4~エピローグ
4
祭事から二日が経ち昼過ぎにフィグネリアとクロードは皇帝の執務室の隣の部屋に呼び出された。
広い長卓に沿って並べられた三十の席は空でイーゴルとタラスだけが座っている。
「ようやく来たか! タラス、早く話せ。俺の妹と義弟を殺しかけた上に祭事の場まで穢し不届きな奴は誰だっ! 俺自ら出向いてこらしめてやる」
部屋に入るや否やイーゴルが立ち上がり気炎を吐く。
席につきながらフィグネリアは頭に血が上りきっている兄の様子にサンドラにいてほしいと思った。しかし彼女は祭事の血の穢れを償い清めるためあと三日は日が昇って沈むまで神殿に籠もらなければならずここにはいない。
とにかく自分とタラスで諫めるしかないだろう。すでに及び腰のクロードは当てにはならない。
「皇帝陛下、事は単純ではありません。あの襲撃者の身元はアドロフ候と繋がっています」
祖父の名にイーゴルが一瞬呆けたような顔をした。その様子を見ながら最悪だ、とフィグネリアは歯噛みする。
「馬鹿な! お爺さまがなぜ孫を殺そうとするのだ!」
「フィグネリア様はアドロフ候の孫ではありません」
「例え血が繋がってなかろうが、母上が娘と認めたなら孫同然ではないかっ!!」
怒りに目を充血させイーゴルが叩いた樫の机がひび割れて、フィグネリアの隣のクロードがびくりと肩を跳ね上げる。
「タラス殿、確証などはあるのですか?」
わずか二日で突き止められるということに怪しさを感じ静かに問うとタラスは躊躇うように口を開く。
「大変失礼ながら五年前よりフィグネリア様に仕掛けられた暗殺について独自に調査をさせていただいていました。ある程度はどのルートで暗殺の指令が回っているかは把握していますのでそれを踏まえ調査した上の結論です。それと他にルドクシア、カルヴァナ、そして私の実家のラピナの三候も」
九候の半数近くだ。あまりの事の大きさに目眩さえ覚える。あげくにタラスの父親が関わっているなど。
イーゴルは目を白黒させてタラスとフィグネリアを見ていた。
「五年も前から、だと。俺は妹がそんな目にあっていると知らずにいたのか。フィグネリア! なぜ俺に言わなかった。タラスもだ!」
「兄上、申し訳ありません。心配をかけせたくなかったのです」
だからずっと隠していたのになぜまずタラスは自分にだけに告げてくれなかったのだろうか。
情報を秘匿していたことはアドロフ候の存在の大きさと実家のこともあるからだと推測できるが、なにも兄に直接言うことではないか。
フィグネリアは批難の目をタラスに向ける。
「フィグネリア様、もはやこれ以上あなたおひとりで全てを背負うのは無理です。私も実家に戻らず近衛を続けながらあなたのお力になれるよう尽力してきましたが父を御するのも難しくなってきました」
タラスは視線をそらさず受け止めて真っ直ぐに見返してくる。
そこには自分が正しいことをしているという強い確信があってフィグネリアは唇を引き結んだ。
「お前達、俺の頭でも分かるように説明しろ。なぜフィグネリアが命を狙わなければならんのだ」
イーゴルが苛立たしげにふたりを見る。理解の範疇を超す事態に怒りは幾分おさまっているようだった。
「皇帝陛下、人は欲深いものです。九候を中心に疑うことを知らず無知で御しやすい陛下を上手く利用し利権を貪ろうと目論む者が大勢います。それに目を光らせ牽制しているフィグネリア様が彼らにとっては邪魔で仕方ないのです」
「タラス殿! 陛下に対してなんということをおっしゃるのですか!」
あまりにも直接的すぎる言い方にフィグネリアは立ち上がった。
「かまわん。俺のせいか。俺が帝位に相応しい才覚を持ち合わせていないからフィグネリアにそんな苦労をかけさせているのか」
「違います! 兄上に責などありません! 悪いのは全て欲深い愚か者共です」
嫌だ。いつも剛気な兄がこんなにも悲しそうな顔をしているのは見たくない。
「長い間すまなかった。頭を冷やしてくる」
イーゴルがいつになく落胆してそっとフィグネリアの頭を撫でて退出する。
追いたくてもその大きな背はそれを拒んでいる。
「……タラス殿、あなたという人は」
半ば殺意さえ込めて睨みつけるとタラスは不快そうに眉根を寄せた。
「フィグネリア様のやり方は皇帝陛下のためにはなりません。いままであなたのそのお気持ちを尊重しこらえていましたが、私はあのままの陛下に膝を折る気にはなれません。他にも九候と繋がりがなく蔑ろにされている臣下も同じ思いを抱いているはずです」
「これ以上兄上を侮辱するなっ!!」
あまりの言いように堪えきれずフィグネリアはタラスの胸ぐらを掴み怒鳴りつける。
「フィグ、落ち着いて」
おろおろとやりとりを見ていたクロードがフィグネリアをタラスから引きはがす。
「お前は黙っていろっ!」
「俺が口出しできるような問題じゃないのは分かってます。でも今ここで言い争ってたって解決することでもないでしょう」
クロードがそう諫めている間にタラスが部屋の出口に向けて歩き出す。
「フィグネリア様、あなたは分かっているはずです。イーゴル殿下は帝位につくにあまりにも無知で善良すぎると」
反論は出来なかった。
だからこそ自分は産まれたのだ。それは分かっている。それでも兄を侮辱されるのは我慢ならない。
「私も熱くなりすぎました。しばし失礼いたします」
タラスの背が扉の向こうに消える。
フィグネリアは自分を押さえつけているクロードを振り払い、椅子の背もたれを殴りつけた。
「フィグ!」
鈍い音と赤くなったフィグネリアの拳にクロードがその腕を取って無理矢理椅子に座らせる。
「タラス殿は言い過ぎだと思いますよ。でも、ある程度は間違いないってフィグも分かってますよね。全部自分で背負い込もうとしないで義兄上と少し話し合ってみたらどうですか?」
腫れた手を撫でながらクロードが言うのにフィグネリアは下唇を噛んだ。
自分が背負うのは当然のことで兄は今まで通りでいい。だから話し合うことなんてない。
そんな考えを読み取ったのかクロードが苦笑して隣の席に座る。
「長年の思い込みって難しいですね。フィグは義兄上にとって自分の代わりに政務をしてくれる人、じゃなくて大事な妹でしょう。だからさっきもあんなに怒ってたし、自分が知らないところでフィグが辛い目にあっていて悲しかった。逆の立場だったら分かるでしょう」
上がりきった熱を冷ますように優しく、丁寧にクロードが言い聞かせるのにフィグネリアは小さくうなずく。
それでも全部自分でしなくてはという考えは自分の中に根を張り半ば同化しているようで引きはがせない。それがなければ存在意義をなくしてしまうようで。
「駄目だ。分かっているが、それでも駄目なんだ」
「急には無理でも一個ずつ考えてみたらどうですか。今まで言いたくても言えなかったこととか、我慢してたこととか。義兄上に直接言う練習代わりに俺が聞きますよ」
優しい琥珀色の瞳を見つめながらフィグネリアは緩やかに感情を穏やかにしていく。
「……考えてみる。お前は、ないのか? 妖精達がいるとはいえお前はずっとひとりだっただろう」
優しく慈しんでくる家族がいた自分よりずっと彼の方が孤独だったのになぜこんなにも穏やかに愛を語り孤独を癒やす術を知っているのだろう。
「愛し合える人が欲しかった、かな。母がいつも言っていたから。どんなに辛く苦しくても愛し合える人がひとりでもいるのなら大丈夫だって。それを今俺は心の底から実感中です」
からかうような口調で言ってクロードがフィグネリアの額に口づけを落とす。
それだけで嘘のように幸せを感じることが出来た。
「お前がいてくれてよかった」
ほんのふたつき前にはこんな気持ちは想像もつかなかった。他の誰でもなくクロードが夫でよかったと心の底から思う。
「俺もです。問題山積みだけど一緒に頑張りますよ。で、まず何からしますか?」
「それだな。アドロフ候が動いたというの解せない。信心深い方で祭事に穢れを持ち込むような真似はしないだろう。ルドクシア、カルヴァナの両家ならやりかねんがな」
あの二家は金に汚く散々やり合ったのでこれまでの暗殺の九割はそこかと思っていたが。
「ああ、そういえば塩業所の件は確か所長がルドクシア候のはとこの娘を後妻に迎えてましたね。繋がりが薄くてもそこから入り込んでくるってすごいですよね」
「そういうものだ。ラピナ候はまるで分からんな。衝突はこれまでもない、というのはタラス殿が間に入っていたからか。……タラス殿に握っている情報を全て見せてもらうしかないか」
先ほど怒鳴りつけたのは半分ほど反省しているが、やはり兄に対する暴言は許せずにいるので素直に頼みにいけそうにない。
それに父親との関係も不明瞭で安易に頼るのも危険そうだ。
「タラス殿のところには俺が行ってみましょうか。フィグより甘く見られてるはずですから向こうも気が緩むでしょうし。とりあえず任せてくれませんか?」
クロードをひとりで行動させるのは正直不安が大きい。
フィグネリアが返事に迷っているうちにクロードは席を立ってすでにタラスの元へ行こうとしていた。
「ま、待て。途中まで一緒に行く」
引き留めるとクロードは困ったように首をかしげる。
「俺、信用ないですか?」
「刺客の狙いは私でもうお前を利用する気もないだろうが、用心はするんだぞ。なにかあったら気にせず妖精を使え。いいな」
「一番気をつけないといけないのはフィグだと思いますけど」
呆れたように言われて私は大丈夫だとフィグネリアは言い切った。それにクロードは何か言いかけたようだったが、その代わり苦笑を浮かべたのだった。
***
任せてくれ、と大見得をきったもののクロードはやりかけの仕事を片付けに執務室に戻るフィグネリアと別れてから自分の足音にすらびくびくしていた。
この荷馬車が三台は並んで通れそうな広すぎる廊下をひとりで歩くのは思った以上に寂しい。人とすれ違ったらそれはそれで身構えてしまうが。
「ひとりって恐すぎる……。この状況でひとりになれるフィグはすごいよな」
