清水の話 1
彼ー清水隆は、私の部屋にやってきた。彼は「先生の足を煩わせたくない」とメールで伝えてきた。それを片脚の男が言うのは奇妙な感じがあった。彼は片脚で、片道一時間の道のりをやってきたのだった。私は彼の苦労を大して考えなかった。(彼がそうしたければそれが良かろう) それだけ考えて、後は彼の到着をのんびり待った。私は彼との話は十分で打ち切ろうと思っていた。その程度で済む仕事とみなしていた。
「お客さんがやってきましたよ」
パソコンを使って仕事をしていると、妻がドア越しに言った。「おーう」と私は声を出した。「入ってもらってくれ」 玄関まで出迎える事もない、と私は思っていた。
男がドアを開けて入ってきた。男は思っていたよりも、大きかった。身長は百八十センチを越していただろう。「失礼します」と小さな声で言った。彼はドアを開けるのも難儀、という風だった。松葉杖をついていて、確かに、片脚がなかった。右足の膝から下がなかった。髪は白髪交じりで、年齢は実年齢よりも十も老けて見えた。髪はボサボサで、顔には深い皺が刻まれていた。人生で多年の労苦を味わった、という風だった。男の目の片方に目やにが溜まっているのが見えた。(この男は大丈夫か?) 私は思った。その時、私はやっと、男が死に近い存在だという事に気づいた。もちろん前もって知っていたのだが、彼を目の前にして、それが「本当」だと思い知った。
「失礼します。先生、お初にお目にかかります。清水隆と言います。…どうも申し訳ありません。先生の貴重な時間を取ってしまって。ですが、どうしても一目、先生にお目にかかりたかったのです」
清水隆はペコペコと頭を下げてきた。(この男は私のファンなのだろう) 私は考えた。(どこかで私を見たのだろう。そうして死ぬ前に私に会いにきたのだ。一度くらい、直に会ってみたい…わからない願望でもない。まあ、寛大にやろう) 私は考えた。清水は上目遣いで私を見た。
「そうですか。私は桜井と言います。桜井冬太です。はじめまして。あなたの話は、聞いています。あなたがお願いした方は私の恩師で、あの方のお願いとあれば、私は喜んで受けるつもりでした…。今日、こうして清水さんと会えたのも何かの縁ですよ。まあ、ゆっくりやりましょう…。大丈夫ですか? その松葉杖…手を貸しましょう」
私は立ち上がって、松葉杖を預かった。彼を対面の椅子に座らせ(彼は片脚で器用に座った)、松葉杖を壁に立てかけた。私は自分の椅子に戻って、彼と向かい合った。
「どうもありがとうございます」
清水はうつむいたまま言った。彼は暗い陰を背負っているような感じだった。
「ありがとうございます。立派な先生に優しくして頂いて…これほど嬉しい事はありません」
「あなたはさっきから私を『先生』と呼びますね」
私は微笑した。
「どういうわけですか? 私を『先生』と…。もちろん、編集者は私をそう呼びますがね。ですが、それは古い慣行ですよ。私はやめるように言ったのですが、彼らはどうしてもやめないのですね。学生らも私をそう呼びますが、もちろん、それは適切な名称です。しかしあなたが私を先生と呼ぶ理由はないはずですよ。もっと…気楽に行きましょう。私とあなたは一人の人間同士としてこうして差し向かいに座っているわけですから」
「いや、申し訳ありません、先生」
清水は頭を下げた。私は彼の頭を見ていた。髪はほとんど白髪だったが、頭頂部が禿げ上がっていた。
「申し訳ありません。ですが、これ以外に呼び方がわからなくて…。それに、私などよりも遥かに偉い立派な先生に、どういう口の聞き方をしていいかわからないんで…。先生と呼ぶのを許して下さい。私など、先生の積み重ねてきた学に比べればなにほどのものでもありません。要する空っぽの人間なんです」
「そうですか、それならいいです」
私はある種の満足を覚えながらそう言った。
「わかりました。先生で構いません。…それで、単刀直入に聞きますが、今日はどういう用件でいらっしゃられたのですか? いきなり本題を切り出して申し訳ありませんが」
私がそう言った時、ドアがノックされた。ドアが開いて、妻が顔を出した。
「お話し中のところすみません。…あなた、お飲み物はコーヒーでいいかしら? それともお茶にする?」
「どうしますか?」
清水に聞いてみた。清水は「お茶で」と言った。
「お茶にしてくれ」
私が言うと妻は「わかりました」と言って、去っていった。私は再び、清水を見た。
「すみません、話の途中で。…それで、ええと、聞いたのは用件でしたね。あなたが、ここへ来た用件を私が聞いたところでした」
私は時計を見た。彼が来てから五分経っていた。
「わかりました」
清水は言った。そうして私の目を見た。目が合った。彼の目の中には何らかの決意が宿っているような気がした。
「ええ、わかりました。その…私が今日、来た理由は、先生にどうしても聞いてみたい事があったからです」
「聞いてみたい事?」
私は考えた。一体どんな質問があるというのだろう? この私に?
