EP 10
東海道三国同盟、成立
名古屋城本丸御殿・上洛殿の金箔の障壁画が、差し込む正午の陽光を浴びて、眩いばかりの輝きを取り戻していた。
広間の中央に並べられた長机の上には、幾重にも綴られた分厚い公用文書が広げられている。
愛知県知事・織田信長。
静岡県知事・徳川家康。
そして、急遽オンライン回線を通じて画面越しに参加した、岐阜県知事・斎藤道三。
三つの大国の君主が、それぞれの署名と公印を刻み込んだ書面――『東海道相互不可侵ならびに経済・生活保全協定書』。
さらに、その机の端にはもう一通、重要な協定書が並んでいた。
三重県知事・北畠具教の名代として立ち会った特使の日高が、恭しく万年筆を走らせた『伊勢湾・東海広域通商協定書』である。
「……信長公、家康公、そして道三公」
日高は立ち上がり、三人の英傑に向かって深々と頭を下げた。
「我が主・北畠具教公より言上いたします。三重県は、四日市石油化学コンビナートの自治と独立を認められたことに深く謝意を表します。本日の通商協定の締結をもって、四日市のエチレン、合成樹脂、ならびに半導体特殊薬品を、愛知・岐阜・静岡の三州へ滞りなく優先供給することを確約いたします。また、将来における【東海道・中部四州連合】への正式加盟につきましても、前向きに検討を重ねる所存でございます」
「うむ!」
信長は玉座から立ち上がり、黒革のマントを風もないのに翻して堂々と頷いた。
「日高殿、具教殿によく伝えておけ。伊勢の誇りと化学の城を、この信長が踏みにじることは二度とない。東海道の血管は、四日市の油が通って初めて脈打つのだ。共に生きてこその乱世よ!」
信長の力強い言葉に、画面の向こうの斎藤道三が煙管を揺らし、くくくと喉を鳴らして笑った。
『聞いたか、竹千代。尾張のうつけめが、すっかり大人の口を利くようになったわい。美濃の翼も、愛知の車輪も、駿河の道も、これですべて一本の綱に結ばれたわけだ』
対面に座る徳川家康もまた、丸顔を綻ばせて静かに頭を垂れた。
「道三公の仰る通りにございます。……信長公、これにて愛知・岐阜・静岡による【東海道三国同盟】が、正式に成立いたしました。誰かが誰かを従属させる覇権ではなく、互いの民の命と生活を等しく守り抜くための、揺るぎなき制度の誕生にございます」
パチパチパチと、広間に控えていた井川澪、藤堂直人、水野志保、そして静岡・三重の特使たちから、惜しみない拍手が沸き起こった。
戦国再臨の混乱から数ヶ月。
力による征服ではなく、互いの主権と限界を認め合い、生活の維持を最優先とした【中四州の広域産業連携】が、ここに確固たる土台を築き上げたのだ。
協定成立の効果は、まさに劇的であった。
調印から数日も経たぬうちに、濃尾平野から駿河湾、そして伊勢湾を包む広大な地域に、滞っていた物資とエネルギーの血流が怒涛の勢いで循環し始めた。
愛知県庁の屋上から双眼鏡を覗く信長の隣で、産業政策補佐官の井川澪が、弾むような声でタブレットのデータを読み上げた。
「信長様、信じられないほどのペースで各工場の稼働指数が回復しています!」
澪が画面を信長の前に掲げる。
「日本坂トンネルの応急復旧と富士川仮設橋の開通により、東名・新東名高速道路の安全回廊が完全稼働に入りました。静岡県からは、浜松や磐田で製造された小型二輪車、低燃費の軽トラック、そして農業用発電エンジンの第一陣が豊田の配送センターへ到着しています。さらに、温暖な駿河湾沿岸から届いた柑橘類や冬野菜、海産物が、愛知・岐阜のスーパーや配給所へ並び始めました!」
「うむ! 街の民どもが、朝から笑顔で並んでおったわ」
信長が満足そうに口元を緩めると、内政補佐官の水野志保が、胸の前で手を組んで続いた。
「医療の現場も奇跡のように落ち着きを取り戻しました! 四日市コンビナートの稼働再開によって、点滴チューブや注射器、人工透析用の樹脂フィルターの生産が再開され、愛知、岐阜、静岡の基幹病院へ即日配送されています! 県境を越える救急車のフリーパス運用も完璧に機能しており、昨日だけでも三県の境界を跨いで十二名の重症患者が無事に搬送されました!」
