第29章 他人の目に映る“魔術師”
第29章 他人の目に映る“魔術師”
その日はいつも通り始まった。
一人の客が終われば、次の客が入る。
部屋のリズムはすでに馴染んでいた――静かで、一定で、予測可能にすらなっていた。
だからこそ、扉の前の足音は異質だった。
硬い。
迷いが一切ない。
男が入ってくる。
体格のいい男で、目つきは重く、最初から「ここは信用しない」と決めている顔だった。
「お前があの……“話すやつ”か?」
それは挨拶ではなかった。
マークは言い方を訂正しない。
「そうだ」
男は鼻で笑う。
歪んだ笑み。
「ドロンだ」
すぐには座らない。
部屋の中を歩き回り、まるで罠でも探すように観察する。
椅子。
本。
光。
「よく整えてるな」
やがて彼は言った。
「言葉を売るやつにしては」
マークは静かに見ている。
「何の用だ?」
ドロンは鋭く振り向く。
「正直に言え」
間。
「お前みたいなのは、人の頭に入り込む連中だろ」
「思考を動かす。迷わせる。弱くする」
マークはわずかに首を傾ける。
「それは“操作”だと思っているのか?」
「違うのか?」ドロンの声が強くなる。
「こういう所に来た人間は、考え方が変わる。疑う。弱くなる」
一歩近づく。
「それは治療じゃない。影響だ」
マークは落ち着いて答える。
「人が疑い始めるのは、私が何かを植え付けるからではない」
間。
「自分の状態を認識できるようになるからだ」
ドロンは鼻で笑う。
「言葉遊びだな」
そして机を指差す。
「こういうのは見たことがある。お前らは“助けてる”って言うが、実際は人から自信を抜いてるだけだ」
間。
「都合のいい人間にしてるだけだろ」
マークは声を上げない。
「もし誰かが混乱した状態で来て、整理された状態で帰るなら、それは支配ではない」
間。
「再定位だ」
ドロンは目を細める。
「上手い言い方だな」
「騙すやつほどそう言う」
彼は突然振り返る。
「本題だ」
間。
「金を返せ」
マークはすぐには動かない。
「何に対して?」
ドロンは笑う。
「この“くだらない話”だよ」
「頭に何かやられるのは御免だ」
彼は一歩近づく。
「覚えておけ」
「お前は人を治してない」
「変えてるだけだ」
マークはその視線を受け止める。
「私は人を変えてはいない」
「何が起きているのかを理解できるようにしているだけだ」
ドロンは即座に切り捨てる。
「同じだ」
沈黙。
空気が少し重くなる。
マークは静かに金を袋へ戻す。
そして差し出した。
ドロンはそれを乱暴に奪う。
「最初からそうしろ」
彼は扉へ向かうが、途中で止まる。
振り返らずに言う。
「“魔術師”はみんなそう言う」
「頭を取られるまでな」
扉が閉まる。
部屋は再び静かになった。
だが“会話の余韻”だけが残っていた。
音ではなく、出来事の痕跡として。
マークは数秒そのまま座っていた。
やがて思考が静かに整理される。
(こういう人間は想定内だ)
驚きも、怒りもない。
むしろ当然だった。
この場所はまだ新しい。
人が集まる場所には必ず“試す側”が来る。
助けを求める者の前に、まず現れるのは――
助けそのものを疑う者だ。
彼は以前の世界の知識を思い出す。
心理学がまだ新しい時代、
人はそれを“操作”“催眠”“危険な技術”と呼んでいた。
そして今も構造は同じだ。
(ただ、ここでは“科学者”ではなく“魔術師”か)
彼は小さく息を吐く。
こうしたケースは失敗ではない。
成立していない接触だ。
仕事は“始まっていない”。
だから記録上は終了扱いになる。
返金も例外ではない。
ただし原則として――
接触が成立しなかった場合は返す。
それは誠実さの問題であり、弱さではない。
マークは感情を評価しない。
ただ現象として整理する。
(すべての人が残るわけではない)
(中には、去るためだけに来る者もいる)
彼は椅子にもたれた。
そして淡々と理解する。
この場所はすでに“現実の段階”に入った。
理想ではない。
検証の段階だ。
“助けを求める者”だけではなく、
“助けを壊しに来る者”も含めて、場が成立し始めている。
それもまた当然の流れだった。
小さく思考が締められる。
(これは失敗ではない)
(ただの通過点だ)
そして部屋は、再びただの部屋に戻った。




