下の段
はらひらと、お庭の桜の花弁が散っておりますの。承香殿の女御様となられた姫様。今日のお召し物は、お気に入りの、表がしろ、裏が赤花色の桜の襲目。身を少しばかり動かせば、お召し物に焚きこまれた芳しい薫香が、ふわりと立ちあがりましてよ。
「桜もそろそろ終わり、まあ、それは橘の花ね、どうしたの?季節にはまだ早くてよ」
可愛らしい声で、御簾を潜り入ってきたわたくしを迎えて下さいます。手には早咲きの橘のひと枝。兄が南に早馬を出し手に入れた代物。
ここは……、 歌の一つも添えてお出ししたいところですが、そこはぐっと我慢のしどころですの。何しろわたくしは。
字を読むのが苦手、漢詩等は真っ事知らぬ世界、辛うじて礼儀作法を身に着けており、和歌と書と琴の嗜みは少しばかりある、という残念なお馬鹿さんを装っているのですから。
「兄上が届けて下さいました」
そう言いつつ、こちらに、と手を差し出す女房の一人に、そのままに手渡します。
「いい香り、素敵だわ、誰か。この花で一句読みなさい」
女御様がそう仰られます。いきなりでございますの?とサワサワと密やかな話し声が、部屋いっぱいに広がります。その様な中、わたくしは、文机に向かうと、硯箱の蓋を開ました。そして……しゅ、しゅ、しゅ、と墨を擦り始めます。
すりすり、すりすり……無言で墨を擦ります。以前のわたくしならば即座に、一首吟じていたでしょう、そして女御様から、直々なお褒めのお言葉を頂いて、得意になっていたでしょう。
そして、与えられた房に戻れば、出過ぎた真似が気に食わぬ者達が、ヒソヒソ、ヒソヒソと始めるのです。以前の同僚達はこの場に居ないとしても、わたくしの知らぬ顔も沢山お仕えされています。
気をつけねばなりません。目立たぬ様に、密やかに。ここ一番!という時に、わたくしの才知を出せば良いのですから……。以前に比べて格段に大人しくなったわたくしに、女御様はクスリと笑われております。
……、あれからよくよく考えました。このまま兄の世話になりながら、夫を迎える。今は独身の兄、しかし先には、きっと北の方を迎える事になるでしょう。
そうなればわたくしは、少々立場が狭くなる様な、それに気が付き慌てて、夫の屋敷に逃げる様に出ていく……。そんな先が見えましたの。
何だか面白くありませんでした。それにわたくしは、何も出来ずに逃げ出した事に、悔しく情けない思いでいっぱいでした。なので……、
渋面をする兄を説き伏せて、再び女房勤めを決意をしたわたくし。先様もここに来るよりは、婚礼が済んだあとあちらに向かいなさいと、過分なお心配りをして下さいました。
「右近、貴方も一句、どう?」
皆の喧騒を聞きつつ、一人静に墨をするわたくしに、悪戯っぽくお声をかけ下さる承香殿の女御様。
「いえ、女御様。わたくしは歌は苦手ですので、皆様のお歌を記させて頂きますわ」
墨の準備を終えると、女の童に申し付けて、紙箱を持ってこさせます。螺鈿細工の美しい蓋を開ければ、中には色とりどりの鳥の子紙が入っています。
「ふふふ、好きにしやれ、ほんに綺麗な橘だこと。何時までも手元に置いておきたいわ、今年の桜は散りました。来年また新たに、花を咲かせねばなりませんものね」
意味深な事を話され、クスクスとお笑いになられる、女御様。
帝には数多なる女御達がいらっしゃいます。ここは後宮、女の園。目立つ花は早々に毟られ、外に放り出される世界。
そう……、目立ってはいけないのです。華やかな事がお好きでいらした、梅坪の女御様、何やら物の怪にとり憑かれ、奇っ怪な行動をされておられるとか……等とやんごとないお話が、ここそこに広まっております。
そんな事は御座いません!と否定すればする程、おかしなお話が広まって行くのです。その内に……あのお方も消えていかれるやもしれません。
花器に活けられた橘を脇息にもたれゆるりと見ながら、女御様が話してこられます。
「右近、早咲きもよろしいけれど、じっくり育った花を見るのも良いですわね」
女の童が二人、そろりそろりと、高坏に盛られた干菓子と、あまずらの湯を運んで参りました。どうぞ女御さま、と差し出されたそれを白い指先で、ひとつおつまみになられ、お口にお運びになられました。
「そう、右近、今度宿下がりをします、父上がお庭の、蛍が飛び交う池にて、管弦の宴を催すのです。帝もご一緒よ、うふふ、お前も来なさい」
テキパキと話される女御様。
「はい、かしこまりました」
わたくしはその場で、お受けいたしました。心に何やら、フツフツと湧いてきますの。
『たちばなの……』
声が上がりましたわ、急いでわたくしは、お歌に合わせて薄い緑色の紙を選びます。
ときとき、胸が高鳴ります。管弦の宴は蛍の飛び交う頃……、時間が御座います。この前女御様から密かに贈られた夏の布地で、装束をつくりましょう。
そのおつもりだったのか、透き通った紗の布地は、しろ、合わせて青い色の布、卯の花の襲目になる様にですわね。
フフフ、ほほほほ、懐かしいお館には、置いてけぼりを喰らったかつての同僚が、しみったれて居残っているはずですわ。
わたくしは禁中に仕える女房。阿呆のふりをしておりますが、帝の覚えもめでたいのですよの。立ち居振る舞いに気をつけ、敵を作らぬのもそれもまたよし、そなたの父上や兄と同じだ。賢いと、恐れ多いお言葉を頂いた事が御座います。
たちばなの、白きかほりに……
「右近、ちゃんと書き留めなさい」
「はい、申し訳御座いません」
乳母殿が物思いにふけっていたわたくしに、喝を入れました。素直に謝ると、筆に墨を含ませ、わたくしはそれをゆるゆると、書き留めていきます。
失敗をしたわたくしを、右近だから仕方がないわね、と声が上がりましたわ。それに少しばかりバツが悪そうな顔を作ると、そちらに向けました。それに合わせて恥ずかしそうな笑顔を作り、目礼を致します。
しっかりなさいな、と優しく声をかけられます。やれやれ、ふりをするのも疲れますわ。一首二首位なら、聞くだけで、諳んじる事が出来ますけど。
その様な事を、今はする時ではありませんものね。声に合わせて筆を進めます。
色とりどり装束の女房達、シュッシュッと時折音立てる衣擦れ。御簾をちらりちらりと揺らして、柔らかい春風が入ってきます。
ごう……気まぐれに大きく一風、吹き込む外の空気、捲れ上がる御簾、それに混じるひとひらの桜。
ふわりふわり、くるくると蝶々の様に、突風に驚いたあと、乱れた髪をなおしている女房達を、くすくすと笑うかの様に……。
部屋の中を、はらひら、はらひらと……花弁は舞い飛んでおりました。
終わり。