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清水の話 2

 「電話があったのは昼過ぎでした。お客さんはいませんでした。店の電話が鳴って、お客さんだろうと思って出たら、警察でした。『娘さんと奥様が車に轢かれました。病院に搬送中です。病院の方まで、旦那さんは出てこれますか?』 まあ要するにそうした電話でした。私はびっくりして頭が真っ白になりました。店を閉めるようにアルバイトの子に頼みました。すぐ店を出て、タクシーを呼びました。タクシーを待っている間、頭の中では(そんなはずはない、そんなはずはない)という言葉が頭の中で鳴り響いていました。同時に、アスファルトの横に咲いてある草花を見て、子供の頃を思い出しました。(学校でいじめられた帰り、こんな風に道の横のオオイヌノフグリをじっと眺めていたな) どうでもいい事が思い出されました。ぼうっとしているうちにタクシーはやってきました」

 「それから先の事を細かく語るのはもういいでしょう。実際の所、タクシーに乗ってからの記憶があまりないのです。それと、後から知ったのですが、警察が電話を掛けてきた時には、二人は既に絶命していたようです。私はもちろん、二人が命を失うとは考えていませんでした。そんな時はまだ先、まだまだ先だとぼんやり考えていたし、いえ、そもそも私は死というものを真面目に考えた事がなかったのです。それが急にやってきた。死神に肩を掴まれたような…私は、病院に向かい、既に冷たくなっている二人と面会しました。私は、言いましたよ。『何とか助けられませんか!!』 病院内で絶叫しました。さぞ、変な人と思われたでしょう。あるいはかわいそうな奴だと…。医者は『申し訳ありませんが我々には何もできません』と言いました。即死だったそうです。私は二人の遺体を見るかどうか聞かれました。相手が妙に躊躇しているので『どうしてそんなにためらうのですか?』と聞いたら『損壊がひどくて…』と答えが返ってきました。それでも、私は面会しました。もう違う存在になった二人と。言われた通り、ひどかったですよ。身体は。しかし、もういいでしょう。そんな事は…もう十分だ…」

 「結果から言えば、娘と妻を殺したのは飲酒運転の男でした。男は100km超えで赤信号の横断歩道を突っ切りました。そのまま、二人を轢いたわけです。二人は即死だった。それくらい飛ばしていた。車は二人を轢いた後、電信柱に突っ込んで止まりました。男は足を骨折しただけでした。…こいつは骨折だけで済んだんですよ! 二人も殺しておいて! …男はそれまでに交通違反を何度も行っていた。飲酒運転も二回していました。他にも傷害事件を起こしていました。要するに札付きの悪だったわけですね。その事は私の心を何ら慰めませんでした。正直に言うと、怒りすら湧いてこなかった。何故こんな事が起こったか、というよりですね、何故こんな事が起こりうるのか、何故、世界はこんな事を起こるがままにしているのか。それが私の感じた事でした。全てが一瞬の内に変わってしまい、光から闇へと突き落とされる。何故こんな事は許されているのか、この事態はそもそも何なのか? 私には全てがわからなかった。ただただ呆然として、何も考えられませんでした」

 「男への憎しみも沸かず、私は対してファイトもしませんでした。弁護士に言わせれば、もっと金を搾り取れたはずだそうです。男からだけではなく、家族からも要求できるというような話をされました。法律の詳しい話はわかりませんでしたが、できるだけの事をするだけで精一杯でした。正直、金はどうでもよかった。問題は…私があの男を殺せなかったという事です。殺意が沸く事はありませんでした。殺せる機会はあったんですがね。その気になれば。だけど、私はそんな事ができないし、何よりエネルギーが体から湧いてこなかった。殺意、憎悪。それは裏返った希望と言えるでしょうが、私は二人を亡くして、すっかりひからびてしまったんです。空虚になりました。ただただ、世界の理不尽を感じただけで、何も手がつかなかった。あの男を殺しても、なんにもならないと感じていました。…別に正義のつもりで言っているわけじゃありません。ただ力が湧いてこなかった。それだけです。…で、結局1500万円ほどの慰謝料をもらう事で話は決まりました。男は金を持っていなかったので、大半は保険会社から出ました。男は裁判で裁かれましたが、今頃もう出所しているかもしれません。…まあ、それも、よくわかりません。それにも、たいして興味は持てなかった」

