後篇 婚約者は、最後まで私を見なかった
続いて後篇をお届けいたします。
お楽しみいただければ幸いです。
夏の夕暮れ。
王宮の大広間は、今宵だけは若き貴族たちのために開かれていた。
黄金の燭台に灯る炎は無数のシャンデリアに反射し、磨き上げられた床へ星空のような光を散らす。天井まで届く窓からは、夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。
壁際には季節の花々が飾られ、会場は初夏らしい爽やかな彩りに包まれている。
デビュタントを目前に控えた若き令息令嬢たちのために設けられた、王太子主催の交流夜会である。
緊張した面持ちで挨拶を交わす者。
久しぶりの再会を喜ぶ者。
色鮮やかなドレスと礼装が行き交い、楽団が奏でる穏やかな旋律に乗って、笑い声が大広間へゆるやかに広がっていた。
壁際で、侯爵令嬢クラリス・アルヴィンは静かにグラスを傾けていた。
――そう見える少女の正体は、双子の弟ノアである。
半年も続けた女装は、今では侍女たちから所作を褒められるほどになっていた。
最初は屈辱以外の何物でもなかったが、人間とは慣れるものである。
今ではすっかり馴染んでしまい、このまま癖になったらどうしよう…というのが最近の密かな悩みの種である。
(これで最後だ……)
(今日こそ全部終わるんだ)
胸の奥に安堵と、これから起こるであろう最後の騒動への不安が広がる。
その時だった――
「クラリス・アルヴィン! ようやく見つけたぞ。こんなところにいたのか」
聞き慣れた声に、ノアは小さく目を閉じた。
(来たか――)
レオンハルト・ヴァルディス。
その腕には、一人の男爵令嬢が当然のようにぶら下がっていた。
周囲の視線が集まる。
レオンハルトは満足そうに顎を上げた。
「皆も聞いてくれ――」
あたかも芸術俳優の如き振る舞いで、高らかに宣言する。
「私は今日こそ、この忌々しい婚約を破棄する」
ざわめきが広がる。
男爵令嬢は勝ち誇ったようにレオンハルトへ身を寄せた。
「この女は執着心が強く、無理矢理婚約を迫ったうえに、嫉妬で私を縛りつけようとする」
「可愛げもなく、愛想もなく、無能で妻としての資質に欠ける」
「私はこの二年間、ずっと耐えてきたのだ」
侮蔑の言葉は止まらない――
「耐えてきた」と言うが、半年間、人目を忍んで一方的にクラリスに浴びせ続けていたものが、人目を気にせず発せられているに過ぎなかった。
周囲の空気が一瞬だけ固まったが、レオンハルトは当然それを賞賛の沈黙だと解釈した。
ノアは静かにグラスを侍従へ預けた。
「婚約の解消でしたら、望むところです」
いたずらに感情はのせない。しかし、小さな笑みを浮かべた穏やかな返答だった。
だが、それが気に入らなかったらしい。
「白々しい強がりを言うな! 今さら取り繕っても遅いぞ!」
レオンハルトが一歩踏み出した瞬間。
「その辺りで十分だろう」
静かな声が、広間の熱を一瞬で切り裂いた。
「わが国を代表する名家が、言い争いをするものではない」
王太子アレクシスである。
会場は一斉に静まり返った。
レオンハルトは慌てて礼を取る。
けれど、いくら見た目を取り繕っても、形だけの中身の伴わない礼であることなど見るものが見れば容易に感じ取れた。
「これは両家の問題です」
それにもかかわらず、分を弁えないまま強弁を続ける。
「王家とは関係ありません」
アレクシスは穏やかに笑った。
「そうかな――」
ゆっくりと、クラリスの方に歩み寄ると、まるでレオンハルトからの視線を遮るかのように、クラリスの前に立つ。
「アルヴィン侯爵家の祖母は王族だ。
――貴族であるならば、その意味が分からないわけではあるまい」
その動きに、誰も口を挟めなかった。
「クラリスは私にとって大切な親族であり、幼い頃から知る者でもある」
アレクシスは、レオンハルトに興味は無いとばかりに、優雅な手つきで、クラリスへ手を伸ばす。
