表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/31

第8章 人があなたの話を聞き始めるとき

第8章 人が話を聞いてくれるようになるとき


酒場の朝は穏やかに始まった。騒がしさはあったが、それは混沌ではなく、ただの生活の音だった。マルクはいつものように壁際の席に座っていた。


そこへ女主人が自分から近づいてくる。いつもの慌ただしさはない。


「ねえ」と彼女は言い、水の入った杯を前に置いた。「ちょっと考えたんだけどさ」


マルクは顔を上げた。

「はい?」


彼女は少しだけ口元を緩める。

「昨日、うちの息子と話したでしょ」


マルクはうなずいた。

「少しだけです」


女主人はほっとしたように息を吐いた。

「久しぶりに、ちゃんと眠ったんだよ」


間。


「ただ……眠っただけ」


彼女はカウンターの下から銀貨を二枚取り出し、テーブルに置いた。


マルクはそれを見た。

「多すぎます」


「いいや」彼女は落ち着いて言う。「それだけの価値はあるよ」


間。


「それとね」


彼女は少し身を乗り出す。

「みんなを一度に“直そう”なんて思わないことだよ。この街じゃ、痛みは仕事の一部みたいなものだからね」


マルクは黙って聞いていた。


女主人は声を少し落として続ける。

「でもね、ときどきは、その痛みを笑わない誰かが必要なんだ」


間。


「それが、あんたなんだろうね」


マルクは小さくうなずいた。

「ありがとうございます」


女主人は立ち去ろうとして、ふと足を止めた。


「もう一つ忠告」


マルクは彼女を見る。


「無料で助けすぎると、すぐ食えなくなるよ」


短い間。


そして軽く笑って付け加えた。

「死んだ心理士は、誰の役にも立たないからね」


マルクは小さく息を吐いた。

「気をつけます」


昼間、新しい客は来なかった。


夕方、酒場の扉が開く。


マルクはすぐに誰か分かった。


レンだ。


だが、以前の彼とは違っていた。


壊れているわけでも、限界にいるわけでもない。ただ、疲れている。それでも、確かに生きていた。


マルクは静かに言った。

「今の気分はどうですか?」


レンは苦笑した。

「妙だな」


「どういう意味で?」


「まだ、あいつらのことは覚えてる」


間。


「でももう、朝起きて“代わりに死ぬべきだった”とは思わなくなった」


マルクはうなずいた。

「大きな変化です」


レンは椅子にもたれた。

「なあ……最初は、お前はただの変なやつで、喋るのが好きなだけだと思ってた」


間。


「でも……ちゃんと効くんだな」


マルクは静かに言った。

「“効く”というより、もともとあるものを整理しているだけです」


レンは鼻で笑った。

「難しい言い方するな」


マルクは少しだけ柔らかく言う。

「そのほうが、他人の痛みに飲まれずに済みます」


レンは黙った。


そして小さく言った。

「まだ罪悪感はある……でも、それだけじゃなくなった」


マルクはうなずいた。

「それで十分です」


間。


酒場の喧騒が、少し遠く感じられた。


レンは立ち上がる。

「ありがとう」


そして、少しだけ声を落として言った。


「なあ」


マルクは顔を上げる。


レンは目を合わせなかった。

「うまく言えないけどさ」


間。


「あの時お前のところに来てなかったら……今ごろ酒に溺れてるか、どこかで死んでたと思う」


彼は笑ったが、それに明るさはなかった。

「大げさじゃない」


マルクは遮らなかった。

ただ静かに言った。

「二度目に自分で来た。その選択も重要です」


レンはうなずいた。


そして突然、袋を取り出しテーブルに置いた。鈍い音がする。


マルクはそれを見た。

「これは?」


レンは息を吐いた。

「報酬だ」


間。


「銀貨十枚」


マルクは少し眉をひそめた。

「会話の対価としては多すぎます」


レンは首を強く振る。

「違う」


間。


「会話の金じゃない」


指でテーブルを軽く叩いた。

「生きてることの対価だ」


レンは声を落として続ける。

「何をされたのかも、どういう仕組みかも分からない」


間。


「でも一つだけ分かる」


彼は初めてまっすぐマルクを見た。


「お前と話してから……自分を憎まずに前に進めるかもしれないと思えた」


マルクはすぐには答えなかった。


やがて静かに言う。

「それは報酬ではありません」


間。


「あなた自身が受け取った結果です」


短い沈黙。


そしてレンは、わずかに生きた笑みを浮かべた。


立ち上がる。

「じゃあな」


間。


「もしまた、俺みたいに壊れてるやつがいたらさ」


頭をかきながら続ける。

「お前なら何とかできるんだろ」


マルクは静かに答えた。

「人を“何とかする”ことはできません」


間。


「自分を理解する手助けをするだけです」


レンは鼻で笑った。

「はいはい、心理士」


そして出口へ向かう。


扉の前で振り返らずに言った。

「……ありがとう」


そのまま去っていった。


マルクは一人、テーブルに残った。


目の前には銀貨十枚の袋。


しばらくそれを見つめてから、小さく呟く。

「……これが仕事か」


この世界で初めて、それはただの生存ではなくなった。


職業になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