 「私は虚脱感に囚われました。生きているのは虚しいという感覚です。何故、全ては取り去られてしまったのか? 生きる意味とは一体何なのか? 考えましたが、誰も明確な答えを出してはくれませんでした。何かこう…ごまかしのような事を言ってくる人間ばかりで。私は、店を一時的に閉める事にしました。アルバイトにはとりあえず一ヶ月休みを取らせてくれ、と言いました。その期間で別のバイトを探してくれ、と。ある大学生の女の子はこんな事を言ってくれましたよ。『私は一ヶ月待ちます。もう一度、店を開いた時にはきっと人手が必要ですから』 私はこう返しました。『でも、正直に言って、やる気が起きないんだよ。きっと、一ヶ月後には本格的に店をたたむ事にするだろうよ。休業という形ではなくね』 その子は、こう言いましたよ。…いい子でしたね、あの子は、今考えても。『清水さん、でも未来はわからないじゃないですか? 全てが決まっているわけでもないと思いますよ』」

 「…確かに、全ては決まったわけではなかった。未来は…わからないのですね。それより先にまだ転落があるなんて。それが…これです」

 そう言うと、清水は無い方の足をじっと見た。私は何も言わなかった。清水の方から続きを話しだした。

 「もう長く喋りすぎたようですね。話を端折りましょう。こんなつまらない人間の半生をお聞かせする事もないでしょうから。もっとも、これは必要な前段階なんですが。私にとって。…それでですね、私は悲嘆に暮れておりました。ところが、周囲の人間からの同情や、また、見知らぬ人からの支援もあって、再び、やる気を起こしたのです。もっとも消極的なやる気であって、店を続けるという事に過ぎませんでしたが。そうです、あの子の言った通りになりました。店を開いたのは、三ヶ月後でした。あの子は喜んでいました。あの子はそれから、半年ほど働いてから、辞めました。辞める時には、私と他のアルバイトでささやかなお別れ会を開きました。あの子は涙ぐんでいました。…ところで、その頃から私は足の付根にチクチクとした痛みを覚えるようになっていたんです」

 「私は一人で店を切り盛りしていました。深い喪失感にあって、仕事で自分を忘れようとしていた。体は動きましたからね。できるだけ忙しくするようにしました。空虚な時間があると、自分が空っぽになるんです。全てを奪われた人間にとって自分を振り返る時間ほど辛いものはない。喫茶店の二階が私達の家でしたが、私はそこでは寝て起きるだけでした。できるだけ働こうとしました。その為に新しい取り組みもして、店の売上が伸びたりしました。そこに微かな希望を感じる事もありました。…家には仏壇を置いて、妻と娘の遺影が置いてありました。…ああ、そう言えば、飲酒運転で二人を殺した男と会って話もしましたよ。向こうはしおらしい感じでしたが、嘘だというのがすぐにわかりました。…初対面で土下座をするんです。男の弁護士が向こうに控えていました。全ては、芝居でしたね。私はすぐにわかりましたよ。『この男は心の底からの深い悔恨を覚えた事はこれまでに一度もなかったし、これからもないだろう』って。男は謝り通しでした。おそらく、弁護士の入れ知恵だったのでしょう。とにかく全部が嘘くさかった。そんなものですよ、誰も彼も。感情を利益の道具に使う。我々の誰もがやっている事です。私だってやった事はある。人の事は言えませんや。」

 「そんな事はいいです。それで、その頃からですね、足の付根がチクチクと痛むようになりました。最初は疲労から来ていると思って、風呂で揉んだりしました。一ヶ月ほど痛みが続いて、病院に行ったんですが、痛み止めをくれただけでした。そうこうしている内に痛みは引いて、(良かった、何でもなかったんだ)と思いました。足に違和感はあったんですが、動いたし、痛みもなかったし、気にかからなかった。それから三ヶ月くらいは普通に働いたかな。三ヶ月して、また足が痛みだしました。今度の痛みは前のよりも強かった。さすがに(困ったな)と思ったけれど、今度もその内治るだろうと放っておきました」

 「半年くらいは放っておいたでしょうか。痛みは押したり引いたり、波のように強くなったり弱くなったりしていました。それでもその内に治るだろう、と思っていました。以前には放っておいて良くなったのですから。ごまかしごまかししている内に少しずつ、痛みが強くなってきました。それに痛みの範囲が広がってきました。膝のあたりまで痛くなってきたんです。(立ちっぱなしの仕事をしているせいかな)と思って、色々やりました。カウンターの奥に小さな椅子を置いて、客がいない時はそこに座ったりしました。そんな事でなんとかなると思っていたんですね。だけど半年経ったある日、どうにも痛みが引かなくなって、仕方なく、病院に行きました。夜にズキズキと痛くなって腫れてもきたので、翌日店を閉めて、町で一番大きな病院に行きました」

