第8章 人があなたの話を聞き始めるとき
第8章 人が話を聞いてくれるようになるとき
酒場の朝は穏やかに始まった。騒がしさはあったが、それは混沌ではなく、ただの生活の音だった。マルクはいつものように壁際の席に座っていた。
そこへ女主人が自分から近づいてくる。いつもの慌ただしさはない。
「ねえ」と彼女は言い、水の入った杯を前に置いた。「ちょっと考えたんだけどさ」
マルクは顔を上げた。
「はい?」
彼女は少しだけ口元を緩める。
「昨日、うちの息子と話したでしょ」
マルクはうなずいた。
「少しだけです」
女主人はほっとしたように息を吐いた。
「久しぶりに、ちゃんと眠ったんだよ」
間。
「ただ……眠っただけ」
彼女はカウンターの下から銀貨を二枚取り出し、テーブルに置いた。
マルクはそれを見た。
「多すぎます」
「いいや」彼女は落ち着いて言う。「それだけの価値はあるよ」
間。
「それとね」
彼女は少し身を乗り出す。
「みんなを一度に“直そう”なんて思わないことだよ。この街じゃ、痛みは仕事の一部みたいなものだからね」
マルクは黙って聞いていた。
女主人は声を少し落として続ける。
「でもね、ときどきは、その痛みを笑わない誰かが必要なんだ」
間。
「それが、あんたなんだろうね」
マルクは小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
女主人は立ち去ろうとして、ふと足を止めた。
「もう一つ忠告」
マルクは彼女を見る。
「無料で助けすぎると、すぐ食えなくなるよ」
短い間。
そして軽く笑って付け加えた。
「死んだ心理士は、誰の役にも立たないからね」
マルクは小さく息を吐いた。
「気をつけます」
昼間、新しい客は来なかった。
夕方、酒場の扉が開く。
マルクはすぐに誰か分かった。
レンだ。
だが、以前の彼とは違っていた。
壊れているわけでも、限界にいるわけでもない。ただ、疲れている。それでも、確かに生きていた。
マルクは静かに言った。
「今の気分はどうですか?」
レンは苦笑した。
「妙だな」
「どういう意味で?」
「まだ、あいつらのことは覚えてる」
間。
「でももう、朝起きて“代わりに死ぬべきだった”とは思わなくなった」
マルクはうなずいた。
「大きな変化です」
レンは椅子にもたれた。
「なあ……最初は、お前はただの変なやつで、喋るのが好きなだけだと思ってた」
間。
「でも……ちゃんと効くんだな」
マルクは静かに言った。
「“効く”というより、もともとあるものを整理しているだけです」
レンは鼻で笑った。
「難しい言い方するな」
マルクは少しだけ柔らかく言う。
「そのほうが、他人の痛みに飲まれずに済みます」
レンは黙った。
そして小さく言った。
「まだ罪悪感はある……でも、それだけじゃなくなった」
マルクはうなずいた。
「それで十分です」
間。
酒場の喧騒が、少し遠く感じられた。
レンは立ち上がる。
「ありがとう」
そして、少しだけ声を落として言った。
「なあ」
マルクは顔を上げる。
レンは目を合わせなかった。
「うまく言えないけどさ」
間。
「あの時お前のところに来てなかったら……今ごろ酒に溺れてるか、どこかで死んでたと思う」
彼は笑ったが、それに明るさはなかった。
「大げさじゃない」
マルクは遮らなかった。
ただ静かに言った。
「二度目に自分で来た。その選択も重要です」
レンはうなずいた。
そして突然、袋を取り出しテーブルに置いた。鈍い音がする。
マルクはそれを見た。
「これは?」
レンは息を吐いた。
「報酬だ」
間。
「銀貨十枚」
マルクは少し眉をひそめた。
「会話の対価としては多すぎます」
レンは首を強く振る。
「違う」
間。
「会話の金じゃない」
指でテーブルを軽く叩いた。
「生きてることの対価だ」
レンは声を落として続ける。
「何をされたのかも、どういう仕組みかも分からない」
間。
「でも一つだけ分かる」
彼は初めてまっすぐマルクを見た。
「お前と話してから……自分を憎まずに前に進めるかもしれないと思えた」
マルクはすぐには答えなかった。
やがて静かに言う。
「それは報酬ではありません」
間。
「あなた自身が受け取った結果です」
短い沈黙。
そしてレンは、わずかに生きた笑みを浮かべた。
立ち上がる。
「じゃあな」
間。
「もしまた、俺みたいに壊れてるやつがいたらさ」
頭をかきながら続ける。
「お前なら何とかできるんだろ」
マルクは静かに答えた。
「人を“何とかする”ことはできません」
間。
「自分を理解する手助けをするだけです」
レンは鼻で笑った。
「はいはい、心理士」
そして出口へ向かう。
扉の前で振り返らずに言った。
「……ありがとう」
そのまま去っていった。
マルクは一人、テーブルに残った。
目の前には銀貨十枚の袋。
しばらくそれを見つめてから、小さく呟く。
「……これが仕事か」
この世界で初めて、それはただの生存ではなくなった。
職業になった。