「無体な扱いを受けているなら、事情を聞く権利くらいあると思うが?」
返す言葉はなかった。
「別室へ――」
その一言で全員が移動することになった。
この時、アレクシスがクラリスの手を取らずエスコートしなかった、その理由は、彼だけが知っていた。
◇
応接室の扉が音もなく開く。侍従に伴われて、レオンハルトが入室した。
そこは王宮の奥まった一室で、外の喧騒が嘘のように遠い。
濃い色調の木製家具が整然と並び、壁には王家の紋章を刻んだ織物が掛けられている。
磨き上げられたテーブルには余計な装飾はなく、ただ置かれた燭台の炎だけが、ゆらぎながら影を落としていた。
窓は重い帳が引かれ、光は最小限に抑えられている。
明るさよりも、沈黙と格式が支配する空間だった。
誰もが自然と声を潜めるのは、この部屋が「話し合いの場」であると同時に、「判断が下される場」であることを知っているからだった。
そこにはすでに両家当主、夫人、祖父母まで揃っていた。
レオンハルトは、なぜこれほど迅速に全員が揃ったのか疑問に思う余裕もなかった。
ただ、家族が向ける冷ややかな視線に、僅かに動揺していた。
全員が席につくのを確認して、重い沈黙を破るように、王太子が口を開く。
「……まず、確認したいのは、本日をもって二人の婚約は解消される予定だった」
レオンハルトは顔を上げた。
「――両家合意の上でね」
「私は聞いておりません!」
「知らないとは言わせないよ。これまで何度も、クラリス嬢との関係を見直すよう両親から諭されていたはずだ」
そうだろう、とばかりに両家を見やると、少し青ざめた顔で父親たちが頷いている。
「この半年間、君の彼女に対する態度は一向に改まることなく、学園内での素行についても目に余るものがあった」
王太子の口から、なぜそのような言葉が発せられるのか、レオンハルトは全く理解できなかった。
ただ、部屋の雰囲気から自分が被告席に立たされているのは、何となく感じ取れた。
「悪いのはクラリスです! 私には一切の責任はありません!」
「彼女が言うことは嘘ばかり――」
王太子は静かに遮った。
「証拠は? 彼女がどのような嘘を言ったか知らないが、それが嘘だと君が言う根拠はあるのかい――」
「……クラリスが何を言おうと、それが事実だという証拠にはならないはずです!」
レオンハルトは論点をずらして言い切った。クラリスを見やり、涼しい顔を取り繕う。
「彼女はぼくが真実の愛を見つけたことで、嫉妬に狂っているだけです!」
その言葉だけが、やけに響いた。
「そうなのかい……」
冷徹な視線をレオンハルトにむけて、関心のないような口調でアレクシスが問う。
「では、本人に聞くとしようか」
そう言って表情を崩して微笑むと、王太子は扉へ視線を向けた。
扉が静かに開く。
白いドレスの少女が一人、ゆっくりと入室した。
誰もが息をのむ。
そこにはもう一人のクラリスが立っていた。
金の髪は夜会の燭光を受けて柔らかく煌めき、青い瞳は揺らぐことなくまっすぐ前を見据えている。
貴族のお手本とも言うべき一分の乱れもない所作は、先ほどまでの喧騒が嘘のような静けさを周囲に生んでいた。
つい先ほどまで“令嬢クラリス”として見えていた人物と並ぶと、寸分違わぬ姿でありながら――存在感だけが、明らかに異なっていた。
レオンハルトの顔から、音もなく血の気が引いていく。
それが誰なのかを、ようやく理解はした。
――が、そのことが自分にどういう影響を与えるのかが分からず、混乱が増す一方だった。
「……は?」
隣にいたノアが静かに髪飾りを外す。
長い金髪が外れ、短い髪が現れた。
「婚約式の顔合わせ以来でしょうか? ノア・アルヴィンとしてお会いするのは――」
ハンカチでゴシゴシと口紅をぬぐいながら、ノアはレオンハルトから視線を外さない。
「学科も違うし、学園で顔を合わすこともないので、覚えてなどいないでしょうね。クラリスの双子の弟です」
