第十二話 『ソーロング』 4. 償いのために
本館連絡通路で桔平と忍は並んで歩いていた。
午後からの会議に必要な資料を忍が桔平に手渡す。
桔平の顔を見るや、多くの職員達が立ち止まって会釈をする。それから、隣にいるまだ若いがかっちりとスーツを着こなした長身の女性職員をいぶかしげに眺め、通り過ぎて行った。
そんな反応などどこ吹く様子で、二人は世間話に花を咲かせていた。
「礼也なんてケンカしてバツが悪くなると、綾さんが帰って来るまでずっと外で待っているんですよ。綾さんもそれがわかっているから当たり前みたいになっていて、いつも手をつないで一緒に宿舎に入って来るんです」
「あのわからんちんがねえ」窮屈そうに襟首に指を突っ込む。「イメージわかねえ」
「本当に、あの人がいなかったら、今の私達はなかったと思います」
桔平の表情がなくなる。
忍が何ごとかを告げようとしていることを感じ取ったからだった。
「こうちゃんのお姉さんが事故で亡くなったこと、ご存知ですよね」
「ん、ああ……」
「綾さんはそれが自分のせいだと思っているんです」
「……。また何で」
忍が足を止めて顎を引く。すべてを告げる覚悟ができたようだった。
「前に言っていました。ひかるを救えなかったのは自分のせいだって。自分の中に、ひかるがいなくなることを望んでいた心がある。だから、救おうとしなかったからだって」
「……何だ、そりゃ」
「……。綾さん、りょうちゃんのことが好きだったんです」
「!」
目を見開いたまま桔平が襟もとをぐいと開く。少しだけ眉を揺らした。
「でも、そのひかるって娘がいなくなった時、あいつだって悲しい想いをしたんだろ」
桔平の視線をしっかりと受け止め、忍が頷いた。
「誰よりも悲しかったと思います。私達はみな家族みたいなものでしたから。とりわけひかるちゃんとりょうちゃんは綾さんにとって本当の兄弟同然だったはずです。だから、黙って二人のことを見守ろうとしていた。それなのにそんな迷いから彼女を救えなかったことに責任を感じているんです。あの人は……」
昔を想い返すように、ガラス越しの青空を見上げた。
それを横目で見やり、桔平が嘆息した。
「そんなの、誰だって考えることだろ。それでひかるって娘が救えたかどうかもわからないのによ。だいたいその娘だって、自分で納得して光輔を助けに行ったんだろ。だったら綾っぺが責任感じることでもねえだろが」
忍が振り返った。
「でも綾さんはそれが許せないんです。少しでもそう感じてしまった自分自身が許せないんです。光ちゃんの搭乗実験を止められなかったことや、私達を捨てて逃げるようにここを飛び出したことも。最後まで光ちゃんの実験に反対していたのは、むしろ綾さんだったのに。誰も責めたりしないのに、それなのに許せないんです、自分が……」
「で、一人で苦しんでるってわけか……」
「ええ……」
ぐいぐいとネクタイをゆるめ、桔平も空を見上げた。
遠くに積乱雲が見える。
「……。あいつは償いのためにここにやって来たんだな。……ここで死ぬために」
「綾さんが……」
忍がはっとなる。すぐに眉を寄せてうつむいた。
「助けろ、とか言わないのか」
「……。綾さんがそれを望んでいるんですよね」絞り出すように言葉をつないでいった。「苦しくて苦しくて、どうしようもなくって、そうしたいって思っているんですよね。それであの人が楽になれるのなら、仕方がないことなのかもしれません。私達はあの人に何度も助けられてきた。でも私達では彼女を救うことはできない……」
「誰にも心を開かないから、か?」
「……」忍が頷く。悲しげに目を細めた。「あの人を救える人がいるとしたら、一人だけです。それも今では望めません」
「……。眼鏡は心の中を覗かれないための仮面みたいなもんか……」