 「私は色々な検査を受けました。医者が私に伝えたのは簡単な事実でした。『清水さん、骨肉腫ですね』 私は骨肉腫が何か知らなかったので、聞きました。『骨肉腫って何ですか?』 『要するに癌です。それもかなり進んでいますね』 私は言われて、何の事かわかりませんでした。ですが、すぐに正体はわかりました。医者が教えてくれたんです。(まただな)と私は思いました。そう、まただったんです。全ては突然やってきて、突風のように全てを薙ぎ払っていく。妻と娘を失ったあの昼のように、また神の裁きがやってきました。私は重度の骨肉腫にかかっていました。余命はあまりないと言われました。言葉を選んでいましたが、要するに五年ももたないだろう、という事でした」

 「私はまた呆然としました。…と言っても、これは繰り返しになるので、もう説明しません。ただ呆然としました。思うに、私達は運命の仕打ちに対してどう対処すれば、全く教育を受けていません。ただそれは突風のようにやってきて打撃を食らわせ、あたりをひっちゃかめっちゃかに引っ掻き回して、殺す者は殺し、生かす者は生かして去っていきます。それも、誰を殺して誰を生かすかの基準はめちゃくちゃです。いい加減なものです。…ですが、こんな愚痴はもういいですよね。私は、店をたたみました。それからは治療に専念する事になって、入院と退院を繰り返しました。まわりの人、近所の人や友人は心配してくれましたよ。心の底から。…でもね、彼らの同情には、どこか満足そうな表情があったのを、ある時に発見しましたね。これは言っておかなくてはならない事ですが、人間にはどうやらそういう残酷な感情が底にあるのですね。たとえ親友同士の間柄でも。それは『ああ、自分じゃなくて良かった』という気持ちです。心の底から同情している人の中にもやはりそういう感情はある。…というより、同情という感情そのものの核にそういうものがある気がしてならないんですがね。私は彼らの同情を受けて『ありがとう』と言いました。募金の提案をしてくれた人もいましたが、幸か不幸か、事故の慰謝料がそっくり残っていましたし、貯金もあったので、治療費には困りそうにはありませんでした。それでお断りしました。私はただ、自分の生命を維持するので精一杯の身分になりました」

 「私ね、病院のベッドに寝転がってね、考えましたよ。真っ白なベッド、真っ白なシーツに身を横たえて、天井を見上げながら考えました。(とうとう自分はここまで来てしまった) 何がここまで来たのか。ただ、人生を真面目に生きていたらここまで来た、死の淵まで来たという感慨です。甘い、感傷的な考えですけどね。しかしそう思わないわけにはいかなかった。(みんなは死なない。だけど自分は死ぬ) 病院の窓からね、元気な人達が見えるんです。小学生が黄色い帽子被って一斉に歩いている。あたかも素晴らしい未来が待っているかのように。私は彼らの背中に無言の内に語りかけました。(君達は未来があると思っているかもしれないが、人生がどうなるかは誰にもわからない。未来はわからないんだぞ) そうです、未来はわからない。みんな、自分だけは安全安心、自分だけは他人と違うと思っている。だけどそれは全部ウソで、気がついたら、ベッドに仰向けになって天井を見つめている。やる事もなく。…いえ、人はそれを『お前だけのもの』だと言うでしょうがね。…私は妻と娘を失い、残っているのはあとは自分の生命だけなのに、今やそれさえも失おうとしている。一体、これは何なんだ。私は何かしたのか。神を激怒させるような事でもしたのか。私ね、ベッドの上で過去を振り返ってみました。だけど、何も思い当たらなかった。神を激怒させるどんな行為も思い出せなかった。思い出したのはほんの小さなイタズラや、ごくくだらない冗談ばかり。小学生の時、野球をしていて窓ガラスを割って弁償したとか。朝まで飲んでいて、会社に遅刻したとか。そんなくだらない事ばかりですよ。それやこれが、私にここまで残酷な仕打ちをするのを許す行為だったのでしょうか? 一体、誰が誰を裁くのか? さっぱり私にはわからなかった。何もわからなかった」

