6.うつろの森
「……おい、大丈夫か?」
身動ぎせずぼうっと倒れたままの姿にさすがにどこかおかしいのかと、声を掛けた。カレンフェルテはそれに反応するようにゆっくりと瞬きをする。僅かにこちらを向いたのは自分以外にも人がいると知ったからかもしれない。
たっぷり時間をかけのろのろと上半身を起こした彼女はそこでようやく辺りの風景にきょとんとした。ぼんやりと首を巡らせ上方を眺めていたかと思うと次に地面に目を落とし、柔らかな下生えを撫でた。緩慢ではあるが動作自体は滑らかなこと、またその表情を見てもとりわけ問題はなさそうだ。
(のろまなやつ)
すうっと半眼を閉じながらセイルは思った。以前受けた印象となんら変わっていない。何をするにもゆっくりで、表情が乏しく、自己主張というものがないおかしな女。それがセイルがカレンフェルテに貼り付けたレッテルだ。
女が緩やかに振り向いた。降り注ぐ木漏れ日が白金色の髪を更に白く美しく輝かせる。長い睫毛に縁取られた白藍の瞳は光を反射し、宝石のように煌めいていた。確かに顔立ちは整っていると、セイルもその点は認めざるを得ない。彼女の周りだけまるで時の流れが違うかのような錯覚を起こしそうになる。
「すみません、あの……ここはどこですか?」
久しぶりに耳にした声も小鳥の囀りのように美しかった。桜色の小さな唇からおっとりと紡がれる声はどこかふわふわしていて頼り無い。
「……さあ?」
「え、でも、私……何故ここにいるのか、よくわからなくて……」
少女は困ったように小首を傾げる。セイルは僅かに眉を顰めた。よく普通に雑談など出来るものだと思った。破談になった縁談相手なのだ、てっきり嫌な顔をされるだろうと思いこんでいた。実際、邸宅に出向いた際は挨拶もそこそこに、あっという間に奥に戻って行ったのを見ている。カレンフェルテにとってのセイルは恐らく会いたくない人間の筆頭に違いないはずだった。なのに今 目の前にいる少女からは嫌悪感の欠片も、動揺さえも感じられない。
一瞬、人違いの可能性がよぎった。どこからどう見てもカレンフェルテその人にしか見えないが、もしかすると他人の空似で全くの別人なのだろうか。
双子でもない限りこんな顔でこんな容姿の人間がこの世に二人いるとも思えないのだが。
「……知るかよ」
こめかみを押さえながらセイルは顔を背けた。ここがどこなのか、何故ここにいるのか、それはむしろ自分が知りたい。
辺りを見回した。
天を目指し真っ直ぐに伸びる木々の緑が遥か高みを覆っていた。その根元には様々な低木が茂みを成している。花を咲かせるもの、既に若い実を結ぶもの、アッシュではないので名称だのなんだのと難しいことは分からないが、どれもなんとなく見覚えがある気はした。
木漏れ日がそこかしこに美しい陽だまりを作り、風が吹くとその光が揺れた。梢のざわめきが耳に心地好い。何の変哲もない、至って普通の森のようだった。
だがどうにも違和感が拭えない。何がおかしいのかと首を捻り、やがて唐突に気付いた。
ここには生き物の気配が全くない。
自然溢れる地で育ったセイルにとって森は慣れ親しんだ遊び場だった。そこに暮らす生き物はオモチャにもなる遊び相手だった。季節によって見掛ける種に差はあれど、常に何かしらの生物がいるものだ。それが鳥の鳴き声どころか虫の羽音一つしない森、そんな場所にセイルたちは放りこまれている。
実は何か恐ろしいことが起こっているのだろうか。或いはこれから危険が迫るのか。生き物は総じて危険を察知する能力に長けている。逸早く避難したのだとすれば辻褄は合う。
(危険……そういやさっき危険って聞いた、よな……)
あやふやな記憶を辿ればやたら耳障りな声質でキケンキケンと連呼していたような気がする。それこそ虫の羽音のように耳元で。頭の周りで。顔の傍で。
ただそれが一体誰の言葉だったのか、いつ聞いたのかなどはどれだけ思い返そうとしても全く分からなかった。目が覚めてからずっと分からないことばかりだ。
セイルはおもむろに立ち上がった。まだ若干の頭痛は残っていたが目眩は起きなかったことに胸を撫で下ろす。
いざ立ってみると地面が緩やかに傾斜していることに気付いた。もしかすると平地ではなく山の斜面なのかもしれない。辺り一帯の高度が知りたいところだ。が、頭上は所々に小さな空が垣間見えるのみ、また下りの方は低木が鬱蒼と茂りその先に進むのは至難そうだった。首を返せば登りの方がまだ歩きやすそうだ。何と言っても木立の向こうに見える広い蒼穹がセイルを呼んでいるように思えた。