「さらに、防衛と治安です」
軍事補佐官の藤堂直人が、直立不動の姿勢でバインダーを開いた。
「愛知の守山・春日井、岐阜の各務原、そして静岡の富士・浜松を結ぶ【東海道安全保障評議会】の直通データリンクが二十四時間態勢で稼働を開始いたしました。浜松基地の警戒管制機(AWACS)が捉えた東日本の空域情報が、小牧や岐阜の防空隊へリアルタイムで共有されております。東海道の陸上輸送路を脅かす不審勢力やゲリラの動きは、現時点で皆無であります!」
信長は双眼鏡を下ろし、遠く東の空――霞の向こうにそびえる雪化粧の富士の峰を見つめた。
かつて本能寺の炎の中で夢見た天下布武。
あの頃は、城を焼き、敵を殺し、領地を奪い取ることこそが力だと思い込んでいた。
だが、いま信長の足元に広がっているのは、まったく異なる形の天下であった。
豊田の職人が削り直したベアリングが、静岡の軽トラックの車輪を回す。
四日市の化学プラントが生み出した樹脂が、岐阜の病院で子どもの命を繋ぐ。
美濃の山河で獲れた米が、駿河の漁師たちの腹を満たす。
巨大な機械と生身の人間たちが、互いの欠けた部分を補い合い、一つの巨大な命のように鼓動している。
「……これが、令和の天下の礎か」
信長は己の掌を力強く握りしめた。
傲慢を捨て、家康の諫言を聞き入れ、軍事の主導権を棚上げにして手に入れた、鉄よりも固い民生の結束。
四十六か国が睨み合う分断された日本列島において、信長は間違いなく、誰よりも早く、最も強靭な「産業と生存の要塞」を完成させたのだ。
――しかし。
その信長の誇らしげな横顔に、冷や水を浴びせるような硬い足音が近づいてきた。
「……信長公」
屋上の鉄扉を押し開けて現れたのは、静岡への帰途に就く直前の徳川家康であった。
家康の傍らには、特命秘書の本多が、昨夜信長に差し出したあの黒革のアタッシュケースをしっかりと抱えている。
「竹千代か。どうした、まだ名古屋の美味いものでも食い足りぬか」
信長が振り返って笑いかけると、家康は笑わなかった。
その小粒な瞳には、氷のように冷たく張り詰めた光が宿っていた。
「信長公。先ほどお渡しいたしました【全国四十七都道府県・戦国諸侯動向調査報告書】……すでにお目通しいただけましたかな」
「ん……?」
信長は眉をひそめた。調印の混乱と歓喜にかまけ、まだ冒頭の数頁をめくっただけであった。
「いや、これから澪やトウドウと精査するところだ」
「ならば、今すぐこの場で要点だけでもお聞きいただきたい」
家康は一歩進み出ると、本多に目配せした。本多が手早くタブレットを操作し、屋上の壁面に携帯型プロジェクターで最新の日本全図を投影した。
スクリーンに映し出されたのは、中部の三州を取り囲む、不気味な赤と黒の警戒色で塗り潰された隣国群の姿であった。
「信長公。我が東海道三国同盟の成立は、日本全国に凄まじい衝撃を与えました」
家康の低く重い声が、冷たい冬風に混ざって響く。
「愛知の工業、岐阜の航空、静岡の交通、三重の化学が結びついたという事実は、他県の諸侯にとって【中部に巨大な怪物が誕生した】という強烈な脅威として受け止められております」
「脅威だと? わしらは民を生かすために道を繋いだだけだぞ」
「他国から見れば、そんな言い訳は通用いたしませぬ」
家康は投影された地図の、富士山の北側――山梨県を指差した。
「まず、甲斐です。山梨県知事・武田信玄公が、我が静岡県境および愛知の東三河境に向けて、部隊の警戒レベルを最大限に引き上げました」
「信玄めが……」
信長の目がスッと細められた。
武田信玄。かつて三方ヶ原で家康を叩き潰し、信長をも恐怖の底に叩き落とした、戦国最強と謳われた騎馬軍団の総帥。
「山梨県は、強固な山岳防衛力を誇る一方で、燃料と生活物資の枯渇が日を追うごとに深刻化しております。信玄公は、我が同盟が東海道を固めたことで【甲斐が東西から完全に取り残され、干殺しにされる】と猛烈な危機感を抱いております。すでに山岳監視部隊を展開させ、東名や新東名を虎視眈々と睨みつけておりますぞ」
