前篇 婚約者は、私を見ていなかった
4000〜5000字程度のサクサク読める短編を目指してかきはじめました。
結果は……見てのとおりです。笑ってください。
出来うれば、本作品を読んでも笑っていてくださることを願います……
丁寧に磨き上げられ曇り一つない姿見の前に立つ少女は、どこから見ても誰が見ても侯爵令嬢クラリス・アルヴィンだった。
肩まで流れる淡い金髪に、若葉を映したような瑞々しい緑の瞳。
淡い蒼色のドレスを纏った姿は、その所作まで完璧で、幼い頃から礼儀作法を叩き込まれた貴族令嬢そのものである。
――ただし、その中身だけは違う。
「姉さん。今ならまだ引き返せるよ? 本当にこのままやる気なの……」
鏡の中の少女が困ったように笑う。
「絶対にばれるって――」
窓際に置かれた白木細工のティーテーブルで、クラリスはいつも通り優雅に紅茶を楽しんでいた。
目の前で弟が人生最大の試練に直面していることなど、まるで気にも留めていないように。
「大丈夫よ。ノアは知らないでしょうけれど、あの方は私の顔など見ていません」
「そんな馬鹿な――」
「本当です。以前から何度もそう言っているでしょう」
ノアは返す言葉を失った。
双子の弟ノアは鏡を見つめたまま、ため息をつく。
「でも僕、男なんだけど……」
クラリスは紅茶を一口含み、少しだけ眉を寄せた。
「もちろん、存じてますわ」
「身長も声も違う」
「私は女性としては少し低い声ですし、あなたは男性としては少し高い声です。
身長もそんなに言うほど違いはないでしょう?」
「問題しかないよ……」
身長については、本人も常々気にしている。 触れたくはなかったが、背に腹は代えられない。
クラリスはカップを置き、小さく笑った。
「だったら、試してみましょう」
その一言が、半年にわたる奇妙な"交代"の始まりだった。
◇
二年前――
十三歳になったクラリスは、公爵家三男レオンハルトとの婚約を結んだ。
王家が仲立ちを務めた名家同士の婚約。
もっとも、その始まりは政治ではない。
侯爵と公爵、二人の父親は学園時代からの悪友だった。
「子どもが生まれたら結婚させよう」
学園をさぼってたまり場にしていた酒場で、酔った勢いで交わした約束。
発端は、ただそれだけの話だった。
初顔合わせの日。
まずは両家が顔を合わせ、互いの紹介を済ませた。
「せっかくだ。庭でも見て回ろう」
公爵の提案で、一行は屋敷の庭へ出る。
初夏の陽光に照らされた庭園は若葉の香りに満ち、小道の先には白いガゼボが静かに佇んでいた。
ガゼボまで歩いたところで、両家の父親は顔を見合わせる。
「若い者同士で話してきなさい」
笑いながらそう言い残し、二人は連れ立って去っていった。
綺麗な所作で席につくと、クラリスは丁寧に頭を下げた。
「お互い、まだ知らないことばかりですもの。 今日は少しでもお話ができればと思っています」
しかし返ってきた言葉は、予想外だった。
「ふん、思っていたより地味だな、華やかさのかけらもない」
顔を上げると、レオンハルトは椅子にもたれたままこちらを眺めている。
「まあいい。君の望み通り婚約は決まったことだ。
ただし、余計な期待はするな」
クラリスは瞬きを一つした。
失礼な人だ――
その程度の感想だった。
――この時は、まだ。
◇
月に一度ずつ――侯爵家と公爵家を交互に訪れ、庭園を歩き、お茶を飲み、将来を見据えて親交を深める。
建前としては、そのための交流の時間だった。
しかしてその実態は、両家の大人が人払いをして席を外した瞬間から始まる。
「君はいつも表情が硬い。もっと愛想よくできないのか」
レオンハルトは侯爵家に来ていようと公爵家に招いていようと態度を変えない。
他人の目がなくなった瞬間、完璧な貴公子の仮面を外し、決まって小さくため息をつくのだ。
