7.暗いささやき
金色の陽光を反射してキラキラ輝く水の帯が、視界を横切る形で下方に見えていた。帯に沿って視線をずうっと彼方へ伸ばしていくとその幅はどんどん広くなる。
まるで海のように横たわるそれが決して海ではないこと、また遥か彼方に見える建物群の中でひときわ大きなものが学校であることをセイルは事実として知っていた。
「……クラレット?」
呟きは風がさらっていった。問いに答える者は誰もいない。代わりに遠い記憶の中の快活な少女の声が耳に蘇った。
――変わった屋根だなって思ったでしょ。ここが講堂なのよ。こんな形の建物は他では見ないって、父様が言ってたわ――。
入学二日目に学校案内を買って出た親友の姉が、胸を張って得意げに教えてくれたのだった。普段のセイル少年なら「何を偉そうに」と悪態のひとつでもついたかもしれない。だが見るもの全てが目新しかったその時はただただ圧倒されて、彼は口をぽかんと開けたまま頷くので精一杯だった。
そして今も、セイルは呆然と眺めている。あれは子供の頃に住んでいた街に違いなかった。確信を持って断言できる。だってこの景色に見覚えがあるから。あれは学校の講堂だと判断するのも二回目である。
確かその時もセイルはひとりでここに立っていた。それから何かに導かれ、連れて行かれた先でしばらく閉じこめられていた、多分。
不可解なのは他の記憶がごっそり抜け落ちていることだ。幾ら思い返してみても軟禁された後はもう自室のベッドで目覚める場面しか出てこない。子供の頃の話だし、断片的にしか覚えてなくてもおかしくはないかもしれない。が、それにしたって時間が飛びすぎている。
ここで何があったのだろう。一体どうやって戻ったのだろう。
そもそも前回はどうしてここに来ることになったのか。今回来たことと関係はあるのか。
川からの風がセイルの頬をなで、黄金色の空へと舞い上がっていく。微かに甘い香りが混ざっている気がした。花の香りとは少し違う、だが確かに甘い何かの香りが鼻腔をくすぐる。
誘われるように向けた視線の先、崖下には水の帯が引かれていた。湖に注ぎこむ川のひとつだ。それを上流の方へと遡れば周りの緑と同化しそうな色の長細い屋根が、ほぼ埋もれるような形で見つかった。
(あそこ――)
前もここから見つけた屋敷である。辺りには他に建物らしい建物もなく、特に何も考えずにセイル少年はそこに向かった。件の屋敷には白髪の老婆が住んでおり、既に日も暮れていたから一晩泊めろと頼んだらそのまま閉じこめられた、のではなかったか。
セイルは眉を顰める。まるで子供の頃に聞かされたお伽噺だ。迷子の子供が魔女に捕まるものの命からがら脱出するという――。
お伽噺に準えるなど馬鹿馬鹿しい。そう思うそばで、では自分はどうやって戻ったのだろうという疑問も湧く。どうにかして抜け出したからこそ今の自分があるのだが、その方法はとなると全く思い出すことが出来ない。
対岸に霞むあの街がクラレットだとすれば、あそこにはウィンザールの別邸がある。間近に迫った兄の婚約パーティーのためにたくさんの使用人が準備に追われているはずだった。
要はあそこまで行けばいいのである。セイルも出席を命じられているし、予定より少し早く到着するだけだと思えば、この理不尽な移動に対する溜飲も下がるというもの。
そしてクラレットの手前に横たわるのはヴィーナ湖。ここからクラレットに向かうには、やや歪な楕円の形をしたこのヴィーナ湖を回りこむことになるだろう。大人の足でも数日はかかるであろう道のりを、過去のセイル少年も辿ったのだろうか。
――とんでもないことをしてくれましたね。
セイルは目を見開いた。突如脳内に響いたその嗄れた声。舌打ちこそなかったが静かな怒りが滲み出ていた。
――お前のせいで、一体どれだけの。
――そんなの知るか! オレだって来たくて来たんじゃねえし!