あまりの心細さについ妖精に向けて話しかけてしまう。
だが考えてみればフィグネリアは少なくとも五年以上もこの心細さに堪えていたのだ。これからはこんな思いをさせないよう頑張らねば。
クロードは自分に気合いを入れて王宮内にあるタラスの私室へと向かう。そしてようやくついた、と少しだけ気を緩め、控えめにノックをするときには顔が強張っていた。
誰何されて名乗るとどうぞと返ってきてそろりと扉を開ける。それと共に凍てついた風が肌を刺した。
軍舎のものよりこぢんまりしたその部屋の奥の全開にした窓辺にタラスは立っている。
(頭は冷えるだろうけどこれじゃ風邪引くぞ)
温暖なハンライダ出身のクロードにとってはこの寒さは辛い。
「フィグネリア様はどうされたのですか。まさかおひとりにさせているのですか」
クロードひとりと気づくとタラスが責め立てるように言った。
「お互い信頼し合っての分散です。さっきのあれでフィグもタラス殿とは顔を合わしづらいっていうので俺が代わりに暗殺のことについて聞きに来ました」
少し意地の悪い対抗心をちらつかせながらクロードは答える。
タラスは敵には見えない。フィグネリアのことを本当に心配しているのはよく分かる。そしてその裏にあるのは紛れもない愛だろう。
「……暗殺の件に関してでしたら仔細にまとめた文書があります」
タラスが寝台の横に置かれた机の引き出しを開け、仕掛けをしているのか少し時間をかけて紙の束を取り出した。
しかし彼はなかなかクロードにそれを渡そうとはしなかった。
「わずかふた月足らずであなたはあの方の信頼を得たのですね」
鉛色をした目に嫉妬と羨望を滲ませてタラスが見下ろしてくる。
「信頼されてるかどうかはまだどうにも。俺はあなたほど優秀じゃないですからね。でも、さっきはちょっと言い過ぎでしたよ。俺よりずっと長くフィグを見ていたあなたなら彼女が何を一番大事にしていたかはよく分かっているでしょう」
タラスの言い分は確かに間違ってはいなかった。だがフィグネリアのためを思えばあんな手順も踏まず乱暴に皇帝に事実を突きつけるような真似は酷いと思った。
「私はもう我慢がならなかったのです。どれほどフィグネリア様がおひとりでご苦労なさっているかを知りもせずに平和に過ごしているイーゴル殿下を見るたびにずっと苛立ちを覚えていました。知っていますか、フィグネリア様は十二の頃まで髪を背まで伸ばしていたのですよ。皇后陛下と同じ色をしていて自分の髪は好きだからと」
淡々とタラスは語る。
「先帝が亡くなられてすぐにフィグネリア様は王宮内で刺客に襲われました。私も近くにいたので命は助かりましたが、刺客に後ろ髪を掴まれた時にやむなく切ったたのです。命を狙われたあげくに大切に伸ばされていた髪を自ら切り落とすことになり目に涙をためていました。それでも泣かずにあの方はイーゴル殿下にはなにも言うなとおっしゃったのです」
そんなフィグネリアの様子は克明に想像が出来た。ひとりで堪えようとするまだ年若い少女がいたなら護ってやらなければと思うだろう。
「前から短くしてみたかったとフィグネリア様がついた嘘をイーゴル殿下は信じてよく似合うと笑っていました。その後も、襲撃を受けて傷を作り、毒を飲まされ伏せってもフィグネリア様は嘘を突き通していました。殿下はそんなことも知らずに重臣達の言葉の裏を読むことも出来ず政務はフィグネリア様なしでは立ち行かない。それでもイーゴル殿下は九候の長であるアドロフ家の血を引くからというだけで帝位についているのです」
長々と語るタラスの苛立ちも分からないでもないと思った。
愛しい少女が傷つき孤独に苦悩する傍らでその元凶が毎日側で悩みらしい悩みもなく脳天気に暮らしているのだ。文句のひとつも言いたくなるだろう。
「あなたはフィグを皇帝にしたいんですか?」
「したいのではありません。元よりあの方がなるべきなのです」
確固たる意志を持った言葉にクロードは不快感を覚えた。
「そうやって重荷を背負わそうとするからフィグは愛されていても孤独なんですよ」
自分が思っているよりずっとフィグネリアは有能で強い人なのだろうけど、あまりにも抱えているものは大きすぎる。
いつまでもひとりで支えられるものではないとタラスも分かっているだろうに。
「……そうですね。あなたがいてくれさえすれば、あの方は孤独ではないでしょう。帝位とて」
タラスが言いかけたところでドアが叩かれる。外では火急の用件だと訴えかける声があった。
入室の許可があってすぐに部屋に入ってきた兵士の顔は青ざめていた。
「タラス様、ラピナ候、父君がお亡くなりになりました!」
クロードは驚きに目を見開きながらタラスを見る。そしてその顔には驚愕も悲しみもなく二度驚いた。
クロードの感情に呼応するように凍てついた風が部屋を吹き抜ける。
「フィグネリア様のことをお願いします。あなたさえいればなにもかもが上手くいくはずです」
意味深な言葉を残してタラスはその日実家へと戻った。
後になってラピナ候が毒殺であったことが知らされる。ただそれは始まりに過ぎなかった。
翌日にはルドクシア候が毒殺され、さらに次の日にはカルヴァナ候が毒を盛られて意識不明の重体。
そうしてさらにそれより五日後には第二皇女のリリアがアドロフ候が毒殺されかけたという知らせを持って帰ってきたのだった。
***
リリアが知らせを持ってきたのは夜も遅くのことだった。雪深くなる前にひ孫の姿を見せに夫婦で訪れていたその翌日にアドロフ候は常備薬を服用したところで倒れたらしい。
幸い薬に詳しいリリアが近くにいて毒の量も致死量ではなく今は命に別状はないそうだ。
ただ問題は送りつけられた書状である。
――愚帝を玉座に座らせ、賢帝を影に貶めただけに留まらずその命を奪わんとした罪は死に値する。
アドロフ候はこれを目にして憤慨し、リリアは仕方なしに一服盛って安静にさせてこちらへ戻って来たということだ。
時間も時間でリリアも馬で二日かけて急いできたので疲れているということで今日はそこまででそれぞれ寝室に下がった。
「タラス殿は帰すべきではなかったな」
クロードとふたりきりになって寝台に腰を下ろしたフィグネリアは前髪をかき上げながら吐き出す。
父親の死に対する反応をクロードから聞いたときにおかしいと思ったものの、確たる理由もなく当主が急死したのにその嫡男を留めておくわけにもいかなかった。
しかし各暗殺の起きた日はそれぞれこの帝都から祭事の翌日に出立してそこに到着する予定日であるとなるともはや誰が動いたかは想像に足る。
「ここまでしてタラス殿はフィグを帝位につけたいんですね」
「そう単純に捉えるな。兄上に説明しているのをお前も聞いていただろう。兄上は九候家の権威の象徴でもあるんだ。それをこんな乱暴な手段で退位させようとすれば九候を敵に回すことになって内乱になる」
九候家の持つ兵団を併せれば国の兵のおよそ半分になる。もう残り半分が決起すれば国はふたつに分かれて酷い惨状になるだろう。
むしろそれが狙いなのかもしれない。
「でも、タラス殿は俺がいれば全て上手くいくって言ってましたし、あの人は本気でフィグを帝位につけたいと思ってるんですよ」
問題はそこだ。
クロードとの結婚を誰が最初に画策したのかいまだにたどり着けていない。タラスであるなら結婚してすぐにクロードを不審がっていたのはただの芝居であったのだろうか。
「何かがあるはずだ。お前が選定される理由は神の楽士であるからしかないだろうが、本当に誰も知らないのか?」
「母は父にも伝えてないですし、もう何代も前から隠してるって言ってたから絶対に知ることなんてあり得ないですよ。聖典にもそういうことは一切書かれてないみたいですし」
「誰かに見られたということはないのか? 私にはあっさり見つかっていただろう」
「俺、ここに来るまではほとんどひとりだったんです。いつも笛を吹いていたし、妖精達も不満をため込んで人前でああいうあからさまなことはしませんでした」
聞けば聞くほど分からなくなってくる。
アドロフ候以外の毒を盛られた三人に関してはいまだに詳細は分からず、毒が同じ物かというのも分からない。調査をするにしても自分が今まで比較的信用していた内務官は九候に反発的な者たちばかりで首謀者の可能性もある。
「手詰まりだな。兄上にこれ以上落ち込んでいてもらいたくはないのだがな」
フィグネリアはリリアからの知らせを聞いたイーゴルの様子を思い出して胸を詰まらせる。
アドロフ候に送りつけられた書状の内容を聞くなり退位して自分に譲位すると言い出したが、それでは解決にならないと分かると自分では何も出来ないとひたすら落ち込むばかりだった。
「……人間悩むことは必要だと思いますけどね」
クロードの言うことはもっともだがとわずかにフィグネリアは顔をうつむき気味で傾ける。
「ほら、また自分だけ悩もうとしてますよ」
その顔をクロードが両手で挟んであげさせて額を合わせる。
「……ならお前も一緒に悩め。この状況をどう考える?」
軽く額を押し返すとクロードは真剣な面持ちになる。
「フィグを皇帝にしたい、と思ってる人が多いのは確かだと思いますよ。血統主義の中で血筋じゃなくて実力で人を判断するフィグは後ろ盾のない人間からみれば理想的な君主です。それに権力握ってる連中が血統と同じようにご立派ならまだしも腐ってる。対立の構図はできあがってるわけで……」
「撒かれた油に火を注ぐぐらい簡単に大火事が起こせるな。だがそれで誰が得をする? ロートムの国力でもってもディシベリアを二分する内乱を治めて新たに治世を布くというのは難しい。兵器の開発を進めているようだが、それ以外に戦の支度をしている様子はないぞ」
「なら俺とか? 妖精使えるところ見せびらかせればこの国の人って敬ってくれそうですし。でも俺はそういうのは好きじゃないですね」
クロードが冗談めかして笑う一方でフィグネリアは真剣に考え込む。