 「後はもうそんなに言う事はありません(長々と話して申し訳ありません)。あれから何年かの時が過ぎました。私は肉腫とずっと付き合ってきました。それだけです。片脚を切り落としました。医者に言われて。だけど転移が見つかった。病気にずっと背中を追われています。足を切ったところで、奴らはついていくる。…というのも、それは私自身ですからね。私自身の一部ですから。私ね、抗がん剤はやめているんです。ついこの間、医者に言われました。ここまで来たらおんなじだ。抗がん剤をやっても苦しい、痛いばかりだから、もうやめてもいいって医者が言うんです。『やめたらどうなるんですか?』と私は聞きました。医者は笑って、答えませんでしたね。『あなたの決める事です、それは』 そう言うんです。実際の所、もう駄目でしてね。私はあと半年も持ちません。そういう事なんですよ。骨肉腫が見つかって今年が四年目だ。嫌な四年間でした。何の為に四年間も生きたのか、自分でもさっぱりわからない。自殺が思い浮かびましたが、できませんでした。民間治療に頼って、珍妙なキノコを食わされたりしましたよ。それで治った人がいるんですって。超能力がある偉い先生に足を揉んでもらったりもした。全部、無駄だった。まあ、それはどうでもいいんです」

 「それでですね。やっと本題です。こんなに長く話して、本当に申し訳ありません。私にとってもこれは、大切な事だったので。それで、やっと、ここまで来ましたね。本当に長々と話して申し訳ない。先生の貴重な時間を取ってしまって。ただ、私は聞きたかったんです。先生に。『生きる意味とは何か?』って。私はこれまで生きてきて、自分なりに努力しているつもりだった。家族や仕事について。でも全ては突風がやってきて奪ってしまった。最後に悪魔は(神はと言っても同じですがね)私自身の命を奪おうとしている。それで思ったんです。『この人生とは一体、何か?』って。きっと、この問いには誰も答えてくれないだろう。同情は答えじゃないからですね。それで、こうして先生の家にやってきたというわけです」

 「ああ、どうして先生に聞こうと思ったか、それについても少し説明が必要でしょう。申し訳ありません、もう少し、話します。話させてください。私ね、入院先のベッドで横になって考えたんです。ベッドの上には実に長い時間が横たわっていますからね。私は考えたわけです。『この人生はなんだろう? 私とは一体、なんだろう?』 それで、私のできの悪い頭では何もわかりませんでした。なにせ、大学も出ていませんからね…。それで、思いついたんです。『そうだ、こういう事は偉い、立派な先生に聞けばいい。何か分かるかもしれない』 私はまわりの人間に聞きました。まわりの誰彼も、学問の事なんかはてんでわからないので難航しましたが、何人かの口から先生の名前が出ました。『あの人なら答えてくれるかもしれない』 私は無学なもので、先生の名前なんて存じなかった。先生の著書がベストセラーになったというのも知りませんでした。恥ずかしい話ですが。それで先生の本を買って読んでみたんですが、どうもわからない。私の知りたい事が書いてあるようで、書いていない。…いや、そんな気がしただけです。なにせ私は無学なもんで、許してください。どうぞご無礼をお許しください…。それでですね、先生の専攻が哲学だというのも後からやっと知りました。哲学? 私はそんなものは人生には不用なものだと思っていましたよ。あんなのは頭の体操で、しっかりした人間は地道に働いて家族を養うものだ。そう思っていました。ですが、自分が奈落の底まで落ちてみてふいに、哲学とか宗教とかいうものがどうしてこの世にあるのか、あったのか、それが何かわかるような気がしました。…もちろん『気』だけですが。そこに、私の求めている答えがあるのじゃないか? そう思いました。それで、先生に最後の質問をしてみようと思い立ったわけです。先生にどうしても、聞いてみたいと。この私の存在は一体、何なのか? 私が死ぬのはしょうがないにしても、せめて死の意味は、生きた意味だけは知りたい。私が全てを失ってボロボロのままに死ぬのだとしても。それでも、答えだけは知っていたいじゃないですか? 例えて言えば、テストで全部間違えて0点取った男が、どうして0点なのか知りたい、そんな気持ちですよ。私は馬鹿だから、どうして0点なのか、それすらわからない。私には全てがあまりに理不尽に思えるんです。理不尽な、神の裁きのように感じるんです…。それで、先生にお会いできないかと色々探っていたら、石森先生が先生の直属の先輩だとわかって、お願いしたんです。石森先生とは私も遠戚でして。それで、石森先生にお願いしたわけです。やっと、ここにたどり着きました。これが、私がここにやってきた理由です。私の理由の全てです! 他には何もありません! …いや、どうも長々と話してすみませんでした。話すのが下手なものですから。申し訳ありません…」

 清水はそれだけの事を一気呵成に語った。喋っている途中でぜいぜいと息を吐いて苦しそうにしていたが、話すのを制止しようとすると、かえって彼の方から私を止めるのだった。彼は額に汗を浮かべながら全てを語った。

 

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