「もっと華やかに愛らしく笑うことはできないのか」
「そんな貧相な格好ではみっともなくて連れ歩くことはできない」
「その程度の知識ではでは伯爵夫人は務まらないぞ」
返事をしようとしても、一切聞いていない。
予定の時間中、言いたいことだけ言い、紅茶を飲み、茶菓子まできれいに平らげて帰っていく。
三度目にはクラリスは理解した。
この人は会話をする意思も能力もない。
相手が誰であろうと関係なく、自分の独り言を一方的にまくし立てたいだけなのだ。
◇
学園へ入学してから状況はさらに悪くなった。
「レオンハルト様は今日も令嬢に囲まれていたそうです」
「男爵家のお嬢様と密着して話していましたわ。」
そんな噂が毎日のように耳へ入る。
嫉妬はなかった。 アレは最初から、そういう対象ですらない。
令嬢たちにもてはやされるのも、公爵令息という立場と、外面を取り繕う器用さゆえだろう。
物好きな方もいるものですわ。
そんな感想は、やがて一つの結論へ変わった。
この婚約は、解消するべきだ。
欲しい者がいるのなら、熨斗でも何でもつけて差し上げたい。
クラリスは何度も父へ婚約解消を願い出た。
「父様、この婚約を続ける理由がありません、私ももうんざりです」
「そう言わず、もう少し様子を見よう」
「そう言って、もう二年目です」
「男なら誰にだってある。そういう年頃なんだよ」
「ノアも同じ年ですけど、まったくそういうことはありませんわ」
父は困ったように笑うだけだった。
悪友との約束を、自分から壊したくないのだ。
父を責めたいわけではない。
それは父にとって大切なものなのだろうから――
でも……それならば私は、その友情よりも軽い存在なのだろうか。
そんな考えが頭をよぎるたび、クラリスはそっと胸の奥へ押し込めた。
◇
そして、ある交流の日。
「もう絶対に嫌です。顔も見たくありません!」
クラリスが真顔で宣言すると、部屋の空気が止まった。
化粧部屋に訪れ、今日の衣装の相談をしていた母と祖母が顔を見合わせる。
祖母が静かに口を開いた。
「ならば、どうするのです?」
「ノアを呼んでください」
「ノアを?」
化粧部屋に突然呼び出されたノアは、姉の顔を見るなり断言した。
「嫌です」
「……まだ何も言っていませんわよ」
「何か分からないけど、本能が叫んでいます」
さすがは双子である。長年姉の可愛らしい横暴に振り回されてきた弟の防衛本能が危険を回避しょうとしている。
「大したことじゃないわ。私の代わりに交流会でお茶を飲んでいれば終了の簡単なお仕事です」
何が起ころうとしているのか、理由のわからなかった母と祖母も口々に同調する。
母は苦笑した。
「それは無理でしょう」
祖母もゆっくり首を横に振る。
「相手にも失礼だわ」
ノアは間髪入れずに断言した。
「絶対ばれるって」
クラリスは首をかしげた。
何が問題なのだろう。
確かに普通に考えれば無理だと思う。けれどもアレは普通ではない
二年間、向けられてきたのは視線ではなく、一方通行の評価による罵倒ばかりだった。
会話をした記憶も、意思疎通が成立した記憶もない。
ならば入れ替わったところで気付かれる可能性などありはしないのではないか。
試す価値は十分ある。
いや、ここで引き下がっては、もう誰にも解ってもらえない。
クラリスは小さく息を吐き、妥協案を示した。
「では、まずは一回試してみませんか」
母と祖母は顔を見合わせた。
「……試すだけなら」
「すぐに分かるでしょうしね」
「ぼくの意思は無視ですか………」
遠い目をして、虚空に向けて何やら呟くノア。
クラリスは穏やかに微笑むと、いそいそとノアに似合いそうな服を選び始めた。
本人は気づいていないが、それは自分に似合う服を選ぶのと、ほとんど変わらない作業だった。
その微笑みを見たノアは悟る。
……ああ、もう逃げられない。