「それは、考えないでもなかったがやはり前提としてお前の力を知っている必要があるな」
「ああ、そうですね。結局またそこに戻って来ちゃいましたね……」
言いながらクロードが窓の方を見てふらりとそちらへ向かう。そして分厚いカーテンを開け、窓まで開いてしまう。
冷たすぎる空気が部屋に入ってきて燭台や暖炉の火が震える。
「フィグ、雪が降ってますよ。雪の妖精って静かなのに自己主張激しいなあ」
「意味が分からんぞ。妖精の声は聞こえないのだろう」
「聞こえないんですけどなんていうのかな。風の妖精みたいにがやがやした気配じゃなくて石の妖精みたいに寡黙だけど薔薇の妖精みたいに鮮やかなんです」
「やはり分からんな。雪の妖精達もお前の笛を聞きたがっているのか?」
フィグネリアは理解するのを諦めてそう問うとクロードがうなずいて笛を吹き始める。
高く澄んだ音が淡々と流れ出る。かすかな変化で音は閃いてまた沈む。色に例えるなら銀色のような音。
フィグネリアは彼が感じている雪の妖精の気配というのはこういうことかもしれないと耳を傾けながら瞳を伏せて刻をさかのぼる。
あれは父が没して最初の雪が降り積もる静かな夜だった。暖炉の灯だけでは心細く燭台の火をつけたまま寝台にもぐりこんだ。周囲にわだかまる影に誰かが息を潜めていて自分を殺しに出て来るのではないかと思うと恐かった。
「……雪の降る夜には誰かに側にいて欲しかったな」
「それは今まで我慢してたことですか?」
雪が手を振るようにふわりと舞うのを見届けたクロードが窓を閉めて隣に座る。
「ああ。ひとりでいるのが恐いと言える年でもなかったし、兄上やリリアを巻き込むわけにもいかないので我慢するしかなかった。直に慣れたがな」
「俺が一緒だからそれは解決ですね」
躊躇いがちにフィグネリアはクロードに身を寄せる。
自分からこうして誰かに寄り添うことなんてあっただろうか。
「これなら春まで飽きずにすみそうですね」
口づけられて瞳を閉じると背中が寝台に沈んだ。
「待て。ここまでだ」
「……すいません。分かったから顔つねらないで下さい。よし、早く解決しましょう。普通の新婚生活が送れるように!」
力のいれどころが別だろうにと思いながらもフィグネリアは小さく笑う。
「なら、今夜はさっさと寝るぞ。明日はリリアから仔細を聞かないとならないからな」
だが燭台の火を消しても眠れなかった。
フィグネリアは穏やかに眠るクロードの暖炉の灯を吸い込んだような色の髪を見つめながら考える。
内乱が起きて得をするのは、クロード。
妖精を従えられるというのは内乱を治めるのに十分な切り札になり得る。神の楽士であることを現時点で分かっているのは自分と彼自身。
「もうひとり、いるか」
つぶやいてフィグネリアは小さく頭をふりまさかと薄笑いを浮かべる。
だがそれを前提に考えるといくらか説明がつく。それなら目的は何か。さらに背後にロートムがいるのかと考えるとそこでつまづく。
ぐるぐるとひとりで考えていたフィグネリアは寒いのかにじり寄ってくるクロードに身を寄せてこの先は明日にしようと目を閉じた。
***
翌日、イーゴルの寝室の隣にある部屋へと兄妹達は次女以外は伴侶と共に集まっていた。
「いやだわ。イーゴルお兄様がまだ悩んでいるなんて大雪になるわ」
「リリア、兄上に失礼だぞ」
ソファーにクロードと並んで座るフィグネリアは眉をひそめて最後に入ってきた妹をたしなめる。
「いや、いいんだフィグネリア。俺は、俺はつくづく自分が情けないぞっ!!」
落ち込んでいても声だけはいつも通りのイーゴルが叫んで紅茶のカップがびりびりと揺れる。
「ほら、お茶が零れるからおとなしくてて。もう、落ち込んでるならもっとそれらしく静かにしてなさい」
「す、すま、むぐ」
サンドラに言われて大声で謝ろうとしてしまったイーゴルが自分で自分の口を押さえて背を丸める。
「フィグ、みんな義兄上に対していつもこうなんですか?」
「お姉様がイーゴルお兄様に甘いだけですのよ。いろいろと丈夫なのだから多少は雑に扱ってくださってもかまいませんわよ」
クロードが声を潜めて聞いてきたが、リリアには聞こえていたようで答えながら彼の隣に座った。
またイーゴルに対して非礼なことをとフィグネリアはリリアをねめつけるが妹はすまし顔で無視してくれた。
「おう、そうだぞ。俺は丈夫だから遠慮はするな」
声は控えめにイーゴルが大きく胸を張るのにクロードは愛想笑いを浮かべる。
「……タラス殿の気持ちは分からないでもないですね。った」
「リリア、余計なことはいいから薬に関して詳しく教えてくれ」
フィグネリアは夫の足を踏んで本題へと斬り込む。
「毒の混ざっていた薬はベッドサイドの鍵つきの引き出しに入れているお爺様の常備薬ですわ。毒、というよりファラント草の配分が通常より多かったみたいですわ。適量なら心臓の薬になるものですわね。服用しすぎると高熱のあとに心臓発作を起こして亡くなってしまう」
「……全員同一のものだろうな。アドロフ候の薬はいつ新しい物を手に入れたんだ?」
「お爺様は昨日神殿に行って神官長様からいつものように五日分貰って引き出しへしまったそうよ。だれかが鍵を持っていったと怒っていらっしゃったわ」
話を聞いていたクロードがすいません、と口を挟む。
「この国では神殿で薬を貰うんですか?」
「神官はお前の国でいうところの医者というものでもある。人の命に関わることは神殿の領分だからな。薬に関してはリリアのように神殿より許可をいただいている薬師もいるが、近くに神殿がない場所がほとんどだ」
「じゃあ、神官がわざと配分を変えた可能性もあるんですよね」
クロードの何気ない発言にその場の空気が凍りついた。
「クロードお義兄様、そういうことは思っていてもこの国では絶対に口になさってはいけませんわ。大神子様を通じて大神官長様からお言葉があるまでは神殿を穢した罪に問われますから」
「……はあ、すごいですね。なんていうかすいません」
クロードが驚きと戸惑いで目を瞬かせて頭を下げる。
神官は神の側にいる者として同じように尊ばなければならない。
これはナルフィス教でも同じだが、ディシベリアとは受け止め方が少し違うのだろう。ささいな感覚の違いはお互い言われなければ気づかないことなので仕方ない。
「こういうことは経験して覚えていくしかないからな。次からは気をつけておけ。リリア、お前が直接帰ってきた理由は?」
「叔父様が挙兵もやむなしって手がつけられない状態だったのでわたくしがお姉様から直接話を聞いてくるまで待って貰ってますの。わたくしが一番中立でしょう」
「……バラノフ伯爵夫人の立場なら中立というのは少し違うだろう」
だからこそ半ば夫のパラノフ伯を人質に取る形でリリアを送り出したようにも思えるが。
「それは後ろ盾のないお姉様につくよりお爺様につく方がいいのだけど、旦那様はわたくしの信じるものに正直でいなさいって。ああ、わたくしあの方にときめきすぎて寿命が縮まりそうですわ」
心臓を押さえておおげさによろめいてみせるリリアにフィグネリアは疲れたため息を吐き出した。
「夫婦仲良くて羨ましいですね。それで伯爵夫人は誰の味方なんですか」
姉妹に挟まれて肩身が狭そうにしているクロードが羨ましそうに言ってリリアを見る。
「もちろんお姉様ですわよ」
躊躇いない妹の返答は不意打ちだった。
「そうだ! こんなことで家族の結束は崩れんぞ!!」
フィグネリアが何か言う前にイーゴルが立ち上がり叫んでカップから紅茶が飛び出した。
「で、どうするの?」
サンドラが無邪気な笑顔で聞くとイーゴルが一瞬だけ考えてフィグネリアに視線を向ける。
「フィグネリアっ、頼りない兄で本当にすまん! 俺は、俺は自分が情けないっ!!」
今度は床に崩れ落ち拳を振り上げた兄をフィグネリアは慌てて止める。
床に穴を開けられたら無駄な出費がと頭の片隅でそんなことを考えている自分を恨めしく思いながら。
「兄上、私のことはお気になさらず。タラス殿の元へ行ってきます。リリアは後の事を頼んだ。クロード、行くぞ!」
フィグネリアは一礼してクロードを引き連れて部屋を出る。
このまま額をつきあわせていても解決しないとなると本人に直接聞くしかないだろう。
「本当に家族仲いいですね。フィグが頑張りすぎるのも分かります。ところで、結局毒に関しては……」
「お前の言うとおりである可能性が高い。神官ならば街道の関所を腕の神官章を見せるだけで通れる上にどれだけこんでいようが優先されるので移動が容易だ。神殿になら神の楽士についてももっと資料が残っているだろうしな」
クロードとふたりだけとはいえこんな事を口にするのは心苦しい。
絶対的に公平で限りなく神に近いはずの神殿を疑うことは神を失うに等しいほどの恐怖がある。
「しかし、資料が残ってたってよく探し出せましたね」
「そうだな。そこは当事者にでも聞かねばならないだろうな。さあ、急ぐぞ。日暮れまでにはサラルの宿場にまで行って、明日の昼にはラピナ家にたどり着く予定だから飛ばすがついて来られそうか?」
「…………雪積もってますけど、馬で行くんですか? 馬車じゃなくて」
「馬車では遅い。無理そうならふたりで乗るか。しかしふたりでとなるとやはりもたつくな」
どうする、とクロードに決定権を委ねてみると彼は無言で薄ら笑いを浮かべてた。そしてしばらく待つとこくりと首を縦に振る。
「ひとりで乗ります。大丈夫なはず、です」
そしていささか自信なさげながらもしっかりとした面持ちで彼は言ったのだった。
***
翌日、予定通りにフィグネリアとクロードは馬を進めていた。
ラピナ候領は帝都より北西の山間部にあり特に冷える。薄手の服を数枚重ね着し、耳当てのついた毛皮の帽子をかぶり裏に毛皮を貼った外套を羽織っていてもまだ冷える。
フィグネリアは慣れているのでまだ冬の始まりに過ぎない寒さには十分耐えられるが、クロードはずいぶん堪えているらしい。
「大丈夫か? あと少しだ」
