21.ぎりぎりの妥協点
長い睫毛に縁取られた白藍色の丸い瞳。その双眸がより丸く見開かれていく。セイルはハッと口を押さえた。オレは今、なにを口走った?
ゆるゆるとカレンフェルテが小首を傾げた。桜色の小さな唇が僅かに開いて、
「ウィルトールさん、」
無垢な声が零れ落ちた。――それがとどめだった。
「うあぁぁ!」
慌てて隣室に駆け戻った。ベッドに飛びこみ頭を抱え、ごろんごろんとのたうち回る。
しまった。やらかした。
よりによってなんであの名前を口にしたのだろう。そう思うそばからもうひとりの自分が理由はひとつしかないじゃないかと零す。
――ウィルのせいじゃん。
あのとき頭の中にいたせいだ。顔を合わせればいつも小言ばかり言ってくる兄は、合わせてなくてもこうやってセイルを貶める。どこまで邪魔をしてくる気だろう。本気で腹立たしい。
急に目眩がした。
「ん……、わっ!」
疑問に思う間すらなかった。背中にドンと衝撃を受けて息が詰まる。誰が攻撃してきたかと思えばなんのことはない、ベッドから落ちたらしい。セイルは深く息をつくと腕を持ち上げ視界を覆った。
もう全部ウィルのせいだ。
室内はしんと静まり返っていた。おかげで部屋の外を歩く足音が嫌にはっきりと聞こえてくる。そういえば扉を閉めなかったかもしれない。まあそんなことはどうでもいい。今セイルが抱えている問題に比べれば大したことじゃない。
白藍の双眸が瞼裏にちらつく。
なんでアイツはあんな顔をしたのだろう。何に驚いたのか――もしかして名前に聞き覚えがあったのだろうか。そんなに珍しい名前でもないはずだし、すぐウィンザールと結びつけるとも思いにくいが。
とはいえ仮に同名の人間を集めたとして、その中で一番有名なウィルトールといえばやはりウィンザール家の三男ということになるだろう。そこから連想してセイルの身の上に勘づく可能性は――。
「まあっ! そんなところで何をしてるんですの!?」
「わぁっ!」
突然の大声に肩が跳ねた。いつ部屋に入ってきたのか、白い髪の幼女が両手を腰に当てセイルを見下ろしていた。
「どこに行ったのかと思いましたわ。床で寝るのがお好きなら初めから言っておいてくださいませ」
「おまえ……」
おもむろに半身を起こす。冷めた目を向けてくるフウラをセイルは半眼で睨み返した。
「何度言えばわかるんだよ! びっくりさせんなって」
「具合はどうですの? 顔色は大して悪くなさそうですけれど……ああ、あなたのおつむが悪いのは存じ上げておりますわ。お顔のど真ん中にはっきり書いてますものね、勢いだけが取り柄だと」
「は、ちょっと待て。今なんつった?」
「すっかりお元気そうですわね。では隣のお部屋にいらしてくださいな。今すぐですわよ」
「おいもう一度言えよ! おまえ今オレのこと――」
フウラはぱっと踵を返すと出ていってしまった。
呆けることしばし。たっぷり十数秒経ってからセイルは吠えた。両手で頭を掻きむしる。
「んあーっ! なんなんだよアイツは!」
平気で悪口を言ってくるわ毒は盛るわ、あんなに失礼なガキは見たことがない。
しばらくむかっ腹を立てていたセイルだったが、
「となり!?」
ハッと宙を仰いだ。
部屋を飛び出したセイルの視界に手押しワゴンが飛びこんできた。開け放たれた扉の前にぽつんと置き去りにされたそれはまるで主人に〝待て〟をされたペットのようだ。
脇をすり抜けるようにして入室する。数歩進んだところでセイルの足はぴたりと止まってしまった。
さっき飛び出してから小一時間も経っていない。なのに見渡した室内は少し薄暗くなった気がした。カーテンは開いている。窓の向こうには未だ光あふれる緑が見えているが、多分太陽の位置が変わったのだろう。
幼女はベッドの手前に立っていた。こちらに背を向け、しきりに手を動かしている。一体何をしているのか。セイルからだとちょうど一直線に重なるために、肝心の姿が見えない。見える位置まで移動すべきかと逡巡するも足の裏には根が生えてしまっている。
「これでいいですわ」
「あ、ありがとうございます」
声がした、そう思ったときにはもうフウラはベッドを離れていた。半身を起こしたカレンフェルテは先ほどとなんら変わっていない。一刻を争う危機というわけではなさそうだ。
