第10章 第1話 王城の神
たどり着いたあの日の場所、帰還したはずのあの日の王宮。
その宮殿は、役割を終えたように色を失い、なかば崩れかけていた。
緑深かった前庭には、灰色の葉が積み重なり、彼方に見える大扉は、あの日彼らが開けた姿のまま、だらしなく口を開いている。
アーサーが一度唇を噛み、扉へと駆けるその後ろを、数歩あとからジークが追う。
迎え入れるようなその先へ、二人は歪んだ鉄の隙間から、城の中へと踏み込んでいた。
かつての王城の面影は、もはやどこにも感じられない。
磨き上げられていた石の床は、押し上げられて無惨にひび割れ、落ちた天井が折り重なって白く積まれる。
朽ちた絨毯は赤い繊維を周囲に散らせ、二人の足元では白と赤の混じった塵が、砂のように舞い上がっている。
「――たった一年だ」
こぼれるようにアーサーが言う。
「たった一年で、どうしてなんだ。俺達は、百年も時を超えてきたのか?」
ジークは答えない。
魔界を出た日のあの日の城と、今の城とを重ね合わせることはできない。
しかし記憶を辿るように、彼はかすかに声を漏らす。
「――母上」
アーサーが怯えたように顔を上げる。
「ジーク、お前――」
――かつて。『本来の』王家が滅んだ時。
人だけでなく城もが滅びるこの姿を、彼は『見ていた』のかも知れない。
――亡国の王子。
――父を失い、母に逃された、白い翼の王家の末裔。
「――すまない」
喉の奥に、熱い塊が沈んでいく。
視線を合わせることさえも拒絶するような顔を引き上げ、アーサーは独り言のように口にすしていた。
彼の背後でジークの気配が、わずかながら動いた気がした。
城内はどれほど進もうと、見覚えのあるものにはならなかった。
打ち捨てられたような有様は、進むに従ってその程度を増し、床の赤は色を失い、褪せた紅色の毛氈はもはや繊維を散らすこともない。
やがて訪れる崩れた部屋。
かつては緋色の床と、照明が照らしたその場所は、アーサーが姉の最期を看取った場所。
しかし彼は足を止めない。
後ろに聞こえる友の足音を導くように、彼はさらに先へ、玉座の間へと歩み続けた。
そして、見える黒い扉。
王の威厳を示すように、装飾が彩るその扉も、もはや扉と呼べるものではなかった。
金の枠は押し砕かれ、扉表面の装飾は落ち、残骸は周囲を高く塞いでいる。
もはや互いに言葉はない。
目を合わせる必要も感じないように、アーサーがまず戸板の断面に指をかける。
黒く冷たい鉄の瓦礫。
数歩上った下方から、瓦礫を踏む音を背後に聞き、アーサーは瓦礫の頂を超える。
見慣れたはずの玉座の間。
玉座はまだ、そこにあった。
かつて父王がその場所に座し、威厳を放っていたはずの繻子の玉座。
今は完全に横に倒れ、君主を支えた肘掛けも、力なく床に抱かれている。
背後の壁は大きく崩れ、その向こうには灰色の空、そして黒い部屋の、壁の一部が覗いていた。
「――親父」
瓦礫を降りたアーサーが、石のように足を止めた。
肩の上に、ジークの掌が感じられる。
だがそれを打ち払うように、彼は一気に火炎魔法の印を描いた。
咆哮とともに放たれた火球が、玉座の後ろの、高い壁を弾き飛ばす。
あの日と同じ漆黒の壁。
あの日と同じ円形の堀。
しかし堀に空洞はなく、粗い表皮の黒い木の根は、隙間の全てを埋め尽くしていた。
そして、あの黒い球体もまた、貫く木の根に砕かれたか、すでに姿は見えなかった。
街も、城も、全てを飲み込む黒の木の根。
黒い部屋さえも飲み込み、ねじ曲がったその表面には一人の男が腰掛けていた。
あの日の三者の誰とも違う、黒い髪に赤い両目を持った男。
待ち構えた手札をようやく手にしたかのように、根の表面から立ち上がる男は、挑発するような声で告げた。
「遅かったですね。『白の世界樹』。
そして、アーサー――、偽りの王子――」
「その声、貴様、あの時の――!」
彼の言葉に、顔をしかめたアーサーが返す。
聞き覚えのある声――あの日王の傍らにいた、黒いローブの男の声。
黒髪の男は唇の端を一度吊り上げ、そして先程とは違う声で今度は告げる。
「それとも、こちらの声のほうがよろしいですか?」
『ロシェ』の声。
アーサーの顔が一気に歪む。
「――いい加減にしろ」
凍りつくアーサーに代わるように、ジークの声が低く響く。
「お気に召しませんでしたか」
男は肘を曲げ、掌を上に、わざとらしく首をすくめる。
「その表情、瓜二つですね。千年前、人間界まで一部とはいえ出せた私を、再びこの世界へと押し戻させたあの男と」
ジークの表情は変わらない。
「それだけに癪ではありませんか。『人間』に命じて殲滅させた翼の統治者。その末裔が生き延びていて、今また再び、私の夢を滅ぼそうとしているなど」
「貴様――まさか!」
アーサーの声に、男は歯を見せ、口の端を吊り上げて、破顔の笑みを浮かべていた。
「『ロシェ』ではありませんよ。
我が名は『ロキ』。あなたたちが神と呼ぶもの
――そして――」
「――!」
『ロキ』の腕が一気に上がる。
ジークがアーサーに掴みかかる。
彼らの立ちる床が弾ける。
白い床が吹雪と吹きあげ、重い霞が周囲を覆う。
やがて、風が散らせた霞が神に視界を許したとき、そこに立つものは残されていなかった。