当時はまだ高かった声音で怒鳴り返した覚えがある。騙して閉じこめ自由を奪ったやつなんかに誰が屈伏するかと、ギラギラした目で睨みつけてやったのだ。
そんな自分を高圧的に見下ろしていた老婆の冷たい水色の目。おおよそ血が通っているとも思えない白い肌。
「……あー、やめだ。やめ!」
頭をぶんぶん横に振った。気分が悪くなるのなら思い返すだけ時間の無駄だ。
セイルは遙か彼方の建物群と、木立に埋もれた屋根を交互に見比べた。どのみち今日中にクラレットへ向かうのは不可能である。となれば考えるべきは今晩の宿だろう。距離からしてもあの屋敷を目指すのが妥当ではあるが――。
(もう、いないよな)
気乗りしないのは以前の嫌な思い出がついてまわるからだ。老婆と出会ったのは何年も前のことで、恐らくあそこは現在無人の可能性が高かった。
一晩夜露を凌げるなら荒れていようが何だろうが構わない。ゆっくり休めばここからの移動手段についても何か良策を思いつけるかもしれないし。
踵を返した。黄金色の光に照らされた木立が眩しく輝き、セイルの目を射る。青い空との対比は鮮やかだが、風に煽られざわめくのみの森はまるで作り物のような異質さがある。
セイルは溜息を吐いた。行く宛がはっきりしたものの、その足取りは重かった。同伴者の存在に思考が向いて。
脳裏に浮かんだのは色をなくした少女の顔。焦点を結ばない目はそれでも救いを求めるように必死でセイルを見上げていた。いつから見えないのか尋ねれば彼女は顔を伏せ、ほんの数時間前だと思うと消え入りそうな声で答えた。
「目が覚めた時から真っ暗で、ほとんど何も見えなくて……。夜なんだと思ってました……」
それまでも極度の弱視で視界は狭く、ただでさえ無い視力が日によって更に落ちることもあったらしい。だがここまで見えないのは初めてだとこぼし、その動揺ぶりは酷いものだった。
「お前、ここにいろ」
「えっ……」
セイルはカレンフェルテの右腕を掴んだ。若干の抵抗を感じたが有無を言わせず手近な木の傍に引っ張って行き、彼女を座らせた。
「やっぱりオレ一人で行って見てくる」
「でも」
「時間かけてられねえんだよ」
恐らく声のする方向からセイルの頭の位置を見当つけているのだろう。不安そうに潤む白藍の瞳は、しかしセイルのそれより僅かに低い位置を見つめている。視線の交わらないことが余計にセイルを落ち着かなくさせる。
すぐ戻ると言い置き、返事は聞かずにその場を離れた。あとは何も考えずただひたすらに足を動かした。一気に坂道を駆け上がった彼を待っていたのは黄金色に染まりつつある空と、それを鏡の如く映しこんだ湖水のある風景だった。
その景色に背を向けて、セイルは登ってきたばかりの坂道を再び下って行く。なだらかな下り道をしばらく行くと、やがて低木の陰に白い頭がちらちら垣間見えるようになった。近付くにつれ気分は一層重くなる。そうして残り僅かの距離を残し、セイルの足は遂に止まってしまった。
(別に連れて行かなくてもよくね?)
女の頭頂からしなやかに流れ落ちる美しい白金色の髪。それを眺めるうち、不意にそんな思いがよぎった。
『雪のように白くなるのを喩えて雪花人と呼ぶんだ。肌は陽の光に耐えられないようになり、視力は落ち、最後は失明する』
脳裏に蘇った兄の声は果たしていつ聞いたものだったのか。
力の行使に伴う症状には個人差があるとも言っていた気がする。けれど最後は皆総じて失明すると。
では、あの女に残されている時はもう僅かしかないということか。もうすぐいなくなる人間だというのか――春の陽射しに解けて消える雪のように。
セイルは低く呻く。喉が詰まったような感覚に息が出来ない。思わず一歩後ずさる。
カレンフェルテは破談になった縁談相手。ただそれだけの関係である。家族でもなければ友人でもなく、どうしても一緒に連れて行く必要があるわけではない。面倒を見なければいけないわけではない。
わざわざお荷物を抱える義理は全くないのだ。