昨日からずっと馬を飛ばしていて一晩休んだぐらいでは回復しきっていないクロードの疲れ切った横顔にフィグネリアはそう言う。すると鼻の頭を真っ赤にしている彼はぎこちなく笑った。
「寒すぎると痛いんですね。俺の国の冬ってここからしてみれば春みたいなもんだったんだなあ……」
これは冬も深まると暖炉に暖められた部屋から一歩も出られないのではないのだろうか。
今からそんなことを不安に思いつつもフィグネリアはクロードにあわせて馬を進める。
街道からラピナの城下町に入ると白く染まった街は閑散としていて家々の軒先には氷柱と一緒に数本の黒い棒が垂れ下がっている。
「なんで炭をぶらさげてるんですか?」
「魂を送るためだ。出来るだけ多くの妖精達に導いてもらえるように」
風が吹いて炭同士がぶつかったり氷柱に当たったりして透明な侘びしい音が響く。
雪のせいもあって人のいない通りを言葉少なにふたりは進む。しばらく行くと大きな屋敷が増えていきさらにその向こうに神殿とラピナ邸が向かい合って建っている。
「……俺の実家より大きいですね。まあ、九候領はどこも俺の国の倍以上の領土があるから当然といえば当然かもしれませんけど」
馬から降りたクロードが屋敷を囲んでいる塀を眺める。
九候家の城の大きさなど特に驚くことでもないフィグネリアはさっさと門番に取り次ぎを頼みに行き、彼がその後を追う。
第一皇女が自ら赴いてきた事態に不審な顔をしていたもののすんなりと中に入れた。屋敷に入ると使用人達が急な来訪にばたばたとしながらふたりを客間へと案内する。
「フィグネリア様。このようなところまでどうされたのですか? また護衛もつけていらっしゃらないのでしょう」
それから間もなくタラスがやってきて眉をひそめる。
「夫ひとりいれば十分です。アドロフ候のことはもうご存じですね」
要点だけ問うとタラスは視線をそらした。
「神殿は一体なぜ協力をしているのですか」
何も答えない彼にフィグネリアは立ち上がり質問を畳みかける。
「……それが、正しいあり方だと。この国のためにあなたが帝位につき腐敗の元である九候を排除するという私の思想は間違っていないと大神官長がおっしゃっていました。全ては大神子様からもそのように命が下されたとも。あなたには神殿が後ろ盾になります。そしてクロード様が紛れもなく神の楽士であるということを知らしめれば誰も逆らうことは出来まん」
「なぜ、神殿が……あなたはどうして今までそれを黙っていたのですか」
政治にはけして関わることのない神殿がそんなことを言い出すのは不自然すぎる。
「時が来るまでは黙しているようにとのことでした。だがあなたが勘づかれたのなら全てお話ししましょう」
タラスが黙々と話し始めてフィグネリアはソファーに腰を下ろす。
四年前、タラスが神殿で祈りを捧げていたところ、神官のひとりが声をかけてきてということだ。そして大神官長の元へと連れて行かれ、イーゴルへ抱く不信を言い当てられ全てを吐露したそうだ。
九候家のうちの一家であるラピナ家嫡男でありながら反九候家派達と親交を持つタラスは反旗を翻すことを決意したということだ。
「すぐにでも神殿を後ろ盾にしてフィグネリア様を皇帝に擁立しようとしました。ですが神殿側からは確実性を得るために他国に流れていった神の楽士の末裔との婚姻をすべきだと言われ捜索し、クロード様を見つけたのです」
「え、最初会ったときに俺のことすごく警戒してませんでしたか?」
「……失礼ですがもっと大神官長様や大神子様のように一目でそうだと分かるような神聖さを持った方だと思っていましたので信じがたかったのです。ですが祭事で本物だと確信しました。そしてあの場に刺客が放たれたことにより大神子様は私に決断を迫られたのです」
タラスが両の拳を握りしめる。
「私は何度も父にあなたを殺せと命じられてきました。十分に贅沢な暮らしをしているのにまだ足りず無用な税を搾取し私腹を肥やしたいがためだけに。仲間のための散財は惜しまず自らは清貧を貫いたかつてのラピナ族の長の高潔を自ら穢し貶める父を私は許せなかった! 改めて決断する必要などなかったのです」
自分が幸福にも抱くことのなかった感情を目の当たりにフィグネリアは言葉を失う。
誰にも明かすことの出来なかった鬱屈を見透かされ神殿の言に希望を見いだし彼はすがってしまった。それを責めることはおろかどんな言葉も思いつきはしない。
隣にいるクロードはそっと目を伏せて唇を引き結んでいる。
沈黙がその場に降り積もる中、部屋の外から至急大広間へとの声がかかる。
不自然に震えた声に先に立ったタラスがドアを開けろと命じる。
フィグネリアも身構えていたのだが、部屋の外にいたのは初老の使用人ひとりだった。
「神官長様がおいでです」
困惑と恐怖を顔に貼り付けた使用人にフィグネリアはタラスと視線を交わし、物々しい様子に顔を強張らせているクロードを見る。
「なんかこれまずい状況、ですよね」
「おそらくな。タラス殿、なにも知らないのですね」
「聞いておりません。神官長様は一体何をしに来られたのだ?」
使用人は三人で出てくるようにとだけしか答えず、やむを得ず三人で大広間に向かうことにした。
タラスを先頭にして長い廊下を進み、彼が両開きの大きなドアを開けると立ち止まった。その後ろにいるフィグネリアには大広間の様子が見えずに少し体を横にずらす。
そして目にした光景の異様さに言葉を失った。
大広間には神官十数人が横に並んでいる。
「フィグ、この国の神官ってみんな銃を持っているんですか?」
唖然とした声で言うクロードの言うように神官達は銃を持っていた。あげくに銃口はこちらへと向いている。
「一体これはなにごとですか?」
神官達の後ろにいる壮年の神官長へタラスが問いを投げかける。
「クロード様をお迎えにあがりました。手荒な真似はしたくありませんので抵抗はなさらないように。大神子様もあなたが来るのを待っているはずです」
目的はクロードひとり。ならばやはり自分を帝位につけることは嘘だ。銃の仕入れどころはロートムで間違いないだろうが、神殿側が共謀する理由はなんだ。
広間を隅々まで見渡しながらフィグネリアは思考を巡らし、背後から聞こえてくる足音に歯噛みする。
囲まれたようだ。
ここまで来るのに廊下は三方向に分かれていたが、それは応接室を出てすぐの場所で後は一本道。途中に部屋はなかったはずで退路はない。
彼らの目的であるクロードを盾にすれば退路は作れるかもしれない。しかし向こうが彼にあてずに自分とタラスにあてるだけの腕と自信があれば一巻の終わりだ。
「分かりました。行きます」
膠着状態の中で大きな声が響いた。
「クロード……」
フィグネリアは手を握られて夫を見上げる。
「その代わり、全員ここから出てください。フィグとタラス殿には一切手を出さず、です。俺の力、知ってるんですよね。もしふたりに何かあったなら絶対に許さなないってことだけは覚えといてくださいね」
虚仮威しだとフィグネリアはすぐに気づいたが周りの神官達は怯んでいる。
「それで、後どうしましょう」
こっそりと聞いてくるクロードにフィグネリアは額を押さえた。
「……必ず助けに行く。時間稼ぎと内部調査をしていてくれ。方法は任せる」
「分かりました。……フィグ」
いつまで経っても手を握って離そうとしないフィグネリアにクロードが微笑む。
「信用してください」
もう一度だけフィグネリアはきつく夫の手を握ってから離す。
クロードが神官長の前まで行くとようやく銃が下ろされて背後にいた神官達も横を通り過ぎていく。
「……フィグネリア様、私は先走り過ぎました。申し訳ありません」
「いえ、神殿がこのような真似をするとは誰にも想像がつくものではありません。それより、タラス殿、あの銃の入手経路と資金はどこから?」
「分かりません。あれほど大量に入手できる経路を神殿が確立していたとは……資金に関しては私が寄進額を増やすように父に進言しました」
「帳簿は後で拝見させていただきます。ですがあれだけ仕込めるにはまだ裏がありそうですね。さて、クロードは大神殿の方でしょうが……」
「お手伝いさせていただいてよろしいですか?」
タラスの申し出にフィグネリアは迷いながらもうなずく。
神殿に対峙することなど事態前代未聞だ。使える者は使わねばこの事態はどうしようもない。
「……クロード様が向こう側である事はお考えにならないのですね」
言われて初めてその可能性に気がついたとフィグネリアはタラスを見上げる。
「あなたは、お変わりになりましたね」
どこか寂しげに言うタラスにフィグネリアは笑ってみせる。
「変わってはいないかもしれません。私は家族を信じて愛しています。ずっと昔から」
5
神官達に襲撃された二日後の朝、クロードは目を開けて側にフィグネリアがいないことに首をかしげてああ、そうかと思い出す。
昨日の夜更けに帝都の大神殿に到着した。馬車に乗せられて体の負担は少なかったが、両脇に銃を持った神官ふたりがいては気が休まらず疲れ切っていた。
案内されたそれほど大きくはない部屋の暖炉にはあらかじめ火が入れられて暖かく、シーツや毛布も真新しいもので横になるとすぐに眠ってしまったのだ。
「さあ、時間稼ぎとかなんとかいろいろしなくちゃな。お前らもちょっとは協力してくれよな。後でいろいろ笛聞かせてやるから」
着替えて眠気も覚めたクロードはいつも自分にまとわりついている風の妖精や暖炉で燃えさかる火の妖精に声をかけて笛を取り上げられていることを思い出す。
後払いでどこまで言う事を聞いてくれるかは不安だが仕方ないと部屋を出て、温度差に体を震わせながら周囲を見渡す。見張りらしき者はおらず、出歩きは自由に出来そうだった。
とはいっても広い。中央の礼拝堂を囲むようにしていくつもの棟が立ち並んでいる造りだったことは覚えているが。
「で、具体的にここはどこだよ」
そうつぶやいても答える者はいるはずがない。
しばらく歩いて行けば何人かの神官や神子とすれ違ったものの挨拶ぐらいしか返してもらえなかった。
