第十話 記憶
救えない私を見送る彼を背に自宅の中へと入ると、靴も脱がず玄関にへたり込む。
華凛「もう...聖裕君ってば...」
そんな独り言は誰にも聞かれる事無く虚空を彷徨い消えて行く。私は彼に依存しているし彼もまた私に対しての想いが強い事が分かった今、それはとても嬉しい事だがそれと同時に自分が自分では無くなってしまう様な感覚を覚えてしまった為だ。
彼に依存して自分の存在意義を見出しているなんて知られたら彼はどう言うのだろうか。自分勝手な不安や孤独感を彼の存在と言う曖昧な物に置き換える事で不安や孤独感を拭えるのだが、そんな事をしてしまう自分が嫌になってしまい自然と目元が潤う。
華凛「あぁもう何で泣くの私...!」
頬から耳まで伝う生暖かい液体を腕で乱暴に拭う。シャツの袖には液体の染みが付き、自分の感情を事実として押し付ける様にしつこく主張する。今もし母が帰って来たら何と思うだろう。いや、そんな心配はしなくて良い。
いつもの様に私を突き放してリビングで寛ぎ始める事は既に予想が出来ている。
華凛「顔洗お...こんなの見られたら面倒だし...」
一人呟いた言葉に自分で返すのは何度目だろうか。自嘲めいた笑いを溢すと洗面所に向かう為に靴を脱いで廊下に足を乗せたその時、廊下に飾られた写真立てが目に留まる。綺麗に飾られた写真の内容は、笑みを浮かべる両親と私。
幼い私は二人の間に挟まる様にして指を二つ立てたピースサインをしているのが何とも幼稚で思わず笑ってしまった。こんなに純粋無垢な頃が私にもあったのだろう。この後二人が決別する事を知らない写真の中の私が、酷く羨ましく感じてしまった。
華凛「...そっか、」
一言を漏らす。今思うと、私は母に似たのかもしれない。やり場の無く留まる不安から目を背ける為に何かに依存して発散する。私という存在に不平不満を突き当てては一時的な悦に浸る。聖裕という存在を身勝手な感情で縛り付ける。
両方とも似た様な物。遺伝は此処まで人を変える物なのかと、また一つ新しい知識を得たがそれは私の為の糧にはなり得なかった。
華凛「私...ダメだな。聖裕君には釣り合わない。」
吐き捨てる様に言葉を溢して洗面所の扉を開けた。
私は母親みたいにはなりたくないと思っていたが、どうやら私は自分が思っていた以上に彼女の血が色濃く残っていたらしい。髪を洗いながら鏡に映った自分の顔を見ると酷く険しく見えた事に乾いた笑いが出て来て同時に涙が溢れた事も理由の一つだろう。
私は何て醜い人間なのだろうか。彼の貴重な"初めて"を奪ったのも、私の寂しさを埋める為なんて彼が知ったらどう思うだろうか。愛なんて優しい物は存在しない。孤独を埋める為に無垢だった彼を快楽の一部として扱ってしまったのだ。
更にその後私は自己嫌悪で彼とは一切連絡を取らずに彼を避けた。しかし、彼はそれでも私を許して更には愛のある関係へと発展させた。そんな聖人君子の様な人間の思考を自分の様な汚らしい人間が踏み躙ったなんて知られたら私は、
華凛「絶対嫌われる...。」
顔に付けた泡を流して勢い良く顔に冷水をかけると思わず身体が飛び上がってしまったが、今はこの冷たさが自分には相応しい。
きっと私の心は既に取り返しのつかない所まで来ているのだろうと言う漠然とした実感に襲われるが未だに顔はタオルから離れようとせず、身体が震え始めると嗚咽すら漏れ始めた。
華凛「ごめんなさい...聖裕君、私っ...!本当にごめん...!」
自分のした事の愚かさや罪悪感が涙と共に溢れて来る様で、私は暫くの間洗面所から動けずにいた。
そして同時に、自分が如何に彼を愛しているのかと言う事を再認識しては更に涙が溢れて来てもうどうしようも無くなってしまい思わずその場にへたり込む。
しかしそんな時でも運命は容赦せずに私を責め立てる様で、床に乱雑に置かれたバッグと、その中に無造作に投げ入れられたスマホが目に映った。
こんな物が無ければ私は彼の優しさに甘えないしこんな醜い自分を自覚する事も無かったのだろうと改めて自分の愚かさを呪ったが、それでも何とか彼との繋がりを保とうと考える自分に呆れている内に手はスマホと触れ合っている事に気付く。
そこで再び意識を現実に戻し、その手を離した。散々彼を自身の虜にした上に彼をからかって純情な彼の心を踏み躙ったくせに、この期に及んで彼との繋がりを絶とうとしないなんて。
しかし繋がりを絶てば、私は再び自分勝手な理由で彼の心を傷付けてしまうかもしれない。