「それは何か…哲学に関する事柄ですか?」
「いいえ。それが…お恥ずかしい事ですが、無知な、学問のない者の質問ですが、どうかご容赦ください。先生にどうしても尋ねてみたくて…。私は…私は一体、どうしたらいいんでしょうか?」
そう言うと清水は両手で顔を覆って、泣き出した。急な事に、私は驚いてしまった。この男は何だろう? 何を言っているのだろう?
「…すいません。…取り乱してしまって…」
清水は顔を上げた。私が渡したハンドタオルで顔を拭きながら。
「すいません、こんな急に。ですが…私は…先生ならば、答えてくれるかと、期待してここに来たんです。石森先生に頼んだのもその為です…(石森というのが私の恩師の名前だった)。先生ならば、先生ならば問いに答えてくれるものと…。何しろ、無学なもので。私は大学も出ていません。高校も中退で、働き詰めでここまで来ました。そうしてとうとうこんな有様になってしまったのです。私は片方の足をなくしてしまいました。今はもう空っぽです。本当に、何も残ってないのです。先生ならば、私の疑問に答えてくれるのではないかと…」
そう言うと、清水はまた泣き出した。私は彼をなだめて、とにかく落ち着くように頼み込んだ。そうしている内に、妻がお茶と茶菓子を持ってきて机の上に置いた。私は茶を勧めて、とにかく落ち着くようにお願いした…。
妻は茶と茶菓子を置いていく時、一瞬、私と目を合わせた。泣いている彼を横目で見た後(大丈夫か?)と合図するように私を見た。私は(大丈夫だ)と軽くうなずいた。妻はそそくさと部屋を出て行った。
清水にお茶を勧めると、彼はお茶を飲みだした。一気に全部飲んでしまったので、自分の分も勧めた。「よろしいですか?」と清水は言って、私のお茶を半分ほど飲んだ。茶菓子も一気に食べてしまったので、私の分も勧めたが、断られた。「いえ、結構です。申し訳ありません」
清水は飲んで、食べると、落ち着いたように見えた。私は彼の顔を観察していた。彼は非常にやつれていた。疲れから来たものと思っていたが、違うのではないか、と私は考えた。顔色が悪いし、全体的に肉が垂れ下がっている感じだ。年は六十を過ぎているように見えた。
清水は落ち着くと「申し訳ありません。もう泣きません」と断って、自分の用件を話しだした。私はそれを聞いた。
それは長い話であり、彼の人生の要約だった。
「取り乱してしまってすみません、先生…。今日、お伺いしたのは、先生にお聞きしたかったからです。それは…『私は一体どうすればいいか?』という事です。…いえ、とにかく、その前に、そんな質問をしにきた前提を話して置かなければならないでしょうね」
「先生、私は平凡な人間です。ごく普通の人間です。ところが、ある日、雷に打たれて全てを失った人間になってしまったのです。…いえ、また結論から私は話していますね。落ち着きましょう。…すみません(私はテッシュを渡した。鼻をかみたそうにしていたから) ありがとうございます。それでですね、私は高校中退の人間です。何の学問もありません。大学というものとは無縁で、子供をそこに行かせるのは夢でした。ええ、私にも子供がいたんです。子供が…。子供が大きくなったら是非、大学に行かせてきちんと育てよう。自分ができなかった事を、子供にはちゃんとさせよう。そう、妻とも話していました。そうです、私には妻がおりました。ええ、妻がいたんです。私にも」
「最初から話しましょう。…私は高校を中退した後、しばらく地元で悪さをしておりました。やる事もなくふらふらしていたんです。悪い仲間がいて、一緒に遊んでいたんです。ですがそれを見かねて、東京の叔父が『こっちに来てうちで働かないか』と誘ってくれました。何かを変えるきっかけになればと、一人でこっちに出てきました。そうして叔父の会社で、住み込みのアルバイトを始めました。そこからは比較的真面目に生きるようになりました」