「ここが、中央」
誰もいない礼拝堂にたどり着いてクロードは一番奥の地母神像の前に立って顔を綻ばす。
初めて、フィグネリアと出会った場所。
花嫁衣装を纏った彼女の美しさに見とれて、次には睨まれて驚かされた。緊張してるのかなと笑いかけて反応が素っ気なかったのは少し傷ついた。
「なんの企みがあるかはしらないけど、これだけは感謝しないとな」
今が幸せなら、あの出会いもいい思い出だ。
彼女は今、何をしているんだろうか。無事だとは思うが早くこんなこと解決して抱きしめに行きたい。
「どうか、ご加護を」
クロードが祈ると背後の両開きの扉が開いた。振り返るとそこには結婚式のときのようにフィグネリアがいるわけではなく、なぜか義兄のイーゴルがいた。
「おお、戻っていたのか、クロードよ! フィグネリアはどうした?」
堂内に声を響かせながらイーゴルが歩み寄ってくる。
「まだタラス殿のところにいると思うんですけど義兄上はどうしてここに……」
「大神官長様から呼び出しをうけてな。しかしここにお前が立っているのを見ると結婚式を思い出すな」
実に幸せそうな笑顔でイーゴルは言った。
「本当を言うと最初は俺が婿を決めてしまうのは気が進まなかったのだ。フィグネリアには自から結婚相手を選んで欲しかったからな。どうしても嫁にいきたいというのならそうさせるつもりもあった」
「そうだったんですか。でもまたなんで俺なんかと結婚させようと決めたんですか?」
「勘だ!」
堂内に反響する言葉にもっと深い理由を期待していたクロードは肩を落とす。
「俺はお前と実際会ってみてフィグネリアも気に入るに違いないと思ってな。俺の勘は当たっただろう」
「すばらしい勘です、義兄上」
この勘がなくともあの手この手で自分はここにつれてこられたとは思うものの、ただ純粋にフィグネリアのために自分を迎えてくれた人がいることは嬉しかった。
「そうだろう。しかし大神官長様は俺になんの用だろうな」
「……あんまりいい予感はしませんね」
自分のこの勘は外れて欲しいところだ。
しかしいいことがあるかもしれないという直感が当たることは希だったが、兄にこっぴどくいじめられる気がすると思うときは大体当たっている。
「あなたを保護するためです」
そう言いながら大神官長がギリルア像の奥にある小さな扉から出てくる。
「大神子様よりの託宣です。フィグネリア皇女殿下はずいぶん昔からラピナ家嫡男……今は当主のタラス様と情を通じており、そこにおられるクロード様の神の楽士としての力を利用しあなたから帝位を奪うために偽りの婚姻を結んだのです。クロード様もそれに気づかれてこちらへ助けを求めに来たのでお護りしているのです」
「すいません、俺、銃突きつけられて連れてこられたんですけど」
あまりにも堂々とした嘘に唖然としながらもクロードは小声で言ってイーゴルを見る。
「……自分は神殿を疑えません。しかし妹も信じております。困ったな」
矛盾するふたつの思考にイーゴルが腕を組んで唸る。
「あなたはこれまで一度もフィグネリア皇女殿下をうとましく思ったことはないのですか? お母君はここへ来て私に本当は父君が側室を設けることは辛いと告白していらっしゃいましたよ」
人の隠された部分を卑しくさらけだすような言葉だった。クロードは聞いてはいけない、とイーゴルに忠告を投げようとする。
「父上が側室を持つ事に母上が苦しまれたことは知っています。だからフィグネリアが産まれるまでは可愛がれないだろうと思いはしました」
しかしそれより先に厳かにイーゴルが口を開く。
「だが、実際産まれたばかりのフィグネリアは可愛かったのです。赤子というのは可愛いものだからそう思うのだと思っていましたが、他の赤子を見てもフィグネリアほど可愛くは思えませんでした。それから後に同じぐらい可愛いと思った赤子はリリアでした。結局それからどれだけ成長してもふたりとも可愛いのです。とにかく可愛いのです!」
イーゴルが真顔で妹馬鹿を語ると大神官長が怪訝そうに眉をひそめた。
「真実はいずれ分かるでしょう。さあ、クロード様もご一緒に大神子様の元へ参りましょう」
確かに真実はそのうち分かるだろうなと思いつつクロードは考える。
自分が側にいればひとまずはイーゴルに危害は加えられないはずだ。神殿側の内側に入っておそらく裏で糸を引いているだろうロートムの思惑を探ればフィグネリアの助けになるはずである。
後は、どうにか隙を見てイーゴルと脱出の手段を探しておく。
思考を纏めたクロードは会うだけ会おうとイーゴルを促して部屋の奥へと向かおうとする。
その時、炸裂音が響いて仮定が覆される。
イーゴルがその場に膝から崩れ落ちる。
その腹部からは止めどなく血が溢れ出していた。
***
同じ日の昼頃、夜に急に吹雪いて足止めされて出立が遅れようやく王宮にたどり着いたフィグネリアとタラスは衛兵達に囲まれていた。
「神殿より皇帝陛下が撃たれて瀕死の重傷を負い療養中だとの知らせがあった。これはタラス殿の部屋と皇女殿下の部屋から出てきましたが、何か弁明することはありますか」
近衛兵長が後ろの配下に命じて銃と暗殺についての相談のやりとりを残した手紙を出してくる。タラスが銃を部屋に置いたままにするわけはなく、こんなお粗末な偽造の手紙を信じる程度の低さにフィグネリアは頭痛を覚える。
こんなものにつきあっていられない。
「道を空けろ。兄上の無事を確認しに行く」
低い声で命じると周りを取り囲む兵達が身構えて、フィグネリアは腰の短剣の柄を握る。
動揺と怒りはすでに頂点を超して、イーゴルの元に行くということしか頭になかった。
「フィグネリア様。どうか冷静に。何があったのですか」
「神殿へ赴いたところ礼拝堂に潜んでいた者に撃たれたとのことです。下手人は皇女殿下の命だった告白し、自害しました」
「全て嘘だ。神殿が兄上を嵌めた。ロートムと手を組んで!」
冷静さを失っているフィグネリアの不用意な言葉に辺りがざわめく。
禁忌を破った彼女に対して向けるのは怒りと憎悪しかなかった。
「ちょっと! あんた達、何してるの!!」
兵達が殺気立ち一触即発の事態になってサンドラが肩を怒らせながら歩いてくる。
「皇后陛下。お下がりください、フィグネリア皇女殿下が皇帝陛下の暗殺を企てたあげくに神殿を穢す言葉までも」
「フィグがイーゴルを暗殺するわけないでしょ! ほら、さっさと武器を降ろして道を空ける! この言葉大ッ嫌いだけど使わせてもうらうわよ。命令よ、どきなさい」
威厳を滲ませたサンドラの命に渋々従い、兵達が膝を折った。
「フィグ、中で話聞かせて。出来ることはしたいから」
サンドラの気丈な態度とは裏腹な弱り切った瞳を間近に見てフィグネリアはようやく落ち着きを取り戻す。
義姉だって気が気ではないのだ。自分は冷静に、動かないといけない。
フィグネリアは冷たい空気を深く吸い込んで熱を冷ます。そいて王宮に入ってすぐの部屋には爪を噛んでいるリリアがいた。
「お姉様! よかった、無事でしたのね。クロードお兄様は?」
「神殿に連れて行かれた。ああ、そうか、クロードがいるのか」
そのことを思い出してフィグネリアのまだ少し揺らいでいた感情に芯が通る。
そしてこれまであったことを話すうちにいつもの調子に戻っていた。
「あんまり口にしたくないけど神殿が悪いって事なのね。そうなったら旦那取り戻しに行くわよ」
サンドラが気合いを入れたところでフィグネリアはそれを宥める。
「向こうは銃を所持しています。正面から行くのは得策ではありません。兄上に関してもどこまでが真実かは……」
大神官長が自ら言葉を発するだけで誰もが信じてしまう。下手に動けば帝都の兵士全員が敵に回るだろう。
いや、すでに下手を打ってしまった。
どう切り抜けるか行き詰まっているとふいに窓ががたがたと激しく揺れた。ただの強風かと思ったが窓の外では雪ではない白い物が揺れていてフィグネリアは窓を開ける。
そうすると風と共に四角く折りたたまれた紙が足下に落ちた。
紙を広げてフィグネリアは馴染んだ文字に目を細める。
それはクロードからの手紙だった。
***
「ちゃんと届けたかな、あいつら」
風の妖精に頼んでこっそりフィグネリアに手紙を届けてもらったクロードは窓の外に見える白い帝都の街並みを見下ろす。
イーゴルは撃たれたものの神官達が治療にあたっていて無事ではあるが、彼を人質に取られている形であること。それと大神子と結婚させられそうであるとということを手紙には書いた。
まずは手紙が届いているかどうかが問題だ。こんな風に妖精を使うのは初めてだし、妖精達がフィグネリアを識別出来ているかすら分からないので不安だ。
「そこは信用するしかないか。さて、と。これは浮気じゃないですからね」
クロードは側にいない新妻に弁明して大神子の部屋へと向かうことにした。さっき少し話したがすぐに自室に引っ込んでしまってろくに話を聞けなかったのだ。
神子達が控える広間の奥に大神子の部屋はある。通してもらうのは思ったよりも簡単だった。
透かし彫りが施された両開きの扉を開けると甘い香の匂いが鼻をくすぐる。
大神子は赤々と燃えさかる暖炉の側にある紗を何枚も重ねた天蓋つきのベッドの上にいる。
「おいでになりましたのね、わたしの運命の人」
積み重ねたクッションにしどけなくもたれかかる大神子が幼く甘ったるい声でそう言う。
「お側へ行ってもよろしいですか?」
許可を取ってクロードは寝台の側に行き、促されるままに紗をめくり上げて寝台に腰を下ろす。
白い飾り気のないドレスに毛皮のガウンを羽織っている大神子はベールをかぶっておらず、美しい面を晒していた。三十前後と思われるその顔は年を重ねた色香と少女めいた幼さを絶妙に解け合っていて神秘的だ。
紅玉のような瞳に見つめられると陶酔に似た気分を得られる。
(フィグより大きいな)
ドレスの胸元から覗く谷間についつい目がいきつつクロードは大神子に微笑みかける。
「あなたはとても美しいですね」