「……飢えた虎ほど厄介なものはないな」
「それだけではありませぬ」
家康の指が、さらに北の山々――長野県へと移った。
「信濃の主君・真田昌幸公です」
「表裏比興の者か」
「はい。長野県は、諏訪や松本を中心とする超精密機械産業と、豊富な水力発電所を有しております。昌幸公はその地の利を最大限に活かし、我が東海道同盟に秋波を送る一方で、北陸や関東の諸侯とも秘密裏に接触を重ね、自国の精密技術を最も高く買い取らせようと天秤にかけております。あやつは、中部の綻びを虎視眈々と狙っておりますぞ」
甲斐の武田信玄。
信濃の真田昌幸。
背後の山岳地帯に陣取る二大巨頭が、早くも中部の安定を揺るがそうと蠢動を始めている。
だが――。
家康が真に告げようとしていた凶報は、信玄でも昌幸でもなかった。
「信長公。信玄公や昌幸公の動きなど、まだ序の口にございます」
「何……?」
家康の声音が、かつてないほど深く、沈痛な響きを帯びた。
「我が静岡県の情報網が、日本海側から発信された【緊急電文】を捉えました。……信長公、今朝未明、越後国主・上杉謙信公が、新潟県庁において日本全国の四十七都道府県に向けた【公式宣言】を全世界に配信いたしました」
「謙信の……公式宣言だと?」
信長が息を呑む中、本多がプロジェクターの画面を切り替えた。
そこに映し出されたのは、白銀の雪に覆われた新潟の石油掘削基地――南長岡ガス田や岩船沖のプラットフォームの空撮映像であった。
そして、その映像の中央には、白頭巾を被り、氷のように澄み切った瞳でカメラを射すくめる男――越後の龍・上杉謙信の姿があった。
家康が、その宣言の要旨を読み上げた。
「『――全国四十六州の諸侯、ならびに苦難に喘ぐ日ノ本の民に告ぐ。
海外からの資源輸入が途絶し、機械は止まり、病院の灯は消え、民は寒空の下で飢えに怯えている。
我が越後新潟の地には、天が日ノ本に残した唯一の恵み――国内最大規模の原油採掘施設、ならびに天然ガス田が存在する。
この油は、越後一国の私物ではない。天が等しく民を生かすために与えたもうた宝である。
ゆえに、我が上杉家は本日をもって――自国内の石油および天然ガスを、全国の諸国へ公平に分かち合うための【全国資源交易制度】を設立する』……と」
「なっ……!?」
屋上にいた井川澪が息を呑み、藤堂が絶句した。
愛知県が豊田の工場でいくら部品を再生しようと。
岐阜県が各務原の技術でいくら航空機を直そうと。
静岡県が東名高速の道をどれほど頑丈に維持しようと。
それらすべてを動かすための血液――【原油そのもの】を地中から汲み上げられる拠点を、新潟の上杉謙信が完全に掌握し、それを武器とした世界規模の交易を呼びかけたのだ。
「謙信め……!」
信長の背筋に、冷たい戦慄が走った。
軍事力で脅すのではない。
武力で奪い取るのでもない。
日本中が喉から手が出るほど欲しがっている「油」を自ら差し出し、全国の諸侯を己のルールのもとに惹きつけようとしているのだ。
「信長公」
家康は静かに歩み寄り、信長の耳元に囁くように告げた。
「愛知が誇るトヨタの車も、自衛隊の戦車も、石油がなければただの鉄の箱にございます。三国同盟が結ばれ、中部の守りは固まりました。しかし……この令和の天下において、真の主導権を握るのは、鉄を叩く者ではございませぬ」
家康は北の空――日本海へと連なる険しい山並みを指差した。
その瞳の奥に、次なる時代の冷酷な真理が宿っていた。
「天下を動かすのは鉄ではない。――油だ」
冬の乾いた風が、名古屋城の天守閣を激しく吹き抜けていった。
信長は黒革のマントを握りしめ、越後へと続く遥かなる北の空を、爛々と燃え盛る眼光で睨み据えた。
東海道の門を開き、中部の足元を固めた覇王の前に。
今度は、戦国最強の二大巨頭――武田信玄と上杉謙信が、見えざる「燃料」という名の黒い血を巡る、空前絶後の資源戦争の幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