カゴを抱えて歩いてくる幼女からすれ違いざまに清涼感のある香りが漂う。包帯の取り替えと薬の塗布といったところか。
少しの安堵感を胸にセイルは大きく身体の向きを変え、視界から彼女の姿を追い出した。
――紛らわしい言い方しやがって。
嫌がらせだろうか。しようと思えばいくらでも穏便に伝えられるはずなのにそれをしない。もはや悪意しか感じられない。とはいえわざわざ口にするのも面倒くさく、セイルはとりあえずカウチの方へと足を向けた。
「どこに行くんですの」
「あ?」
フウラが手押しワゴンを押してきた。テーブルのそばまでやってきた彼女は蓋がされた食器や水差しなどをてきぱき下ろしていく。
「あなたにはお世話を。腕の腫れは引きましたけどまだしばらくは痛むはずですもの。お食事をとるのは難しいと思いますわ」
「はあ!? なんでオレが!」
「手が空いているでしょう? ご自分のことはご自分で。お連れの方のお世話はお連れの方がお願いいたしますわ」
「勝手に決めんなよ。おい!」
押し黙り、ツンと澄まし顔で食事の用意を整えたフウラはやはりセイルには構わずスタスタ部屋を後にする。扉の前で振り向いた彼女は姿勢を正すとセイルをまっすぐ見据えた。
「明朝また参ります。オルジュさまのご好意を無下にだけはしないでくださいませ」
軽く一礼をし、幼女はにっこりと口角を上げた。扉がゆっくりと閉められる。
口を挟む隙を見つけられず呆然と突っ立っていたセイルは、やがてカチリと響いた金属音にハッと我に返った。急いで駆け寄るも時すでに遅し、扉はびくともしない。思わず舌打ちをひとつして、
「またかよ!」
ガン、と扉を蹴り飛ばした。
わざと大きな音を立ててカウチに腰を下ろした。これまた大きな溜息を吐き出すと、ぎりりと奥歯を噛み締める。しばらく扉を睨めつけていたセイルはいらいらと足を組み替えた。
まるでデジャヴだ。
幼女が置いていった器の蓋に手を伸ばした。中身は腹持ちのよくなさそうな粥状の何か。もう片方の器も同じものが入れられているようだ。具沢山のスープというには汁気が少なく、煮物というには具材が細かすぎる。ぐずぐずに煮込まれたそれが一体何の食材の成れの果てか、セイルには見当もつかない。
「――ちょっと待て。大丈夫か、これ」
器を顔の高さに持ち上げた。角度を変えてまじまじと眺め、匂いを嗅いでみる。特に刺激臭などは感じないが。
思えばあの幼女が用意した食事の二度とも変なものを盛られていた。となれば今回もまた何か仕込まれていると見ていい気がする。口にするのは危険が伴うのでは。
「食わない、ってのも手か……?」
「あのぅ……」
「ああ?」
蚊の鳴くような声が耳朶を打った。ベッドの中から気遣わしげな瞳がセイルを窺っている。
「あの、私なら大丈夫なので、気にしないでください」
「……は?」
セイルの眉間にしわが刻まれた。だが、
「左手はだいぶ治ってきてるんです。動かしてもあんまり痛くないですし……」
カレンフェルテの朗らかな声音は変わらなかった。表情の微妙な差異までは見えていないのだろう。セイルに向けて左手を掲げ、ゆっくりと握ったり開いたりしてみせる。
「ね?」
微笑む面持ちに嘘や虚勢は感じられない。袖から覗く青黒い痣は相変わらず痛々しいが、見た目ほどは酷くないのかもしれない。
「申し訳ないんですけどお食事を取ってもらえませんか。あとは自分でしますから……」
「あ、ああ……」
セイルは器に再度目を落とす。迷ったのは一瞬、すぐにスプーンを突っこむと腰を上げた。
――まあ大丈夫か。
今さら毒を盛ったところであちらには何のメリットもないはずだ。何もしなくたって明日になれば厄介払いができるのだから。それにもし危害を加える気ならカレンフェルテの包帯をわざわざ替えたりもしないだろう。だからこれも普通の食事に違いない、多分。
「ありがとうございます」
ふわり、まるで花が綻ぶようにカレンフェルテは笑みを浮かべた。セイルの口がへの字に歪む。
「ん、ああ、うん」
「ウィルトールさんもどうぞ召し上がってくださいね」
「う、んんんん……」