これは本心だった。大神子は男が惹かれる要素をあますことなく持っている。
「あなたもとても美しいです。金の瞳をもっと近くで見せてください」
大神子が近寄ってきてクロードの首に腕を回してうっとりとその瞳を見つめる。
(当たってる、胸当たってる。それはちょっと卑怯だぞ)
貴公子然とした顔を保ちながらクロードは少々動揺していた。
「あなたのように美しい方がなぜ俺を欲しがるのですか?」
「わたしたちは結ばれる運命にあるからです。神の器たるわたしと、妖精王であるあなたは結ばれこの国の、いえ、国だけではありません。世界の統治者となるべきだからです」
またいきなり空想めいた話だ。
クロードは大神子の真摯な目を見て本気だと薄ら寒くなる。
「俺は神の楽士かもしれないですけれど、妖精王っていうのは違うと思うんですが」
「違いはしません。フィシスラルの一族は神霊により妖精を統べる力を与えられ妖精王となり、神の器である大神子を妻として影の王として君臨していたのです」
ふわりと微笑んで大神子がクロードの耳元に唇を寄せる。
「わたしたち大神子は生涯独身でなくてはならないのではなく妖精王以外の妻となってはならないのです」
そのままクロードは寝台の上に押し倒された。
「……それならなんで俺達一族はどうしてあんな小さな国で普通に暮らしてたんですか」
これは喰われると内心激しく怯えながらクロードは必死に冷静な声で続ける。
「それは分かりません。しかしきっと時の王族がなんらかの策略を用いてあなた方一族をおいやったのでしょう。そして妖精王としての血は薄まり、力も薄まったのです。ですが男児には必ず強い力が残っているのです。特に、金の瞳を持つ男児には」
「で、あなたがたはそれをどうして今になってそんなことを言い出してるんですか?」
どうにか体勢をかえ、クロードは大神子を組み敷いて問う。
「妖精王がこの世界に再び訪れたのだと十七年前に神霊様に伺ったからです。私たち大神子がずっと待ち続けていたのです。あなたがこの地に再び現れることを。これは運命なのですよ」
クロードは大神子から身を離す。
「……大変魅力的なお話しですが、一個だけ聞いていいですか? なぜそこにロートムが関わってくるんです」
こんな夢見がちな少女のような大神子になぜロートムが銃など売ったのだろうか。そこが一番不思議だった。
「ロートムが関わってきたのではありません。わたしたちが利用したのです。皇族や九候家を殺すことも操ることも自在であることを証明し金銭を都合すれば銃を売ってくれましたよ」
大神子の言葉にクロードは引っかかりを覚える。
銃を持ち始めたのはおそらく自分がここに婿入りする前だろうし、それまでに九候家の当主は変わっていないし、他に。
そんな、とクロードは目を見開いて清冽な微笑みを浮かべている大神子を見下ろす。
「先帝の病は……」
改革の途中での突然の崩御。後を引き継ぐのは後ろ盾のないまだ幼い皇女で、新帝は九候家の傀儡とたやすくなり得る危うさを持った皇子。
そこへ新帝に不服を持つタラスが加わって混沌とした事態はいっそう悪化し最後に人が頼るのは神だ。
「そうです。ふふ。もうひとつ細工もしました。フィグネリア皇女は先帝の血を引いていないという情報を混ぜ込めばいっそう九候家は殺意を高めるでしょう」
大神子が寝台の上で立ち上がって踊るように一回転して子供のような笑い声を上げる。
「世界は神の名のもとわたしたたちに従うのです。王よ、わたしの運命の人。これで十分でしょう。皇家の人間を消し去り、玉座につきましょう」
「嫌です」
間髪を入れずに答えると大神子がきょとんとしながら何が、と問い返してくる。
「フィグを愛しているからですよ」
「あなたはあの皇女よりも高い地位のつくのです。よいではありませんか」
「俺はフィグの地位や立場を愛しているわけじゃないんです。彼女の存在全てを愛しているんです」
はっきりとクロードは告げる。
世界の全てが自分にひれ伏す。それは想像してみると悪くはない光景だが、フィグネリアが隣にいない世界なんてなんの魅力も感じない。
「義兄上の身に万が一の事があったら舌噛み切るぐらいはします。義兄上だけでなく、フィグやその家族に何かあっても」
妖精達が周囲でざわめく感覚がする。
それに心の内で護るべきものがある限りは死なないよ、とクロードは返す。それは伝わったのか妖精達は大人しくなった。
寝台から降りると大神子が手を伸ばしてくるが、それに答えることもなくクロードはその場をあとにする。
そして廊下を歩きながら頭の片隅に違和感が残っているのに気づく。
「正直、あの人にこんなまどろっこしい計画って無理だよな」
他に誰か余計な入れ知恵をした者がいるはずだ。大神子に助言出来てかつ神官達を自由に動かせる人間といえば。
「……ひとりしかいないな」
その目的もおそらく非常に俗なことだろう。
クロードはいそいそと部屋に戻って手紙を書く。風の妖精にインクをさっと乾かしてもらってまた運んでもらおうとしたが手紙は手元から攫われて部屋の高い天井付近でふわふわと浮く。
「おい、遊んでるんじゃないんだぞ! ふざけてないで、ってやめろって!」
紙が暖炉の前に行ってクロードは悲鳴じみた声を上げる。
「笛は取り上げられてて今吹けない。あとでちゃんと聞かせてやるから頼む。つーか俺、お前らの王様なんだよな。もうちょっと敬えよ」
一番納得いかないのがそこだ。今の今までそれらしい態度を示されたことはないのに妖精の王だと言われても困る。
「なあ、俺みたいなのが主君だって言われたら勘弁してくれって思うのは分かる。でも、いまだけでいい。どうしても助けたい人がいるんだ。力を貸してくれ」
これほど真面目に妖精に声をかけるのは初めてだった。フィグネリアのように毅然とした態度がとれればいいが、自分が出来るのはせいぜい真剣に頼み込むことぐらいだ。
妖精達は少し戸惑ったように紙をくるくる回した後にクロードの手元に返す。
その後に暖炉の火が無数の鳥の形を作って暖炉の中で踊り、サイドテーブルの水差しから水が飛び出てきてリボン状になって螺旋を描く。
「ええっと、それは分かったって事か?」
少なくとも好意的な態度ではあるだろうが、よく分からない行動である。
「最初の時みたいにこれを俺といつも一緒にいる銀色の人間に渡してくれるか?」
試しに手紙を差し出してみると今度はちゃんと紙を持って自分で窓を開けて妖精が出ていく。
炎と水は自分たちは、と聞くように薪をぱちぱちと爆ぜさせたり水差しに出たり入ったりしてちゃぽちゃぽと音をたてる。
「お前達は今は動かなくても大丈夫だ。先に義兄上助け出さないとな」
クロードはちらちらと雪の舞い始める夕暮れの空を見あげて頑張るよ、と愛妻に向けてつぶやいた。
***
日も暮れてから二通目のクロードの手紙を受け取ったフィグネリアは自分にはりついて離れないリリアを抱きしめてソファーに深く座り込んでいた。
「フィグネリア様、言われていたものを持ってきました」
そこへ執務室へ行っていたタラスが書類を抱えて持ってくる。リリアを腕に抱いたままでは書類を見ることが出来ないので代わりに彼に指定した場所を読み上げてもらう。
「ここ数年神殿への奉納の量からしてルドクシアとカルヴァナが共謀して銃を仕入れていた可能性が高いな。そうなると塩の収穫量を誤魔化したくすねた分はロートムに流れていた、ということか」
過去五年に遡り二家の奉納の記録から鑑みるに、さんざんやりあった帳簿の不正は全てこのためのものだったのだ。領地もロートム接していて輸出入には目を光らせてはいたが、囮として香辛料や毛皮の輸出入に些細な不正を仕込まれてそちらに手がかかっているうちに上手く運び込んだのだろう。
国境さえまたいでしまえば後は神殿への奉納品として関所で検閲をされることはない。
こちらも問題なく神殿に届いてしまえば何も疑わない。
「くそ、こちらが人手が足りないからといって姑息な真似を。あげくに口封じにやられて馬鹿め」
「ロートムの狙いはディシベリアの弱体化でしょうか」
「そうでしょう。神殿にまともに国政をする力はないと向こうは踏んでいる。絶対的な信仰でもって国は一時的に纏まるだろうがクロードの手紙からして大神子は信仰を盾に取ること以外はなにも出来ずにやがては破綻する。そして混乱が生じた頃に真なる神の使いとでも名乗って攻め入る気だろうな。神を降ろす大神子も妖精王もただのまやかしだと考えているだろうことは愚かとしか言いようがないが」
ナルフィス教徒の彼らにとって奇跡とは自分たちだけのものであると思い込んでいる。
神霊の加護などないという前提があってこその策だ。
「でも、それってクロードが大神子様と結婚する気がなくちゃいろいろ無理よね。夫婦円満って大事ねえ」
「愛は偉大ですわ」
うん、うんとサンドラがうなずくのにリリアもフィグネリアにくっついたまま同意する。
その場にいる全員の視線が集中してきてフィグネリアは赤面した。
確かにその通りで誘いに乗ってほいほいクロードが向こうについていたらイーゴルどころか自分たちもとうに死んでいるだろう。
だが、それを改めて口に出されると身の置き所に困る。
「……そこが誤算でしょう。皇帝陛下さえ奪還すればフィグネリア様に有利かと」
咳払いをひとつしてタラスがつけ加える。
「はい。兄上はまずクロードに任せるとして、大神子と大神官長を分断したほうがいいですね。大神子を上手く説得できれば状況は変わるでしょうし。しかし、大神官長の目的によればクロードの身が危うい、か」
大神子を傀儡にして自分が実権を全て手に入れようとしているなら婚姻が済んだ後にクロードは抹殺される。次にイーゴルを排除し全ての罪は自分にきせて処刑とするのが順当か。
妖精の加護はあるといえ、かつての妻を前に慈悲を見せたために殺されたとでもいえば国民も納得してしまうだろう。後は悲しみに明け暮れる大神子を表に立たせて国民の同情もついでにひけば尚のこといい。