最優先事項はやはり場所を特定することだろう。それから可能であれば日が落ちる前にどこか安全な場所に移動すること。救助が来ると分かっていればこの場を離れないのが賢明かもしれないが、ここがどれだけ人里から離れているのか、果たして救助が来られる場所なのか、セイルには何も分からない。そもそも自分がいなくなったことに何人が気付いているだろう。気付かれていなければ待つだけ無駄である。自力で安全圏まで移動しなければならない。
そうなると尚更斜面を登った方が良さそうに思えた。高地からの方が見晴らしが良いのは自明の理だ。それで人里か民家でも見つかれば御の字だろう。
「あっあの……っ! どこへ……!?」
慌てた声が耳に届いてセイルは思い出したように目線を下げた。カレンフェルテが悲愴な顔をして必死に見上げていた。
「あっち見てくんだよ。ここがどこか分かるかもしれねえし」
「わ、私も連れて行って貰えませんか!?」
「はぁ?」
セイルは眉間に皺を寄せた。何やら嫌な予感がした。
* *
「オルジュ様ー! オルジュ様どちらにいらっしゃいますの?」
愛らしい声、それにパタパタと軽い足音が館の中に響く。幼い少女が部屋の扉を開けては中を覗きこみ、誰もいないのを確認しては閉める作業を延々と繰り返していた。その顔からして彼女が急いでいることは一目瞭然だったが、だからといって扉を乱暴に閉めることは決してしなかった。飽くまで丁寧にきっちりこなしていく。
未確認の扉が残り少なくなってようやく主の姿を見つけた少女は、ぷりぷりと頬を膨らませ駆け寄った。
「オルジュ様! どうかお庭に出てくださいな。皆の声がこちらにも届いてますでしょ? 幾ら大丈夫とわたくしが申しても誰も聞いてくれませんのよ? なんとか言ってやってくださいまし!」
風通しの良い窓辺に持ってきた揺り椅子で午睡を決めこんでいた老婆は随分前から少女に気付いていたのだろう。目を閉じたままひらひらと手を振った。
「わたしが出ても同じでしょう。話を聞かない者には何を言っても無駄ですよ。それよりどうですか、あなたもここでお昼寝を」
「違いますわ!」
ダンッと大きな音を立てて少女が一歩踏み出す。
主の態度は想定の範囲内ではあった。だがだからといっておとなしく引き下がるわけにはいかないのだ。拳を握り、そのままずいっと迫る。
「皆、オルジュ様には敬意を払っておりますもの。オルジュ様がお姿を見せてくださればたちまち静かに聞き入りますわ!」
「……わたしの言い分は、さっきお前に伝えたので全部ですよ。危険なんて馬鹿馬鹿しい。たかだか人の子一人、おびえる必要はありません」
「二人ですわ! それに幼子ではなくて大きな男と白い女という話ですわ! 男の方から知ったニオイがすると報告したものがおりますのよ。以前同じニオイを持つあの子供にわたくしたちがどんなに惑わされ煩わされたか、オルジュ様も覚えておいででしょう?」
少女が訴えるのに合わせてその二つに結われた毛束がくるんと踊った。それから少女はぶるりとその身を震わせた。当時の惨状は今もありありと思い浮かぶ。
あれは悪魔のような子供だった。されたことも、その後始末に追われたことも、忘れるにはまだまだ日が浅すぎる。それでもようやく落ち着きを取り戻し、皆がそれぞれの日々の営みに戻ってきたというのに。
ほんの数時間前、突如現れたというその男はあの悪魔と同じニオイを持っているらしい。
きっと仲間に違いない。
更に酷いことになるに違いない。
仲間まで連れてきたのが良い証拠ではないか。
一帯に棲む同胞らは口々に叫びながらこの館へ駆けこんできた。ひとまず庭へ誘導したが既に数えきれないほどの者が集まっている。この分ではまだ更に増えるだろうことを考えると、最早少女の手に余る案件となっていた。
少女はツンと顔を上げて口を開いた。
「オルジュ様にお仕えするのがわたくしの役目ですけれど、あんなことになると分かっていればあの子供のお世話などしませんでしたわ。毒に中てられたままじわじわ弱れば良かったのですわ」
「フウラ」
飛んできた鋭い声にハッとする。いつの間にか老婆は目を開き、少女の顔をしっかり見据えていた。
「言葉には気をつけなさい。お前は特に、力を持っているのですからね」
煌めく水色の瞳にはちっとも老いを感じさせない力強さがある。フウラと呼ばれた少女は失礼しましたと謝罪の語を述べ、ドレスの裾を摘んで優雅に一礼した。そのあとで毅然と主を見返し「ですが、」と食い下がった。
「オルジュ様にはなんとしても出て頂かなくてはなりませんわ。このままではお庭が滅茶苦茶に踏み荒らされてしまいます。わたくし、同胞の危機を黙って見過ごすわけには参りませんの」