試すだけで終わる気など、最初からないな――と。
◇
交流会は何事もなく終わった。当然のことだが、ばれることなどなかった。
屋敷へやってきたレオンハルトは椅子へ座るなり言った。
「今日もいつも通り愛想の欠片もないな」
ノアは返事をしない。
「わざわざ来てやった私に、少しは感謝の気持ちはないのか」
「私を求める令嬢は幾らでもいる」
「婚約者の立場に執着しているなら、それを態度にして表したまえ」
三十分後――
「今日は帰る」
そう言って扉に向かうと待機していた侍女ににこやかな対応をして、通りかかった母と祖母に礼儀正しく暇を告げて去っていった。
馬車が門を出る音が聞こえるまで、笑顔のまま固まっていたノアは引き攣りながら口を開いた。
「……姉さん」
「何でしょう?」
にっこり笑った表情のまま、クラリスが応える。
「あいつ……」
「はい」
「想像してたより十倍は酷い」
クラリスは静かに目を伏せた。
この程度で、解ったつもりになってもらってもねぇ…と冷めた視線で見下ろす自分と、ようやく足がかりができたと安堵する自分が同居していた。
整理できない複雑な思いは押し隠して、単純な事実を告げる。
「あら、いつもなら二時間よ」
「…………」
ようやくノアは理解した。
姉の我慢が足りないのではない。
むしろ、よく心を折られずに耐えてきたものだ。
二人きりにならないよう壁際で控えている侍女たちに聞こえないように声量を抑え、笑顔で罵倒し続ける、あの男は異常としか言いようがない。
二年間、本当にこれを受け続けた姉の忍耐強さに、ノアは心底戦慄した。
◇
翌月の交流会。
その次の交流会。
さらにその次の交流会も。
そして今回の交流会も――
ノアは女装して向かった。
わざと服の趣味を変えてみた。
利き手を変えてみた。
化粧をせずに行ってみた。
男性向けの本を読んでみても――
レオンハルトは一度も気づかない。
そもそも、こちらを見ていないのだから当然だった。
ただ、目ざとく見つけた姉だけは白い目を向けてきたが……
ある日など、わざと横に並んだノアを一瞥し、
「今日は背が高いな」
と眉をひそめた。
ノアが内心で身構えると、次の瞬間には勝手に納得したように鼻を鳴らす。
「かかとの高い靴など履くな。横に立たれると目障りだ」
それだけ言い残して帰っていった。
帰宅したノアはソファへ倒れ込む。
「……姉さん」
ティーテーブルでくつろいでいたクラリスは、姉の姿のままソファでだらしなく伸びているノアに非難のこもった視線を向ける。
「……何かあったの?」
「僕、今後はヒールの高い靴を履かないでいいらしい」
クラリスは一瞬キョトンとした表情をしたが、やがて笑いをこらえきれず、小さく肩を震わせた。
その笑顔を見るのは、久しぶりだった。
この二年、すました顔か難しい顔をしている姉しか見たことがなかった。
ノアは複雑な顔をしながらも、少しだけ安心する。
姉がそうやって笑えるなら――
もう少しだけ、この役を続けてもいいかもしれない。
ノアがそんな姉孝行のことを考えていた頃。
王宮では王太子が、アルヴィン家の祖母を通じて提出された報告書を読み終え、静かに口元を上げていた。
「半年か……悪くない」
報告書によると、ヴァルディス家とアルヴィン家、両家で話し合いが持たれ、ある決定が合意されたそうだ。その期限は半年間。
「……せっかく王家が動ける理由を用意してくれたのだ。有効利用させてもらおう」
そう独りごちると、側近たちにある指示を告げる。
その決定が、若き貴族たちの運命を大きく変えることになるとは、まだ誰も知らなかった。
後篇のが分量多いですが、引き続き宜しくお願いします。
お読みいただきありがとうございました。
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