むしろロートムが統治権を餌にちらつかせている可能性もあり得る。
考えれば考えればろくでもないことばかり思いつくとフィグネリアはリリアの髪を指ですきながら眉根を寄せる。
「こちらから連絡が出来ればいいのだが……」
そうつぶやくと部屋の隅のテーブルの方でなにかがかたかたと音がする。どうやらインク壺が揺れているらしい。
「届けてくれるのか?」
答えるように紙がひらひらと揺れる。
「すごい。あそこに妖精がいるのね」
「そのようですね。珍しいな」
クロードがそう命じたのだろうか。今まで妖精に散々もてあそばれていた上に笛も吹けない状況でこういうことも出来るとは意外だ。
「少し、待ってくれないか。分かるか?」
見えもしなければ存在も感じられない相手に話しかけているのは不安だ。
リリアから離れて紙を取りソファーに戻ったフィグネリアは腕組みする。
大神官と大神子を引き離して、それからは。優先するのは兄の救出だが、神殿をどう処理するべきか。
白紙を前に考えていると首元に風を感じて髪を揺らされる。
「すまない、もう少し待ってくれ……義姉上、リリア。本当はふたりにはここで待っていて欲しいのだが」
言葉が喉元で怖じ気づく。
ふたりの視線にフィグネリアは側にいないクロードを思い出す。彼のようにもっと素直に思いを伝えられるようであればいいのに。
「力を貸して欲しい。お願いします」
ようやくそう声に出しても心はどこかで恐怖を感じていた。だがそれは束の間だった。
隣にいるリリアが飛びついてくる。
「お願いされなくてももちろんやりますわよ」
「そう、そう。頭使うこと以外ならなんでもやるわよ。頑張って旦那取り戻そ!」
ふたりの笑顔につられるようにフィグネリアも相好を崩す。
長い間張り付いていたものが剥がれた気がして、心も軽くなって。
そして最後にクロードに会って少し、変われたかもしれないと早く伝えたくてたまらなくなった。
***
翌日の朝。
肌を切り裂くような冷たい風に晒されながらフィグネリアは神殿の前の広場に兵達に取り囲まれて立っている。朝になって兵達に神殿からの呼び出しだと促され、リリアとサンドラをタラスに託してここまで罪人のように武装した数十人の兵に連れられて来た。
真白い軍服の男達の中にただひとり黒い軍服を纏うフィグネリアは遠目から見れば異様に浮いて見えるだろう。
フィグネリアはじっと神殿の尖塔を見据えていると笛の音が聞こえてきて白い吐息を吐き出す。
「お前達はその武器で何を護る?」
そして静かながらもよく通る硬く澄んだ声でそう口にすると、近くの兵士が怪訝そうに眉をあげる。
「忠義でも神でもなんでもいい。護るべきものはあるだろう」
重ねて問うと兵士達が陛下のために、ギリルア様のためにと口々に言い始める。
「そうだ。私にもある。たいそうな大義名分、というわけではないが家内安全、といったところか」
一体何を言い出すのかと周りがさざめく中、笛の音が大きくなっていく。
旋律は嵐。
音の勢いのままに風が雪を巻き上げる。
「道を空けろ」
フィグネリアは神殿に向けて歩き出す。
兵達は胸元ぐらいまでの背丈しかない少女が歩くことを留められずに戸惑うばかりだ。
「始めに言っておく。この声は神の声ではない。神の意志たるものでもない。ただの人間の声だ。私は神を信じる。私は神を敬う。だが、今の神殿に向ける敬意はない。大神官長は大神子を利用し私欲のために今、この国の安寧を揺るがそうとしている」
風は激しく吹き荒びながらフィグネリアの声を帝都中に拡散する。神殿を穢すその声は家々の窓を叩き、人々は畏れと動揺を抱えながら外を見ていた。
「申し開きがあるならば、大神官長自ら私の元に出向いて来るがいい」
張り詰めた糸が切れるように笛の音が消え、静寂が押し寄せる。
周りにいる兵士達は何か得体のしれないものであるかのようにフィグネリアを凝視している。
沈黙は長かったが、やがて神殿の扉が開かれてフィグネリアは馬鹿め、と胸の内で嘲笑する。
大神官長が神官達に護られながら静々と歩いてきていた。その行進を彩るようにまた笛の音が流れ出て風が吹く。
「大層な武装だな。その銃はどこから調達した。神を悪魔と愚弄する国より買いつけたと思われるが……さて、皇帝陛下は神殿内で狙撃されたと言われたのだがな」
周りを見渡すと明らかに兵士達は動揺し信じられない、と口々に言っている。
「……大神子様をどこへやったですか?」
「あいにく私も知らない。さて、先に質問に答えて貰おうか。その武装のためにロートムにいくら流した。おそらく売ったよりも倍の銃がつくれるぐらいにはむしり取られているはずだぞ」
多大な無駄遣いだ。それだけの金があれば三年前の北方の寒冷地帯の食糧難も少しは楽に解決できただろうし、有能ながらも下位におさまっている官達の給与も引き上げてやることも出来ただろう。
夕べ空いた時間にざっと試算したときの怒りを再び蘇らせながらフィグネリアは大神官長を睨みつける。
「さすがに影の皇帝と言われている皇女殿下、なんとも賢しい。だが愚かです。私にたてつくということは神殿に、神に逆らうということです。それがどれほどの意味か分かりますか」
大神官長が薄笑いを浮かべる。
「話をそらすな! どれだけ策をこらそうとお前は終わりだ。大神子様は全てを告白している」
怒鳴りつけると大神官長の表情がひきつった。
「言え。アドロフ候、ラピナ候、カルヴァナ候、ルドクシア候の四候の暗殺の命じたことを。そして我が父である偉大なる先帝エドゥアルトを殺害せしめたことを!」
声を張り上げて畳みかけると大神官長が短く撃て、と命じる。
銃口を向けられたフィグネリアはその場に立ったまま背後に声をかける。
「後ろへ下がれ! 出来るだけ……っ!」
威嚇の一発が腕を掠めて、足下の雪に血が点々と落ちる。
「命が大事なら口を慎みなさい」
早まったその脅し文句にフィグネリアは顎をあげて笑う。
「さすがに死ぬのは恐いな。まだやるべき事もあれば、会いたい者もずっと一緒にいたいと思う者もいる」
この場に立ったときからずっと焦がれている。
兄に会いたい。そして、夫にも。
「撃て。何をしている!」
微動だにせずにいるフィグネリアと大神官長のうろたえように神官達は銃を構えたまま迷っている。
フィグネリアは痛みをこらえて大きく息を吸う。
「さあ、神官達よ。銃を下ろせ! この醜い欲の塊を護るべきものだと思うか! 信ずるものはなんだ。己の胸の内を見ろ。それでもこの阿呆を護るなら好きにするがいい!」
声を張り上げながら腰に差している短刀を抜いて前へと進む。
「私は世界の王の後見人となるのだ。貴様のような小娘が、私を傷つけるなど、許されない。撃て、あの不届き者を殺せ!!」
大神官が声を荒げて叫んで、周りが従わないと分かると近くの神官から銃をひったくる。
「撃ちたければ撃てばいい。だが、お前の声は今、帝都中に運ばれていることを忘れるな。私が死んでもお前の負けは決まっている」
一歩踏み込むと大神官長が醜く引き攣れた顔で小娘が、と吐き捨てる。
「皇女殿下をお護りしろ!」
そんな叫びが聞こえてきたと思うと背後から地面を揺らしながら兵士達が突進してきて予想外のことにフィグネリアは目を丸くする。
「危ないから下がっていろ!」
銃声が響く。
しかし銃を奪われた神官が大神官長を押さえ込んで銃弾は地面に放たれていた。
「…………助かった。その馬鹿はしっかり捕まえておいてくれ」
神官達が銃を捨てるのを見ながらフィグネリアはそっと息を吐き出す。
そうすると神殿の奥からは巨大な寝台が出てきてその場にいる全員がぎょっとする。それを押しているのはタラスで、よくよく見ればその下は凍り付いているのが見える。
「フィグネリア、重ね重ねすまん。皆の者も混乱させてすまなかった。この通り俺は無事生きている」
そして寝台の上にいるイーゴルが半身を起こすのタラスの影に隠れて見えなかったサンドラとリリアが支える。
自力では立ち上がれそうにはないものの皇帝のいつも通りの元気な様子に兵達が歓声を上げた。
「兄上! ご無事で何よりです。義姉上とリリアも助かりました」
フィグネリアは兄の元に駆け寄って目尻に涙を浮かべる。
「弓なら任せてよ。リリアの薬もすごいけど」
あらかじめクロードに少しだけ開けてもらっていた兄が寝かされている部屋の近くの廊下の窓から、リリアの作った催涙効果のあるニブギ草の粉を先にくくりつけた矢を射たサンドラが得意げに笑う。
合図はクロードが大神子を隠して慌てふためいている大神官長が表に出たとき。
「風の妖精にはたくさん助けてもらいましたわね。ありがとうございます」
リリアがそう言うのが分かったのか風の妖精達が彼女の髪を巻き上げる。
風の妖精には手紙のやりとりを手伝ってもらい、他にも広場の声を帝都中に撒いてもらったり、ニブギ草の粉を拡散してもらったりとずいぶんいろいろと動いてもらった。
「水の妖精と雪の妖精にも礼を言わねばな」
うむ、とイーゴルが自分の寝台の下の溶けかけている長細い絨毯のように敷かれた氷を見る。
これはクロードの提案だ。イーゴルが立って歩けないのなら寝台ごと運べばいいという少々乱暴な手立てだ。
「クロードはどこに?」
どこかに隠れ潜んでいるはずの夫の姿が見えずにフィグネリアは首をかしげる。
「そういえば姿を見てないわね」
サンドラがリリアと顔を見合わせた時に銃声が響いた。神殿の中だ。
「クロード!!」
青ざめた顔で夫の名を呼んでフィグネリアは神殿の中に駆け込む。ニブギ草の粉はもうすでに外へと運ばれたのか視界は阻まれない。
ただ廊下では銃を抱えて目を押さえ悶えている神官達が転がっている。
音の聞こえた方に走っていくともう一発銃声が聞こえてきて恐怖に心臓が押し潰されそうだった。
「クロード! どこだ! 妖精達よそこにいるのならお前達の王の元へ案内してくれ」
戸惑うようなつむじ風が起きて近くの石壁が揺れるとそこが崩れて扉が現れる。
