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清水との対話

 私はと言えば、途方もない話を聞かされて、どうにもできないといった気持ちだった。そもそも哲学にはそうした問いに答える義理があるかわからない…いや、とにかく、私は清水の話に圧倒されていたのだった。自分の学問など、彼の話の前では綺麗さっぱり吹き飛んでしまったような気持ちだった。

 「どうですか、先生。この哀れな男に、何か掛ける言葉はありますか? 死にゆく私に『人生』を教えていただけますか?」

 清水は言って、私を見た。私はどうにもできない、といった気持ちだった。とにかく気持ちを落ち着けようと、立ち上がった。

 「申し訳ないですが、ちょっとお手洗いに」

 彼の返答も聞かずにドアを開けて廊下に出た。トイレに向かう。そこで考えをまとめるつもりだった。

 

 私は何も思いつかなかった。いくつかのごまかしの言葉は思いついたが。結局の所、彼のような人間に何と答えを掛ければいいだろう? 気分を紛らす何かを教えるしかないのか? しかし、それこそが一番哲学から離れた事だ。人々は本質的なものから目を逸し、瞬間瞬間に自分を投げ出して深刻な問題からは目を背けている。ある意味では、あの男は本来、哲学者が立つべき立場に立ったと言える。

 だが、それで私に何が言える? …私は何も思いつかなかった。

 トイレを出ると、妻が近づいてきた。心配そうな顔をしていた。その表情で妻が何かを気づいているのだと感じた。

 「あなた、大丈夫?」

 「何が?」

 私はやや苛ついていた。感情を抑えようとはしたが。

 「…あの人、変な人じゃない? 大丈夫なの?」

 「何が? 何が『変』なんだ?」

 「だってあの人、大きな声でずっと話していたじゃないの。一方的に…廊下にも響いてたわよ。私、あなたが心配で。何か、恐喝とか、そんなんじゃないでしょうね?」

 「そんな事はない。大丈夫だ。…俺は戻るから」

 私は妻を押しのけて、部屋に帰ろうとした。それでも彼女が心配そうにしているのがわかった。私は何歩か歩いて、くるりと振り返った。

 「あれは真面目な男だ! 何も問題はない。大丈夫だ!」

 私は怒鳴った。妻は怪訝そうな顔をしていたが、諦めたように廊下からリビングに戻っていった。

 

 私は部屋に戻って、椅子に座った。清水は何も言わずにじっと私の顔を見ていた。答えを欲しているのは明らかだった。

 「あなたの言われた事を考えてみましたが…」

 私は腕組みをした。…しかし、一体私に何が言えただろう?

 「正直に言って、私の場所から言える事は…ほとんどないようです。学問はそういうものの為にあるわけでもない、と言っても良さそうです。哲学というのは、あなたの考えているような問題に即答できるものではなく、複雑多岐に分かれているわけでして…例えば、西洋のプラトンから始まった、観念論的な方向がまずあり…」

 「なんですって!」

 清水は大きな声を出した。私は顔を上げた。

 「学問はそういう為にあるわけではない? …じゃあ、学問なんて結構ですよ! 私には!」

 「まあ、ちょっとお待ち下さい。まだ話の途中で。落ち着いてください。とにかく。話は…まだ途中です」

 私は清水の顔を見た。彼が怒りを抑えようとしているのが見て取れた。私は続けた。

 「いいですか。話は途中です。まだ、これからです。…例えばですね、哲学がもしそういう問題に明確に答えているのなら、既に答えは公式として世間に流布しているはずです。例えば、アインシュタインの相対性理論は、そんな風にして流布している。確実な公式、理論として。それは万有引力の法則よりも正しいものだというように…。そういう風にして学問が正しいものによって上書きされていくというのが、物理学や数学のような部門です。しかしそれは世界を物質的に眺めたから得られるものであって、世界を一つの数式に分解する事が可能であるという、人間の基本能力に基づいている。しかしですね、あなたの言われるような精神の問題はまた別なのですよ…」

 「先生、先生が賢い人なのはわかります」

 清水は苦痛を表しながら言った。

 「ですが、まどろっこしいのはなしにしてください。私にもわかるように話してください」

 「話していますよ。あなたにもわかるはずですね…。それで、先に言われたプラトンの理論。イデア論というのはですね、要するに、この世界よりもより上位の世界があって、現実世界はその影にすぎないという考え方です。現実に完全なる円というものは描けないが、観念の世界においては完全なる円は可能だ。コンパスで描いたってどうしても歪みが出ますからね。我々は不完全なものの先に完全な世界を想像する事ができる。哲学の大元はこうしたイデア論的な形式から出ている。私の好きな話でプラトンが何故、イデア論を思いついたかというのに関するある推論がある。それを今からお聞かせしましょう。それはきっと、あなたにも役立つでしょうしね。…いいですか、落ち着いてください。あなたが関係のない、くだらない話だと思っているのはわかります。ですがね、そう無関係ではないかもしれない。もちろんあなた次第ですが…」