桔平が深く憤りのようなため息をついた。
「桔平さん。どうしたらいいんでしょう」
ふいにあふれ出た感情を隠そうともせずさらけ出す忍を、桔平は表情もなく眺め続けた。
「仕方がないなんて嘘です。あの人が死ぬなんて、そんなの嫌です。私はあの人を失いたくない。私だけじゃない。夕季も、礼也やみやちゃんだって。あの人は私達の心の支えなんです。みんなの希望なんです。それなのに、すぐそばにいるのに、私達はあの人に触れることもできない……」
「もうとっくに救われてるんじゃねえのか?」
桔平の言葉に活目する忍。
桔平は涼しげに空を見上げ、先につなげていった。
「ただあいつがそれに気がついてないだけでよ。おまえらが本当にあいつのことを大切な人間と思っているのなら、ぶん殴ってでもそれに気づかせてやれよ」
「……」
口をつぐむ忍を見やり、桔平がふっと笑う。
「みんながあいつを必要だと思っていることを気づかせてやればいいだけだろ。そんだけ強く想ってんだ。嫌われるくらいの覚悟はできてんだろうしな」
「……それでどうにかなるくらいなら、とっくにしてますよ」
「ん?」
「どれだけ殴ったところで心は動きませんよ」
「じゃ、どうしろってんだ」
「わかりません。でも……」顎を引き、探るようにそれを口にする。「心に傷を持つ人間が本当に痛みを感じるのは、優しくそっと抱きしめられた時なのかもしれませんね……」
「……」憮然とした表情で忍を見つめ返す。「俺にやってくれって言ってんのか?」
「……。やっちゃ駄目ですよ……」
「……」あきれたように嘆息した。「わかってんだったらやりゃいいじゃねえか」
「それができれば一番なんですけどね……」
切なそうな顔を忍が差し向けた。
「……。メンドくせえんだな」
「ええ……」
すっかり消沈してしまった忍に目を細める桔平。
「別れ際の言葉にもいろんな意味があってな。次の日に会うことがわかってて『さよなら』って言うこともあれば、二度と会えない人間に『また会いましょう』って言って別れることもある。あいつの場合はちょぴっと複雑だ」太陽の眩しさに手をかざした。「もう二度とおまえらに会うまいって覚悟を胸に秘めながら、明日を口にする。次の約束をする。おまえらを心配させないためなのか、それとも……」
「……どうしてそんなことがわかるんですか」
「さあ……。どうしてだろうな……」
「……」
「それは本当なのか?」
司令部別室で桔平が顔をしかめる。
机の上で手を組み、重々しくあさみが頷いた。
「十三体もの木偶が、一斉に姿を消しただと……」
「それも今朝未明、突如として」
「……。アスモデウスはプログラムごと消滅したはずだ。残ったのは石の塊ばかりだったんじゃねえのか」
「カウンターも何の反応も示していないわ。新しいプログラムの発動も確認されていない。もともと木偶として現れたそれらの残りが、アスモデウスの消滅によって維持する力を失ったというところじゃないかしら」
「そんな都合のいい解釈じゃ割り切れねえな」襟に人差し指を突っ込み、ネクタイを緩める。「なんで今なんだ。アスモデウスが消滅した時に、ついでに消えて無くなるのが筋じゃねえのか」
「そんな筋、どこで確認を取ったの?」
あさみがにっこり笑う。
その瞳の奥の空虚さを覗き込み、桔平は目を細めた。心の内を読まれないように顔をそむける。
「……それにしてもあっちいな。もう十月だってのに、何とかなんねえのか」
「そうね。これもプログラムのせいかもしれないわよ」
「んなことあってたまるか! 地球の温暖化は人類のせいだ。自業自得だ。何でもかんでも奴らのせいにしようってんじゃ、虫が良すぎるぜ」
桔平を静かに眺め、あさみが笑う。
広域に渡る正面のガラス窓から、海面からの照り返しを含めた飽和状態の光量がこれでもかと押し寄せてきていた。
