12 パニックの私と、突撃された第二衛兵班
メイド服のスカートが太腿まで上がろうがお構いなしに、私は感情に突き動かされるまま全力疾走した。
腰にある剣がガチャガチャと音を立てて、まとまりのない波打つ髪先が乱れる中、どこを目指して走っているのかも分からないまま、知っている顔を探して無我夢中で足を動かしていた。
広い廊下に飛び込むと、前方をゆっくり歩く衛兵達の集団があった。そこに見慣れた大きな男の後ろ姿を見つけた時、私は、彼らが第二衛兵班だと気付いて、堪らず泣いたまま叫んだ。
「おッ、――おお女の子を泣かしたぁぁあああああああ!」
私の悲鳴が廊下に響き渡った瞬間、前を歩く男達が「ごふっ」「ぶほぉッ」と激しく咽た。彼らはギョっとしたようにこちらを振り返り、突進して来る私を目に留めて「何事だ!?」と目を剥いた。
直進する私の進行方向を見て取り、ベイマック班長のそばにいた、中堅衛兵のボルツとカインが「ちょっと待ったッ」と途端に慌てた声を上げた。
「エミリアおまッ、今すぐ止まれ!」
「人身事故でも起こす気か!? オルティス、今すぐよけ――」
しかし、彼らが後輩に忠告の言葉を掛けた時には、私は全力疾走のまま、躊躇する事なく屈強で大きなオルティスの身体に衝突していた。
第二衛兵班で一番温厚派であり、危機感に最も鈍い男であるオルティスが振り返りざま、腹部に私の頭突きと羽交い締めを受けてひっくり返った。廊下に巨体が倒れ込む、どしん、と大きな音が響き渡った。
第二衛兵班の間に、数秒ほど重い沈黙が漂った。長閑な一時を打ち破られたベイマック班長達が、しばし唖然として私の下敷きになったオルティスを見た。
「――って違うわ! 何やってんだよメイドちゃん!?」
ハッと我に返ったベイマック班長が、慌ててオルティスの頭部へと周り、片膝をついて「大丈夫かッ?」と声をかけた。部下であるボルツ達が「ひでぇッ」「なんの罪もないオルティスがやられたッ」「オルティスが奇襲を受けたぞぉぉおおお!?」と各々口にした。
私は周りの騒ぎっぷりにも構っていられないほど、精神的に混乱していた。
後頭部を廊下に打ってしまったらしいオルティスが、ベイマック班長に「大丈夫です……」とどうにか答える声を聞きながら、私は顔を起こしてすぐ、彼の上に座ったまま胸倉を引っ掴んだ。
「オルティスさんッ、どうしたら婚約破棄できるの!?」
「えぇ!?」
怒っているのか泣いているのかも分からない私の表情を見て、オルティスがびっくりしたように目を見開いた。彼は戸惑いつつ、「泣いているのかい……?」と気遣うように言った。
走るのをやめたせいか、じっとしていたら余計に頭の中でぐるぐるとして、途端に大量の涙がボロボロとこぼれてきた。ベイマック班長が目を剥いて、周りの男達も飛び上がった。
「おいおい、一体何があったんだよ、鋼の令嬢?」
「お前が泣くってよっぽどだろ」
「ひとまずさ、オルティスに喧嘩吹っ掛けるみたいな感じになってるから、その手を離そうか……?」
おどおどとカインが手を伸ばしてきたが、私は、長男グレイグを彷彿とさせるオルティスの上から降りず、掴んだ胸倉からも力を抜かなかった。
どうしたら良いのか、私自身こんなにも分からないというのは初めてだった。
「女の子が泣いたのッ。ひっく、私が、泣かせてしまったの」
「エミリアさん、少し落ち着こう。話は聞くから――」
「想いがないなら縁を切って欲しいって泣かれて、でも、ラディッシュってひっどい味の『気付け薬』作るけど、……ぐすっ、でも縁まで切るのは凄く寂しいなって、頭の中ぐちゃぐちゃなのよぉおおおお!」
私は、目の前にいるオルティスを兄に重ねて、勢いのまま白状していた。
もう会わない日々を想像したら、走り出さずにはいられないほどの悲しみが込み上げたのだ。ラディッシュは、私が倒れるたびに駆け付けてくれる優しい人で、誰にも言葉で打ち明けた事はなかったけれど、私にとっては大事な幼馴染だった。
彼との軽口も、地味な喧嘩みたいな言葉の攻防戦も出来なくなったら、寂しいと思った。いつの間にか、そばにいるのが当然のようになっていたせいだ。
整理が付かないその想いを、私はオルティスに跨ったまま全部吐き出した。どうしてそんな想像一つで、こんなにも苦しくなるのか分からないのだと、込み上げる感情のまま言葉を口にした。
私がようやく話をやめて、片手を離して涙を拭いだすと、男達が察したような顔で「なんだかなぁ」と悩ましげに見つめ合った。
ベイマック班長がチラリと部下に目配せし、「近くに婚約者君がいただろ、呼んで来い」と吐息交じりに言った。先程までの巡回風景を思い返した衛兵が、なるほどという顔をして「了解」と答え、すぐに走り出した。
ボルツが一同を代表するように腰を屈めて、「あのさ、エミリア?」と珍しく正しい呼び名を口にした。
「俺らは婚約者君の事はよく知らないけどさ、仲が悪いって噂は聞いてないし、そのまま結婚するんだろうなって思ってるよ。うん、これはマジな話な。あんた気付いてないと思うけど、その言い方からすると、たぶん婚約者君のことがすげぇ好――」
視界を邪魔する涙を拭った私は、僅かに緊張を解いていたオルティスの胸倉を素早く掴み直した。