 「プラトンの師匠でソクラテスという人がいました。あなたも名前くらいは知っているかも知れません。ソクラテスは対話法という形で真理を探究していました。そうしてアテネの色々な人と語り合ったのです。彼は色々な事を語り、色々な事を教えたのですが、それが一部の人間の目につきました。若者に悪い教えを与えているというのです。ソクラテスは裁判にかけられて、死刑になりました。彼はそれで殺されたのです。…現代から見ると、理不尽な死と言えるでしょう」

 「プラトンがイデア論を思いついたのは、師の死の為だと一説に言われています。師匠であるソクラテスが理不尽な殺され方をしたので、世俗的な現実世界は影に過ぎない。それはより大きなものよりも下位に当たるものだ、と彼は考えた。彼は尊敬する師が、理不尽な死刑判決を食らったので、かえって現実世界の方に一種の判決を与えたのです。『それは影に過ぎぬ』と。彼はそれより上位の世界を考えた。中世の人間が死後の世界を考えたようにね。…こうした思想が後の哲学の礎になったという事は、私には大いに興味深い事に思えますがね! …哲学者がいかに現実を超えていくのかという…」

 「そんな観念的な話は私にはわかりかねます」

 清水が苦しそうに言った。

 「私はもっと、現実的な話を期待しています。…単に私が馬鹿なだけかもしれませんが。しかしですね、先生、そんな話は私に興味は持てないんです。私はあと半年も生きられないでしょう。私の生の意味をそんな観念的な、ふやけた話に置き換えられても困ります。結局の所、哲学は…いや、哲学というよりは先生ご自身と言ったほうがいいでしょう…先生は、私の質問に答えられるのですか?」

 「いや、ですから」

 私は何かを言おうとした。それは言えるような気がしたが、言えないような気もした。

 「彼ら哲学者はそうした観念的世界を一つの、強烈な実在として感じられたのですよ。だから彼らは安心立命できた。彼らは『境地』に立っていたのです。これは決して観念論的な話じゃありません」

 「そんな話は私には関係ありませんね」

 清水は苛々した様子を見せた。

 「そうした人達が、どんな境地に立っていたかは知らない。ただ私が知りたいのは、彼らが私に対して何ほどかの答えを出せるのかどうかという事です。私のような人生を送った人は少ない…きっと数は少ないでしょう。しかし『彼は少数派の一人だった』で済ませられるのは、私にはどうにも我慢できない。我慢できないあるものがある。私の人生は一体、何なのか。それが知りたいんです」

 「であれば、もう少し、直接的な話をしましょう」

 私は言った。言いながら、自分が真面目に答えているのか、ごまかしているのか、頭のどこかで計っていた。

 「ゲーテという文豪がいましてね。名前くらいなら知っているかもしれない。彼は偉大な文学者でした。彼はシェイクスピアのように作品に全てを注ぎ込むというよりは、自己完成を目指した人でした。だから、ゲーテという人自身が大いなる作品だと言えたのです。そうした自己超克を絶えず彼は行っていた。…それでですね、晩年のゲーテの対話が弟子によって記録されているのですが、そこでゲーテは次のように言っています。『私はもう死ぬのは怖くない。それは太陽が山の裏に沈むのと同じようなもので、たとえ見えなくなっても、生きて活動するあるものは、死後にも存続していくから』 正確ではありませんが、おおよそそうした事を言いました。ゲーテは死ぬのが怖くなかった! もちろん、彼が見栄を張っていたと考える事はできますがね。彼は自分の死後も持続していくものを信じられました。もちろん、それは彼がこれまで、行動し、生きる人間であったからです。自己超克を続けていた彼には、死後も、超克を続けていくなにものかが見えていた。彼の目には。そうした言葉を、弟子は記録しているのです!」