この自己満足の様な愛情を手放すのは私にとっても彼に取っても最低最悪な事だと理解していたのだが、結局私はまた自分可愛さに彼からの連絡を待つ事しか出来なかった。
華凛「最低...本当に。だから皆に避けられるんだよ。人の上に立つ人間じゃ無い。最悪。馬鹿。クソ女。」
鏡に映る見慣れた気色の悪い女に向けて罵詈雑言を浴びせるが、彼女は何も感じていない様で私と同じ表情を浮かべるだけ。最後に大きな溜息を吐くと重い足取りでリビングまで行き、冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶で喉を潤す。
生まれたゴミをゴミ箱へそっと入れるた後、廊下に置かれたバッグを手に取って二階へ続く階段を一段一段、踏み外さない様に登って行く。普段よりも重量を感じるのは気の所為だろうか。それとも、私の心が今迄に無い程に重たいからなのだろうか。
そんな馬鹿げた事を考えながら自室の扉を開けると一気に解放感が襲って来た為に思わずベッドに飛び込む。この後は習慣化されたルーティーンと同じ。お風呂に浸かった後は自室に籠るのみ。唯一この家に住む私以外の人間、母とは一切関りを持たずに。
仮に関わった所で冷たくあしらわれるか無視を決め込まれるだけだろう。昔からそうだったのだ、あの人は家族に対して無関心であり自分もまた同じ様に母に一切の関心も興味も無くして今に至るのだから。
華凛「...私がこの家を自分の家って思えるのも、聖裕君がいてくれたからなんだよね。」
改めて考えれば、私と言う人間は母とすら接点が無いのだ。そんな私と彼が会えた事自体が奇跡の様な物で、偶然と言えばそれで片付いてしまう程簡単な話。しかし偶然と片付けるには勿体無いと感じてしまうのはきっと私の中で何かが芽生えたからだろう。
彼を手離したくない、もっと優しく接してあげたいし聖裕君の事を沢山知りたいとも思う様になったがその反面で自分の過去を彼に知られて嫌われる恐怖心や不安感も同時に襲って来た。
華凛「もう...嫌だな...」
そんな言葉を吐き捨てながら私は自室のドアを開ける。凝り固まった自責の念を洗い流す為にお風呂へと向かって足を進めては溜息を吐く。
やがて浴室のドアノブに手を掛けては隣の棚からバスタオルを一枚取り出し、汚れてしまった衣服を脱いでその場に投げ捨てると、鏡に映った自分の姿を見た。改めて身体を見詰めると彼と初めて会ったあの日が脳に過っては再び最悪の気分に陥れられる。
彼が始めて触れた裸体が私で良かったのだろうか。身体に張り付けられた蓮の蕾の様な二つの膨らみ、彼が掴んだ鞭の様にしなる腰、快楽を感じる原因となる太ももに挟まれた空所。
何度も他の男に触れられた時は少し嫌悪感が混じったが彼の時は全くと言って良い程何も感じなかった。
寧ろ私の身体で喜んでくれている事が嬉しくて仕方無く、自分の寂しさが埋まった悦、幼気な青年を私が支配していると言う愉悦、肉体的な快楽が混じっては何度も彼の愛撫を受け入れ、気付いた頃には私は『聖裕』と言う名の鎖で縛られていた。
華凛「いつまで自分慰めてんの、私。」
自虐的な言葉と共に鏡に映る自分の頬を叩くと、乾いた音が浴室に響き渡りながら私は脚を運んでシャワーを捻った。初めに出る冷水に身体が跳ね上がるが、それも一瞬で無くなりお湯になった身体を更に打ち付ける。
水か涙か分からない液体が絶えず頬を伝っては排水溝へと吸い込まれて行った。
華凛「あぁもう...」
何を考えているのだろうか、今の私にそんな余裕なんて無いというのに私はまだ何かを求めるのか。傲慢だ。こうして思考を巡らせるのも何処かで誰かに慰めて欲しくて堪らないからなのかもしれない。
何という愚かなのだろう、私と言う人間は何故こんなにも弱くて醜いのか。それはきっと母と同じ血が流れているからだと決めつけていると少しだけ気分が楽になった気がしなくもないがそれすらも『気の所為』と言った所だろう。
華凛「本当...聖裕君が居ないと何も出来ないね、私」
そんな情けない呟きはシャワーの音にかき消されてしまったのだが私の心に刻み込まれて二度と離れる事は無かったのだ。そして今になって自分の弱さを理解し始めた私は前に進む為にも鏡に映った自分を見て苦笑いを浮かべる。再び自己嫌悪に陥った時、お風呂のドアの先から扉が開く音がした。更には聞き覚えのあるヒールの音。18年間聞いて来た為に脳に染み付いてしまっている音。そして、今最も聞きたくない音だ。
あぁ、帰って来た。