フィグネリアがそこに駆け込んで最初に見たのは大神子の後ろ姿だった。次に壁際に追い詰められているクロードを見つける。
「すいません、ちょっと油断しました」
書棚に穴は空いているが彼は無事そうで脱力しそうになる。
「もう、終わりだ。銃を下ろせ」
フィグネリアは大神子に慎重に声をかける。
「終わり? どうして。わたしは妖精王の妻になるのです。そうです。あなたがいなければ」
言いながら大神子が振りむきざまに銃口を向けてくる。
彼女の赤い瞳が漆黒に染まるのが見えたかと思うと銃が破裂する。
血飛沫が飛んで絶叫が響く中、フィグネリアとクロードは何が起こったか分からずにその場に立ち竦んだ。
先に動いたのはクロードで、すがりつくようにフィグネリアを抱き寄せた。
「何が、起こった」
「たぶん、火の妖精が……でもなんでいきなり」
血だまりの中で倒れる大神子の白い髪が黒く染まっていく。それが本来の色のようにも見える。
「完全に器としての役目を終えたからです。器というものはある程度は何かが入る余裕がなければなりませんが、残念ながらこの娘は我欲で器を満たしてしまいました」
耳の奥に畏怖に震えるほどの声が届いて、フィグネリアとクロードはそちらに顔を向ける。
そこにはその声には似つかわしくない十四、五の少女が立っていた。真白い髪と赤い瞳のせいですぐには気づけなかったが、祭事の時に大神子の一番近くに控えていた薄茶の髪をしていた神子だ。
だが、その中にいるのはあの少女ではないだろう。
「あなたは、いったい」
フィグネリアは丁重に口を開く。
「ギリルアです。新たな器を子供達に与えるためと久方ぶりの妖精王の顔を見に来ました。事の一端は息子も関わったことです。この者にも慈悲を与えましょう」
地母神ギリルアが大神子に近づいてその体に触れると、目を背けたくなるほどの傷は消えていく。
「息子、とは?」
「ラウキルです。かつて妖精王のその力を奪い合い人間達は争い、かの王はそれに嫌気がさし人が定めた神の器の娘を妻にすることも厭い他の人間の娘と争いから逃げました。妖精王の力はあまりにも強すぎる影響を妖精にも人間にも与えてしまうのでもうそっとしておきなさいと子供達には言ったのですが……ラウキルは特に妖精王を気に入っていったので久方ぶりの誕生に口を滑らせてしまったのでしょうね」
困ったものですと母親の顔をしてギリルアがため息をついた。
ラウキルといえば音楽を司る神霊ではしゃぎすぎたというのは分かる。人間の自分ですらクロードの笛には魅入られる。
「この娘の事は他の者たちに任せて行きましょう。新たな器のお披露目をしなくてはなりません。さあおいで」
そっとギリルアに銃弾が掠めた腕を触れられると傷が消えた。
そしてどこからともなく神子たちがわいてきてギリルアについていく者と意識をなくして倒れている大神子につく者とに別れた。
どちらについてくこともないフィグネリアとクロードは見つめ合い、しっかりと抱き合う。
「終わったな」
「はい。というかなんかいろいろ俺が元凶だったみたいなんですけど……」
「お前の存在に罪はない。……私は本当にいい贈り物をもらったな」
フィグネリアはそっとクロードに口づける。
なんだっていい。山ほど大変な目に合ったがこの黄金が側にあるだけで全て帳消しだ。
そしてふたりで手を繋いで外へと出ると歓声に迎えられた。イーゴルも傷を癒やしてもらったようで自分の足でしっかりと立っている。外には兵士以外にも帝都の住民が続々と集まってきていた。
「……幻聴だろうか。新皇帝などという言葉が聞こえるのだが」
たくさんの歓声の中にちらほらと聞こえる単語にフィグネリアは目眩を覚える。
「幻聴ではないぞ! 俺はきっぱり皇帝をやめる」
その宣言にフィグネリアはクロードと繋いでいた手を離して兄に詰め寄る。
「何をおっしゃっているのですか! それでは解決にならないとあれほど……」
「暗殺の疑惑も晴れたしギリルア様のお墨付きももらったから大丈夫よー」
脳天気にサンドラが手を振ってきて、リリアがほら、とフィグネリアを前に押しやる。
「みんな歓迎してくださってますわよ」
前に立つとフィグネリア皇帝陛下万歳と声が上がる。
「ううん、皇帝陛下の婿ってとんでもないことになりましたね、俺」
「待て、待て。アドロフ候の説得はどうする。他の九候家は!」
あれとかそれとかただではすまない問題が山のようにあるのだ。その諸々を解決は。
「お前なら大丈夫だ! 俺も説得する。大体俺は皇帝らしい仕事など全くしてなかったからな。ほとんどお前が皇帝だったも同然ではないか。これまでか弱いお前を矢面に立たすまいと思って尽力してきたがかえって危険な目にあわせてしまってすまなかった!」
か弱い、と納得いかなそうにつぶやく夫の腹に肘を入れたフィグネリアは改めてイーゴルに名前を呼ばれてその顔を見上げる。
「俺が馬鹿なせいでお前には苦労をかけた。これからも困ったことがあったら助けてもらうだろうが、お前も困ったことがあるなら俺に言ってくれ。何があっても俺はお前を護るからな」
フィグネリアは戸惑いながらも兄に抱きつく。
子供の頃から抱き上げてもらうのを待ってばかりだったことを思い出す。本当は兄ともっと一緒に遊びたかった。もっと甘えたかった。
「愛しています、兄上」
そんな我が儘はたったひとつの言葉に集約されてしまうが、それを言っただけで胸のつっかえが全部とれた気がした。
「おお、俺もだフィグネリア! リリアもだぞ!」
「分かってますわよ」
リリアも脇から抱きついて兄妹は思う存分愛をわかちあい、そこにサンドラが飛び込んでいく。
これを傍観していたクロードをフィグネリアは手を伸ばして引っ張り込んだ。
風達もそこにじゃれつくように吹いて、雪達が様々な花の形を作って家族の足下から広がっていき歓声と祝福の声に帝都が包まれたのだった。
エピローグ
ひとまず神殿がらみのことが解決して十数日。フィグネリアは怒濤の日々を送っていた。
大神官長と大神子が交代した神殿の再編は向こうの管轄なので特に問題はなかったが、やはり即位に関してはいろいろ面倒があった。しかし夫と子供達恋しさにアドロフ候の元に戻ったリリアとそれに付き添ったイーゴルの尽力のおかげで即位に対しての反対はなくなった。
神殿から嘘を吹き込まれ祭事を穢した冤罪をかけられたこともアドロフ候には痛い失態でもあったようだ。
後はラピナ、ルドクシア、そして瀕死だった当主は結局助からなかったカルヴァナが異を唱える権限があるはずもなく残りの五候もアドロフ候に従うようにして受け入れた。
タラスに関しては父親の暗殺に関わったことを隠したまま領地をよく治め、国のために尽力するようにさせた。それがこれからのためには最善であり罪を生涯胸に秘めたまま生きることは彼にとってなによりもの苦痛となるだろう。
イーゴルは皇帝を辞した後に軍の強化に努めるようだ。とりわけ銃の普及に関しても積極的に取り組むらしい。そちらの方が兄には向いているだろう。
それからロートム側も動いた。銃が密売されてその首謀犯を捕まえたので証拠品でもある銃を返してほしいというふざけた申し出があったのだ。これに関してはもう少し時間をかけて取られた分をきっちり取り戻さねばならない。
そして執務室も中央に完全に移行し、クロードも仕事を覚えてきて落ち着きを取り戻した頃にフィグネリアはもうひとつ片付いていない事があったと思い出したのだ。
「わざわざこれを引っ張り出すことはなかったか。いや、しかしこれが正式な衣装だからな。けして奴が好きだからと言ったから出してきたわけではなく」
寝室の暖炉の前で独り言を言いながらうろうろとするフィグネリアは薄い絹で出来た夜着を纏っていた。
結婚式の日の夜に着ていたものである。
「やはり、気負いすぎかこれは……」
着替えるべきかどうか迷っている間にドアが叩かれて、とっさに入っていいと言ってしまう。
「フィグ、どうしたんですか、その格好」
隣の部屋で夜着に着替えてきたクロードがまじまじと上から下まで眺めてきて頬に血が昇る。
「察しろ!」
「……答は分かってるんですけど。本当にいいんですか?」
信じられないといった顔をしながらもクロードはちゃっかりと近寄ってきて腰を引き寄せられる。
薄布越しの体温に心拍数が上がり、間近にある黄金の瞳が優しく溶けるのに胸の奥が詰まる。
「さ、寒いから、もうごたくは」
本当は恥ずかしさで体の芯から熱いのだがそう言ってしまうと言葉をうばわれてしまう。
いつもより少し長い口づけはどこまでも優しく、ふっと強張っていた肩の力が抜ける。
そして無言で手を引かれて寝台へと誘われた。
「……これからもしばらく平穏と呼べない日が続くと思う。おそらくお前にもこれまで以上に負担をかけるはずだ」
ベッドの上に座ってフィグネリアは夫を見上げる。
「俺の方もたぶんなんかこの力で訳のわからないことに巻き込んじゃいそうですしお互い様ですよ」
クロードの指先がフィグネリアの銀糸の髪を梳いて、こめかみに口づけをひとつ落とす。
そしてその指がどくどくと脈打つ首元に降りてきてフィグネリアは体を硬くする。
「せめてこの時間だけは心穏やかでいましょう」
それはそれで別の意味で落ち着かないのだが。
耳元で囁かれる言葉にフィグネリアは頭の中がぐるぐるしてきていた。
「愛しています。誰よりも、あなたを」
肩を撫でたクロードの手がフィグネリアの手を取り、彼はその甲に唇を押し当てる。
そこからじんわりと熱は広がり、想いが胸を満たしてすうっと気持ちが落ち着いてくる。
「私も、愛している。だから一番近くにいて欲しい。これからもずっと」
そのまま掌を重ね合わせてふたりは寝台に倒れ込んだ。
見つめ合うと自然と笑みがこぼれて、喜びを分かち合うように唇を重ねる。
風がそっと天蓋を閉じて燭台の炎を消す。
もう言葉はいらないと思えるほど重ねた掌や混じり合う呼吸から愛に満たされてほんのひとときの穏やかな夢の中へとふたりは沈んでいった。
―了―