室内は静まり返った。誰一人として言葉を発さない。
事前に、入れ替わりの件は話には聞いていた。
しかし、姉弟の母と祖母以外は二人を並べて見るのは、実は今回が初めてなのである。
実際にその目で見ると、確かに一瞥で違いを見抜くことはできないだろう。
だが、半年間間近で接していて気がつけないかと言うと、是とは言い難いかもしれない。
レオンハルトは何度も何度も二人を交互に見る。
「そんな……そんな馬鹿な……」
王太子が書類の束をドサリと机の上に置いた。
「これは、ここ半年間の君たちの交流記録だよ」
そのうちの一枚を手に取ってひらひらと振ってみせる。
「護衛、侍女、執事、双方家族の証言付き。
そして何より、そこにいるノア君本人による実に克明な報告書だ」
この半年は各人常に耳を研ぎ澄まし、必要に応じて集音器の使用も許可した。
それまでと違って、二人でいるときの会話は、かなりの精度で聞き取ることができていたのだ――
そういうことを、口の端をあげ、にやりと笑いながら王太子は言った。
「ちなみに、交流の場における入れ替わりは両家合意の上、王家も了承済みだ。
そして、クラリス嬢に危害が及ぶ恐れを鑑み、婚約解消までの半年間の猶予期間中は、他所でも君の相手はノア君が務めることも合意の上だ」
呆然と座るだけのレオンハルトを、冷ややかに見据えると、
「君は先ほどから証拠などないと言っているが、もう証拠は十分すぎるほど積み上げられている」
アレクシスは何の気負いもなく断言した。
「あと、必要なのは断罪の時間のみなんだよ。
――もちろん、被告人席に座るのは君だけだよ」
レオンハルトは両手で頭を抱え、目を伏せて左右に何度も首を振る。
「私を騙したんだな!」
「もちろん両家には、固く口止めをしたよ、固くね」
「そんなの卑怯だ! 私は被害者だ――」
常日頃の余裕を浮かべた態度をかなぐり捨てて、レオンハルトが言い募る。
「被害者?」
初めて王太子の笑みが消えた。
「君は自分が何の被害者だというのかな?」
「……の、望みもしない婚約者を押し付けられた」
チラリと、クラリスと男爵令嬢を見比べて主張するレオンハルト。
「贔屓目に言っても、それはお互い様だろう。
それに、君は貴族同士の婚約の何たるかを全く理解していないようだね」
アレクシスは呆れたような口調で嗜める。
「そういうことは、せめて婚約者としての責務を果たしてから言うべきだね」
一瞬口ごもるレオンハルトだったが、自己弁護はともかくとして、クラリスを責める言葉だけは、この期に及んでも能弁に操ることができるようだ。
「…わ、私はきちんとしておりました。そのことについてはむしろクラリスを責めるべきでしょう」
「では聞くが――」
「婚約者へ贈るべきドレスは?」
「それは………」
「誕生日の贈り物は?」
「うっ………」
「夜会でのエスコートは?」
「…………」
「そして――」
王太子の視線が、ゆっくりと男爵令嬢へ向いた。
「報告書によるとその令嬢とは、ずいぶん親密にしていたようだが――」
「婚約者がありながら他の女性と親密に交わることを何と言うか知っているかい?」
レオンハルトは、数度口を開け閉めしたが、答えることはできなかった。
「不貞だよ――」
短い一言が部屋に落ちた。
その時、公爵が深く頭を下げる。
「申し開きもございません」
侯爵は静かに目を閉じた。
二人は学生時代からの悪友だった。仲間とつるみ、後先も考えずに楽しい時間を過ごしていた。
だからこそ、子ども同士なら、きっとうまくいくと安易に考えていた。
しかし、今になってようやく思い当たった。自分たちが奔放に振る舞ったあとの後始末はいったい誰がしていたのか……
だから当然のように、こういう結果が待っていたのだろう――
王太子は静かに告げる。
「たとえ形式とはいえ、この婚約には王家も仲立ちに入っていた。