小さく唸った。そうだった、まだ問題が残っていた。それも一番面倒なやつが。
「……あの?」
カレンフェルテが遠慮がちに首を傾げた。癖のない長い髪がさらと肩を滑り落ちる様にセイルはギクリと息を呑む。
あたふたとカウチに戻った。もう片方の器を手に取りひとさじ、ふたさじと口に運ぶ。全く味がしない。だがこの際味は二の次だ。器を空にすることに専念し、一心不乱に腕を動かす。
「あ、ウィルトールさん」
「っん!」
料理が変なところに入った。大きくむせながらセイルは慌てて水差しに手を伸ばした。こちらは柑橘の香りがついた水だった。わけのわからない妙な茶ではなかったことに安堵し、一息に飲み干した。
「あの、大丈夫ですか……?」
「ん、う、なに」
「あ、ええと、鍵が閉められてしまったみたいですけど……。この部屋、ベッドがひとつしか」
「……あー。オレはここでいい」
その話か。セイルはカウチをとんとんと叩いた。さすがに病み上がりの人間にベッドを譲ってもらおうとは思わない。
「でも、ベッドの方がいいですよね。ウィルトールさん、背が高いので」
「う……。やっぱりそれは……」
「はい」
グラスをテーブルに戻す。顔を上げるとカレンフェルテの方もセイルを見ていた。目があって思わず腰が引けるが。
――アイツははっきり見えてない。こっちを向いてるだけ。
膝の横でぐっと拳を握りこんで息を整える。やはり訂正はしなければならない。
「その、あのさ。名前、なんだけど」
「はい。……え、名前?」
「本当は、そうじゃなくて……」
しどろもどろに答えるとカレンフェルテがきょとんと目を丸くする。セイルは身体をまっすぐ少女に向けた。やっぱり、どうしても、兄の名で呼ばれることは堪え難い。
『セイル』
厳しい藍色の瞳に背後から睨まれている気がした。『名を騙ってどうするつもりだ』とそんな幻聴までしてくる。
だがそれでも。今だけはどうか何も言ってくるな。脳内の幻にそう念じつつセイルは生唾を飲んだ。
* *
かすかな金属音が耳に届いた。セイルがハッと目を開けるのと小さな来訪者が「あら」と驚いたのは同じ頃合いだった。
「おはようございます。よくお休みになれましたかしら」
白く長い髪を頭の両端で揺らしながら、フウラがにっこりと歩いてきた。抱えているのは医療品を入れたカゴで、今朝の荷物はどうやらそれだけのようだった。
室内は薄青い光に満ちていた。あくび混じりに半身を起こしたセイルは大きく伸びをした。カウチの端に乗せていた足を気怠げに床に下ろす。
首を回して身体をほぐすセイルの視界の外で、ひそひそと挨拶を交わす声が聞こえていた。取り立ててそちらを見ることはしないが、声音からしてカレンフェルテの体調はだいぶよくなっているようだ。
水差しに手を伸ばした。柑橘の香りがついているだけでずいぶんと喉越しはいい。
「準備が整いましたら表の方にお願いいたしますわ」
グラスにのんびり口をつけているとフウラがテーブル脇に戻ってきた。使用済みの食器類を手早くワゴンに積みこんでいく。
準備も何もセイルたちは身ひとつだ。どんな嫌味だと半眼を閉じて睨んでいたがフウラにはどこ吹く風、ワゴンを押してさっさと部屋を出ていった。
「そうそう、」
かと思えばフウラは一度閉めかけた扉を再び開き、ひょっこり顔を出した。
「太陽が昇り切る前に出てきてくださいませね。でないと今晩もまたこちらで籠っていただくことになりますわ」
太陽、と口の中で呟く。眉を顰めるセイルに構うことなく幼女は今度こそ立ち去った。
太陽が一体なんなのだろう。半身を捻って背後に目をやるがカーテンの引かれた窓はその隙間から白く眩い光を溢れさせているだけ。わざわざ立って外を窺うのも面倒だ。
まあいいかとセイルは再び姿勢を戻した。
「お待たせしました」
まろやかな声が降ってきた。カウチの横にカレンフェルテが佇んでいた。目があうと彼女は唇に笑みを乗せた。
「行きましょう、トールさん」
「あ、ああ……」
耳慣れない。だが今のセイルにとってこれがぎりぎりの選択だった。
なんとも言えない居心地の悪さを胸元を指で引っ掻くことで紛らわせ、セイルも腰を上げた。