ボルツが「え」と言葉を途切らせ、再び上体を持ち上げられたオルティスが「うわっ」と短い悲鳴を上げた。ベイマック班長達が、嫌な予感を覚えたように顔を引き攣らせるそばで、私は目の前のオルティスに力強く尋ねた。
「言葉もかわせなくなるなんて嫌なのッ。だからせめて婚約破棄に留めたいんだけど、どうすればいいの!?」
私はずっと、その方法について考えていたのだ。考えても分からなかったから、婚約破棄について知っている人に助言をもらいたくて、探していたのである。
すると、オルティス達が途端に「えぇぇええええ!?」と悲鳴を上げた。
「メイドちゃんッ、思考が斜め方向にぶっ飛び過ぎだって! どっかの脳筋騎士団みたいに極端な結論になっちゃってるよ!?」
「班長の言う通りだぜ、よくは分からんが破棄はまずいと思うッ」
「つか、そんなんなら婚約破棄しなければいいだろ!?」
周りの男達に同意するように、オルティスも「エミリアさん、ちょっと落ち着こうッ」と言ってきた。
「それはきっと破棄したくない気持ちもあって、パニックになっていると思うんだ。だから、まず降り――」
「うわぁぁあどうしようッ、女の子が泣いたのよぉぉおおお!」
その光景を思い出して、私は泣きながらオルティスの胸倉を揺すった。そのそばで、カインが「いやいや、君も泣いてるからね」と控えめに突っ込み、続けて自身の推測を口にした。
「どういう状況だったのか僕らには分からないけど、それって『好きじゃないなら別れて』とかそういうものじゃないの? エミリアって、王宮内の事情を知らない令嬢からは人気もあるし、向こうだって強制している訳じゃないと思うんだよねぇ」
私が女の子から人気があるとか、今はそんな嘘の慰めはいらない。
周りの男達が「カインの言う通りだぜ」とそれらしい顔で肯くのも白々しく見えてきて、私は、真剣に相談に乗ってくれていない彼らをキッと睨みつけた。
こうなったら、自分で解決策を導き出すしかない。
私は勢いのまま、オルティスへ視線を戻して胸倉を引き寄せた。
「オルティスさんッ、私と駆け落ちして!」
瞬間、オルティス達が、今度は廊下中に轟くほどの情けない悲鳴を上げた。ベイマック班長が飛び上がり、「婚約者君はまだか!?」と振り返る。
「ちょッ、エミリアさんそれは無理だから!」
「ちなみに駆け落ちってどうすればいいの!?」
すると、そばで聞いていたボルツが「そこからかよ!?」と驚愕に目を剥いた。
「よく分からねぇものに手を出すのはどうかと思う! だから、まずはオルティスの上から降りようぜ、鋼の令嬢。なんだか段々不安になってきたからッ」
「もしくは純潔を失えばいいんでしょう!?」
「エミリアさんなんて事いうの!?」
次はオルティスが目を剥いて、今にも気絶しそうな表情をした。
ボルツが私の後ろ襟首を掴み、引き剥がしに掛かりながら「てめッ、そういう知識をどこから持って来てんだよ!」と言った。カインが額に手をあてて「女の子が口にする台詞じゃない……」と廊下の天井を仰いだ。
その時、息を切らせた一つの美声が、場を鎮めた。
「また騒ぎを起こしていると聞いたけれど、――今度は何を勝手にパニックになってるの、エミリア」
聞き慣れた馴染みの声が耳に入って、不思議と涙の洪水が止まった。振り返ると、そこには息を切らしたラディッシュの姿があった。
いつもは整っているラデイッシュの銀髪と、白衣の襟元は、慣れない全力疾走でもしたように少し乱れていた。普段と違って、どこか冷静ではないような表情も、なんだか珍しい感じになっており、私はそれを目に留めた時、半ば落ち着きを取り戻してしまっていた。
「…………あれ? ラディッシュ……?」
どうしてここにいるの、と私が口の中で呟くと、彼は鬱陶しそうに前髪をかき上げながら「駆け付けたからに決まっている」と吐息交じりに言った。
ラディッシュは、道を開けるベイマック班長達の間を、長い足でツカツカと進んできた。躊躇なく私の腕を掴むと、すっかり身体から力が抜けている私をぐいっと引き上げ、オルティスの上からどかした。
抱き寄せられて膝の下をすくい取られたと思った時には、ラディッシュの腕に抱き上げられていた。慣れない浮遊感に私が「え……?」と戸惑いの声を上げると、落とさないよと答えるように、彼の腕にぎゅっと力がこもった。
「――じゃ、そういう事で連れて行きます」
ラディッシュの視線を受け止めて、ベルマック班長が、目尻の皺を柔らかく伸ばし「よろしく頼む」と苦笑した。オルティスとボルツ、カイン達もほっとしたように胸を撫で下ろし「んじゃ任せた」と、踵を返すラディッシュを見送った。
そのまま歩き出されてしまった私は、慌ててラディッシュの胸板を叩いた。
「『移動させるのは厳しい』んじゃなかったっけ!?」
「少しくらいなら平気だよ」
「ッてそうじゃなかった、自分で歩けるから降ろしてって言いたかったの!」
「それは無理。今の僕には余裕がない」
言葉を返す間も、ラディッシュは風を振り切るように足早に歩き続けていた。
使用人の部屋がある階へと続く、見慣れた細い階段を上がるのが見えた。どうやら休ませるため、部屋に送り届けられるらしいと察した私は、ふと、今更のように頬に残る涙の痕に気付いて、慌てて袖口で拭った。
早々に私の部屋に辿り着いたラディッシュが、就寝時以外は鍵が掛けられる事がない扉を、いつよりも乱暴に押し開けた。