「もちろん、こんな打ち明け話、人生の話は誰にでもある退屈なものでしょう。この日本に同じような人がどれくらいいるか? みな似たような経歴を抱いてあっちこっちに行って、とにもかくにも生きている。私がそんな中の一つを語っても退屈でしょうから、端折る事にします。要するに…私は、こっちに出てきたあたりから心をいれかえて、真面目に働いて、普通に生きてきたのです」
「結婚したのは二十歳でした。会社に勤める事務員の子で、私より一つ上でした。職場で意気投合して、付き合うようになりました。付き合ってから一年経たず、結婚しました。媒酌は叔父がやってくれました。妻とは気が合いました。すぐ、子供が一人生まれました。『子供がいたらいいかもね』と二人で言っておりましたよ。子供が生まれた時は…嬉しかったですよ。もちろん、月並みな喜びです。誰しもが感じてきた喜びであって、ありきたりのものでしょう。ですが…考えてもみてください! 生命が一つ、生まれる! これは素晴らしい事じゃないでしょうか。ぷりぷりとした、ぶよぶよとしてある生命の塊が生まれて、成長すると、言葉を話すようになり、甘えたり、怒ったり、殴ったりするようになる! 不思議な感じを受けました。生命の誕生というものが。…それに、妻の変化も私には新鮮でしたね。妻が、女から母に変わる。それは決して観念的なものではなくて、生理的な感じ。生理的な変化で顔つきも柔和になる。人が変わるんです。生命は生まれるし、人は変わる。私も父親という気分を味わいましたが、妻の変化に比べれば大した事はない。とにかく私は子供が生まれて、幸せだった。この丸っこい生命が自分の子供だと思うと嬉しくて仕方なかった」
「だけど子供は一人きりでした。妻はもう一人欲しいと言って、私も同じ気持ちだったんですが、もう一人はできませんでした。…いえ、正確にはできたのですが、流産したんです。私も妻も落胆しました。妻は『私が悪かったのね。悪かったのね!』と夜中に食ってかかるもんで、なだめるのに随分苦労しましたよ。『お前が悪いわけじゃない。全部神の思し召しだ。仕方ない』 …今、考えればどうしてあの時、私が『神』などという言葉を使ったのか、不思議に思いますよ。私は無宗教でして、宗教なんてのは弱い人間が縋り付くものと軽蔑していました。神様に縋り付くのは自分が弱いからだ。弱い自分を慰めてもらう為に彼らは神様なんてものを必要としている…まあ、そういうわけで、宗教には興味がなかった。でも、その時に『神』なんて言葉を私は使った。私はそれを後から思い返して、不思議な運命の一致のように感じました。不思議ですね。どうしてあの時『神』なんて言葉を使ったのか」
「流産は悲しかったですが、しかし私と妻はそれ以来、以前にもまして精神的にぴったりと合うようになりました。それまでは喧嘩もありましたが、それ以降は一度もなかった。一つの生命を失ってかえって、私達は互いの存在が大切だと改めて気づいたし、それに一人きりの、この子を大切に育てようと相談して決めたのです。あの子は、私達にとって文字通り愛の結晶であって、私と妻が二つで一つである証であるように感じられていました。失ったものは戻ってこないから、今あるものをかけがえのないものと感じ、大切にしよう。そのメッセージが、生まれてくる事もできなかった赤子の、私達への最大の贈り物。私達はそんな風に考えました。それから私達は仲睦まじい夫婦として、働き、子育てに生きがいを見出していきました」
「子供は順調に育ちました。夫婦仲も悪くなかった。私は叔父の会社を辞めて、店を始めました。喫茶店をやってみたいと前から考えていたんです。小さくてもいいから自分の店を持ちたいと。両親、妻の父と叔父から金を借りて、店を始めました。私は一つ一つのカップや、店内の飾り付けにも注意しました。ちょっとしたところ…そうしたちょっとしたところに気を遣う事が商売では重要なんです。そうした小さな積み重ねは、一度二度、店に来るぐらいでは大した印象の違いを生み出さないですが、しかしお客さんというのは結局は、店主がどういう事を考えて商売をしているのか、最後には必ず見抜きます。私は、地元の人達に愛されるような店にしたかった。そうして実際に、それに成功したのです」
