるエネルギーの光は、花弁の形をして、周囲に舞い散る。
「……っ!?」
キオたちの視界は、花弁の群れで覆われた。
香りのない花の舞。
そして、長くも短くもない時間の後。
さらりと視界が晴れる。
そこには、ふらりとよろめく大賢者の姿。
彼女は当たり前のように、眠りにつくモノノリュウの傍らに寄り掛かっていた。
その表情に、もはや生気はない。
すぐに、時の精霊によって止められていた時間が一気に押し寄せる。
パ、と大賢者は風化して粉となった。
一連の滅びが、なぜかキオたちには、目が離せないほどに美しいと感じた。
あまりに美しくて、涙が出る。
それが、千年を孤独に生き続けた大賢者の、幸せな最期だった。