上着を脱ぎ、襟もとを開いて暑さを拒絶する桔平に対し、あさみはスーツ姿のまま汗一つかかずに机に向かい続けた。
「……さすが、パーフェクト・コールドだな」
「何?」
「いや、何でもねえ。それにしても……」恨めしそうに天井を睨みつける。「こんな時にクーラーの故障だなんてよ、やってらんねえ」
「申請は出しておいたから、もうすぐ空調屋さんが修理に来るとは思うけれど」
「それまで待ってたら死んじまうって」ネクタイをむしり取った。「あー、もー、耐えらんねえ!」
「タオルくらい持ってきたら?」
「そんなことよりこの部屋にカキ氷器を買ってくれって。同じこと何回言わせる気だ!」
「却下」
「いやいや、一年中カキ氷が食えるぞ」
「冬になったら考えてあげる」
「く……」ギリと睨みつける。「冬はあれだろ、肉まんあっためるやつ買ってもらわなくちゃいけねえしな……」
コールがかかり、内線電話を受けるあさみ。
『荒井空調さんが修理に来ましたが』
「通して」
受話器を置くあさみをちらと見て、桔平が情けない顔を向けた。
「おい、直ったら呼んでくれ。俺はそれまで綾っぺ……、伏見の様子を見てくる」
「ずいぶんとご親密な仲になったみたいね」意味ありげににやりと笑う。
「ぬかせ。昔のおまえそっくりなんで、どういじわるしてやろうかと気持ちが高ぶっているだけだ」
「そう言えば彼女も同じようなことを言っていたわよ」
「何! あの野郎、口ん中に氷の塊突っ込んでロレツまわらなくしてやろうか!……」ぽんとひらめく。「そうか、カキ氷で勝負つう手があったか。あれなら目頭がツーンとなって、あのバカ食い女でもバキュームし続けらんねえはずだ! サイケデリヤのマウンテンフラッペなら三回ツーンぐらいで俺は完食する自信がある。あいつが頭抱えながらレロレロ言って悶え苦しむ姿が目に……」
「昨日それクリアしてきましたって、さっき報告に来たわよ」
「……」無表情にあさみを眺める。「……なんて」
「ただにならなかったって怒ってたわ。二杯も頼んでおいて」
「……。そいつあ怒れるよな……」
桔平が部屋を出て行く。
その背中を見守りながら、あさみは少しだけ淋しそうに眉を寄せた。
あさみは司令室の机の前で、組んだ手の彼方に見える海原に定まらぬ視線を泳がせていた。
「すみませんね。あと少しで終わりますから」脚立の上から空調屋が告げる。
わずかにも表情を変えることなく、あさみは気持ちのこもらない声でそれに返した。
「……ええ」
天井にあるカバーとフィルターをはずし、上半身を埋めるように作業しているため、表情は読み取れない。その穏やかな口調は人の良さそうな商売人の中年男性を連想させた。
「あっついですねえ」
「……。ごめんなさい、気がきかなくて。扇風機でも持ってこさせましょうか?」
「いえ、いいんです。こういうのは慣れっこですから。でもねえ、こう暑いと思わずいたずらの一つもしたくなっちゃいませんか?」
あさみがちらと空調屋を見上げる。
その顔に微妙な変化が浮かび上がった。
「なにね、いたずらって言ってもたいしたものじゃありませんよ。むしろ周りの人が喜んでくれるようなことです。せいぜい座っている椅子の下に水風船でも仕掛けて割る程度のちっちゃないたずらですから」
「!」あさみが目を見開く。
それを知ってか知らずか、空調屋は相変わらずの調子で話し続けた。
「もちろん、今座っている方の椅子だとバレちゃいますからねえ。仕掛けるなら新しい人の椅子がいいんじゃないでしょうかねえ。あ、心配いりませんよ。リモコンで遠くから割っちゃえば、わかりませんから。ボタンを押した人に水がかかるようなこともないでしょうしね。よろしければ、私が仕掛けておきましょうか?」
「……」
それ以上何も受け答えることもなく、あさみは虚ろなまなざしを空の彼方へと泳がせていた。