真剣な目がオルジュに向けられていた。彼女の虹色に輝く瞳をオルジュは酷く気に入っている。その目で真摯に訴えられれば聞かないわけにはいかない。何より他の人間が願うのとこの華奢な少女が願うのとでは意味合いが全く違ってくるのだ。フウラが求めるからこそ、その訴えは重みを増す。
老婆は小さく息を吐いた。
「……同じことしか、言えませんよ」
その瞬間少女の顔が目に見えて輝いた。その頭を軽く撫で、オルジュはやれやれと身体を起こした。
* *
ただの確認であることは再三説明した。目的地はここから見えており大した距離でないことも強調した。故に、自分一人で充分なのだとも。
だがカレンフェルテの真剣な目は少しも揺らがなかった。
「お願いします。すぐそこなら尚更一緒に行かせてください」
口を開けばこの一点張り。セイルは疲れたように息を吐いた。実際疲れていた。この女、自己主張などないのではなかったのか。
これが仮にアッシュであれば――、知識に明るい彼ならば自分たちが置かれた状況を冷静に判断、分析して幾つも道を示してくれるだろう。小さな頃から共に遊び、喧嘩もし、お互いをよく知るからこそ頼りになる心強い存在だった。
けれども今ここにいるのは気の置けない親友ではなく、たった一二度会っただけの中身もよく分からない女。一緒に連れ歩くのも来るなと説得するのも、どちらを提示するにしろ最早面倒でしかない。
「……勝手にしろ」
溜息と共に吐き出して、セイルは背を向けた。
飽くまで自分は自分のペースで行くだけだ。それについてきたい、ついてこられると言うのなら勝手についてくればいい。
ぽっかりと開けたように見える木立の切れ目まではなだらかな登り坂だった。急ではないが所々に木の根が顔を出しており、時折 足をすくわれそうになる。よくよく注意して歩けば特に厳しい道のりではないが――そう思った直後、背後で派手な音がした。それに、悲鳴も。
振り返れば遥か後方に白い絨毯が広がっていた。つい既視感を覚えずにはいられない、とても見覚えのある絨毯だ。
セイルは腕組みをし、すぐ傍の木にもたれた。絨毯がよろよろと起き上がるのを白い目で眺める。眺めながら、行動が遅い上に鈍臭い女だと新たなレッテルを貼り付けた。
大きく息を吐き、それから進行方向に目をやった。先程の場所からだとようやく半分過ぎた辺りだろうか。ゴールはすぐそこのように見えて、この調子ではまだまだ先のようにも思えてくる。
仮にあそこまで辿り着けたとしよう。今危惧しているのはそこが見知った場所かどうかでは既になかった。あの先に道は続いているのか否かだ。もし断崖絶壁などであれば引き返すしかない。あの鈍臭い女を連れて今来た道を再び歩いて戻り、別のルートを探さねばならないのだ。――考えただけで気が滅入る。
降り注ぐ木漏れ日はまだまだ明るいが、先程に比べて若干黄味が強くなっている気がした。陽が傾き出したのかもしれない。時は無駄にすべきではなく、となるとやはり一人で見て来た方が良いという結論に落ち着く。
再度説得するしかない。もし言っても聞かないようであれば今度こそ置いて行こう。骨折り損だけはなんとしても避けたいところである。
そう決心し、セイルはやおらカレンフェルテの元に足を向けた。お陰で再び歩き出していた彼女がまたよろめいたのを今度は既の所で受け止めることが出来た。特に助ける気が合ったわけではないが、目の前でふらつかれれば手を伸ばすのは反射的なものだろう。
「すみません……!」
安堵の息を吐き、ハッと我に返った少女はわたわたと離れた。そそくさと身なりを改め、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「真っ暗で、足下がよく見えなくて……」
「はぁ? 何言ってんだよ、まだ充分明るいだろ。目、見えてねーのかよ」
セイルは少女を見下ろし溜息混じりに言い捨てた。その瞬間カレンフェルテの笑顔が固まった。単なる軽口のつもりで何気なく口にしたそれをセイルも頭の中で反芻し、一拍置いてハッと息を呑む。
彼女は雪花人。
命を削り、不思議の力に変え、行使出来る者。
兄からも聞いたし、内容の薄い関連書籍にさえしっかり載っていた。それくらい視力低下は代表的な症状だ。なのにその事実を失念していたことにセイルは今ようやく気付いた。
「……明るい、の……?」
震える声が耳に届いた。
セイルを見上げるカレンフェルテの口許には辛うじて微笑みが貼り付けられていた。だが彼女の瞳の焦点は、セイルのそれとは決して交わることはなかった。