「…こんな事は自慢話のように思われるかも知れませんね。いえ、話はこれからです。そう、これからです。娘は順調に育ちました。順調と言っても…高校生の時に彼氏がいるとわかった時はショックだったかな。娘に彼氏ができるなんて想像もできなかった、いや、想像したくなかった、というのが本音です。その彼氏とはすぐ別れましたが。あの頃は娘と喧嘩した事もありました。三人の雰囲気が悪い時もあった。…いや、こんな風にあいつらとの仲を思い出すのは辛いもんですなあ! もうその全てが何の意味もないのですから。憎悪も愛も、飛び去ってしまえば何の意味もない。その時は真剣に喧嘩して、お互いもう二度と口を利くまいなんて思うのですが、飛び去ってしまえば、そう、飛び去ってしまえばもうどっちだって同じ事です。愛も憎しみもね。ただ全てが懐かしい、懐かしいだけなんです」
「また先に結論に行ってしまいましたな。いえ、もう少しです。クライマックスまでは、もう少しです。もう少しの辛抱です。はじまりは…いや、はじまりなんてなかった。先生、現実は物語にも、小説にもなってやしない。ましてや映画。あれは全部嘘です。映画の場合、悲しい事件が起こる時、必ず前兆というのがあるでしょう? …ところが私の場合には何の前兆もなかった。第六感も働かなかったし、お茶碗が真っ二つに割れるなんて事もなかった。ただ全ては急にやってきたんです。そうでした、急でした。どんな映画監督も作家も驚くくらい、急にやってきた」
「喫茶店はうまく行っていました。娘を大学にやれて、やれやれ良かったと私は思っていました。言った通り、私は無学ですからね。娘は大学に行かせてやりたい、というのが念願でした。学費は何とか捻出できました。娘は都内の大学に行きました。第一志望です。受験の日には、私達ははらはらしていましたっけ。合格発表の日、合格がわかった時、私達夫婦はどんなに嬉しかったでしょう! 妻と抱き合って喜びました。妻は子供に手がかからなくなってからは、店の切り盛りを二人三脚でやっておりました。店にはアルバイトの学生を二人ほど雇っていました。要するに、私達は普通の人の普通の人生をなんとか送っておったのです」
「それは突然でした。本当に突然でした! 何の前兆も前触れもありはしない。休日ですね。…そう、休日。こいつが悪いんです。もし休日なんてものがこの世になかったら、あんな風にならなかったろうに! 休日を憎みますよ…私はね。この世のあらゆる休日を憎みます。…日曜日でした。安息日。安息日ぐらい全員寝てればいいのに…馬鹿な、冗談ですよね。今となっては。私は…いや、いいです、話を続けましょう。日曜日に娘と妻は買い物にでかけました。なんでも娘がショッピングモールで買いたいものがあるから、妻がついていくという事でした。店は開いていましたが、客もそれほどでもなかったし、アルバイトもいるから『娘についていっておあげ』と妻に言いました。娘は、どういうわけかその日は妻についてきてもらいたがったんです。何か相談事でもあったかな? 今でも、それはわからない。店番をしている私の横を通り抜けて、妻と娘は店を出ていきました。『じゃあ、行ってきます』『いってらっしゃい』…ごく普通の挨拶でした。ごく普通の。その時、ふと、私は並んで歩く二人の後ろ姿を見てこう思いました。(ああ、あいつもこんなに背が高くなったんだなあ) 二人並ぶと、娘の背のが妻よりも高くなっていたんです。(あんな赤ん坊がここまで育ったんだな) 不思議な気持ちでした。『成長』というものがね! 『成長』というものには驚かされますよ! …私は二人を見送りました。そうして二人は二度と戻ってこなかった」