 私は興奮してそう言ったが、その言葉は清水には何の感興も及ぼしていないようだった。それが私の目にもすぐわかった。

 「立派な先生に楯突くのもなんですが」

 彼はゆっくりと言った。疲れてきたようだった。

 「私にはそんな事はとても信じられませんね。死んだ後に何があるか…私は死後の世界なんてものは信じられません。昔の人間ではありませんからね。私はね、全てを失って死のうとしている。そして死とは無への片道切符でしかない。それはわかっていた。だからこそ、私は生きている間に、何かをしたかった。家族や子供、仕事。そうしたものに誠意をつくして、意味のあるものを作りたかった。死後の世界…そんなものはありませんよ。それに、私が死んだ後に世界が続いていくとしても、それを私は見る事もできないし、聞く事もできない。そんなものはわからないんですよ。普通に考えればね。ゲーテという人がいくら偉い人だったとしても、きっと彼は死ぬ前には絶望して死んでいったはずです。彼が死ぬのは怖くない、と言ったのは一種の伝説で、私にはとても信じられませんね。本当とは思えない。多分、その人は自分の心理を偽ったのですよ。偽る気持ちはわかります。どうせ負けるなら、負ける事自体を自分が望んでいる事に変えてね、そうして自分を慰めるんです。そういう気持ちに陥ったんだと思いますよ。ゲーテは。…ところで、私は、ゲーテなんて人はどうでもいいんです。そんな他人の話はどうでもいい。一つ聞かせてください。…同じ事の繰り返しになりますが、先生はどう思われます? もし、先生が私の身になったら? 私が聞きたいのはそれなんです。ゲーテだのソクラテスだの。そんなのは昔の、関係ない人です。そうではなく、先生ご自身が、私の立場になったら、私の身になったら、どう思うか? 私が気になるのはそれです。先生は今は素晴らしい家族に囲まれていらっしゃる。社会的地位も、人々からの尊敬も集めている。だけどその全てが崩落して、私の立場になって、後は苦しんで死ぬしかないとなったら…どうします? 一体どうしますか? 私、他ならぬ『あなた自身の』答えを聞かせて欲しいんです」

 清水は私を真剣に見つめた。それが最後の質問だというのが私にもわかった。私はもうどんな比喩も、過去の話も、取り出す事は許されないだろう。私は私自身を見つめて答えなければならない。私は私の存在でもって、彼の答えに答えなければならない。という事は、私自身が何より一個の『哲学者』にならなければならないという事だ。ただ哲学を研究する者ではなく、『哲学者』にならなければならない。私にはそれがわかった。やっとわかった…。そうでなければこの男の質問には答えられないだろう。

 

 ※

 

 「お帰りになった?」

 妻が部屋に入ってきた。私は放心状態だったので、妻が入ってきてもすぐに反応できなかった。「あ、ああ」と私は答えた。正面の椅子には窪みが残っていた。そこにはさっきまで、片脚の余命いくばくもない男が座っていた。

 「何だか、怖い人でしたね」

 妻は怯えるように言った。私は妻が持ってきてくれた冷たいお茶を飲んだ。

 「大きな声で話して…あなた、知ってる?」

 「何が?」

 「最後、帰る時、大きな音を立ててドアを閉めていきましたよ。…病気でかわいそうな人なのかもしれないけど、あんな態度を取らなくてもいいと思うわ」

 「お前、どうしてあの男が病気だって知ってるんだ?」

 「え、だって…あなたが言ったじゃないの。あの人が来る前に」

 「そうだったかな」

 私は自分が言ったのをすっかり忘れていた。そんな事を言っていたのか。

 「それにしても怖い人だったわね。…ねえ、あなた、どんな話をしていたの?」

 「あの男は不満気に帰っていったよ」

 私は言った。彼は私に憤慨して帰っていった。憤慨するのも無理もない、と私は思った。私は彼の問いに何一つ答えられなかったのだ。

 「でも、どうしてあんなに怒ってらっしたのかしら? わざわざ家に来て、怒る事もないみたいだけど」

 「あの男は余命が半年もないんだ。それで、家族も失ってしまってね。もう何もかも失って、最後に自分の命も失おうとしている。彼は最後に私に質問しに来たんだ。自分の生きてきた意味を教えてくれ、と。学問はこの切実な問いに答えてくれるのか、教えて欲しいって」

 「へえ。かわいそうな人ねえ…。それであなたは何と答えたの?」

 「何も答えられなかった。こんな問いに答えられる人間は今の世に一人もいないさ。いたら天然記念物で…いや、そんな人間はきっと、この世界で生きていけないだろうな」

 私は言って、宙を見た。清水は私に軽蔑と怒りの眼差しをぶつけてきた。それは私に対する追従の微笑とは真逆のものだったが、どこか心地よかったのは確かだった。

 「ねえ、でもあの人にとっては、きっといい事をしたんじゃないかしら。あの人だって、本当は誰かに話を聞いてもらいたかったのよ。それであなたの所に、わざわざやってきたんだわ。それにね、そんなに辛い立場に追い込まれても、他の人はどうしようもないしねぇ…。憐れむ他には、生きている人ができる事はないはずだわ」

 「…悪いけど、少し、一人にしてくれないか」

 私は言った。時計を見た。時計は夜七時を回っていた。いつの間にか二時間以上過ぎていたらしい。

 「悪いけど、一人にしてくれ。考え事をしたいんだ」

 「…分かりました」

 妻は立ち上がって、扉の前に立った。出ていく前に、くるりとこちらを振り返った。

 「あんまり考え込まないようにしてくださいね。あなたが気にする事は何もないと思いますよ」

 「…ありがとう」

 妻は出て行った。私は一人になった。さて、と私は思った。これから考えなければならない事が沢山ある。…いや、処理しなければならない思考上の問題とも言うべきか。あの男は、私に沢山の宿題を残していった。だが、その宿題は決して解ける事はないだろう。

 

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