よって王家の権限により、婚約は正式に解消することとする」
アレクシスは「話を聞こう」とクラリス本人を呼び出しながら、結局最後までクラリスに証言を求めなかった。
ひとつは、その必要はないと判断したからだ――証拠なら十分過ぎるほど揃っている。
そして何より、クラリス自身がレオンハルトに今さら言葉を費やすような無駄を好まないだろうと結論づけていたからだ。
レオンハルトは魂の抜けたかのように力なく座り込んでいた。
クラリスは、冷めた視線をレオンハルトに向けて考察する。
この男は、最後まで、本当に最後まで――クラリス本人を見るのではなく、自分の理想と評価だけを見ていたのだろう。
さらには、彼の頭の中で作り上げた理想と現実との差異に失望と優越意識をこじらせた。
そして、婚約者を“対等な人間”として扱うという発想そのものが、彼には最初から存在していなかったのだろう。
クラリスは黙然と席を立った。
そんな哀れな男に最後の一瞥を残して、視線を外した――
◇
一年後。
王都に、一つの知らせが駆け巡った。
王太子アレクシス殿下――婚約者決定。
その名は、
クラリス・アルヴィン侯爵令嬢。
誰もが驚き、公爵家だけが言葉を失った。しかし、ある程度事情に精通しているものなら、やはりかと頷いたことだろう。
もともと彼女は、王太子妃候補の第一と目されていた存在である。
それが突如として公爵家との縁談に組み込まれたことで、多くの者が首を傾げていた。
やがて学園での公爵家三男の醜聞が明るみに出ると、王太子妃候補未選出の噂と繋がり、憶測は一気に広がった。
――そして、その憶測に拍車をかけたのが、王宮にて密かに行われていた“行儀見習い”という名目の上で、短期滞在を繰り返していたご令嬢達の存在。
それがいつから始まっていたのかを、正確に知る者は少ない。
ただ確かなのは、そこに名を連ねていたうちの一人がクラリス・アルヴィンであったという事実だけである。
――知らぬは両家ばかりなり、とはよく言ったものだ。
その頃、王宮の庭園ではクラリスが穏やかに花を眺めていた。
初夏の陽光を受けて若葉は瑞々しく輝き、花壇には白や薄桃色の薔薇が咲き誇っていた。
緩やかな風が花々の香りを運び、噴水の水面には木漏れ日がきらきらと砕け散る。
一年前には気づく余裕もなかった穏やかな景色が、今日は不思議なほど鮮やかに映っていた。
「緊張していますか?」
隣へ王太子が並ぶ。いつもの余裕を湛えた笑みはそのままだが、ほんの僅か控えめな気がする。
この人も少なからず緊張しているのかもしれない。
「……ええ、少しだけ」
クラリスは行儀見習いという名目で、この一年半、王宮で王太子妃教育を受けていた。
一年半積み重ねてきたから、自信はある。
でも今日はその総仕上げ――
これから王族や重臣たちへ正式に婚約者として紹介される。
初めて王太子の隣に正式な立場で立つのだから、緊張もする。
「安心してください」
口調は穏やかだが、目には少しからかうような色が混じっている。
「いざとなったら代役を呼び出しますから」
冗談めいた一言に、クラリスは思わず笑みをこぼした。
その笑顔を見た王太子もまた静かに微笑む。
もう、大丈夫。
向けられた視線は評価でも理想でもなく、未来を共に歩む対等な人間として、確かに自分へ向けられていた。
穏やかな風が庭を渡る。
半年もの間、誰にも気づかれないよう姉を守り続けた弟。
遠回りをした侯爵令嬢。
そして静かに見守っていた王家。
それぞれの思いが巡り巡って辿り着いた未来は、今度こそ誰も取り違えることのない、確かな縁となって結ばれた。
お読みいただきありがとうございました。
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作者の励みになります。
追記
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